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茶緑の顔
           
----やまもとあつこ詩集『まじめなひび』ノート



自転車


あっ 自転車や
自転車やで
自転車くるで 横によりや
ほら 自転車きたで
あぶないで--

こんなにも自転車、自転車...と呼ばれて
子供会の長い列のそばを
自転車で通り抜ける

私は自転車をこいでいるのに自転車だけが呼ばれ
自転車は自分だけでない状態を自転車と呼ばれ

私は足が車輪になりそうで
自転車はサドルからニョキニョキ胴が生えそうで

私でも自転車でもない物体が
走っていく


 そういわれれば、そうだなあ、と、思わず笑いを誘われたあとで、ちょっと思索の足をとめてみたくなるような作品だ。こういう体験はだれにでもあるとおもう。呼称の問題として考えると、乗り物一般に、同じような言い方が使われているはずだ。車がくるから危ないよ。。。でもそういう場合には、ほとんど奇妙な感じはしない。自転車の場合は、人馬一体というようなところがあるので、乗っている側からすると、「私が(その存在を無視されて)「自転車」と呼ばれている」という、不条理な感覚がすっとよぎることがある。もちろんこれは理由があることで、相手は来るのが「(自転車にのった)人」でなく、「(人ののった)自転車」であることだけに注意を呼びかけているのだ。「自転車にのったやまもとさん」が来るから危ない、といえば、自転車が来るから危ないのか、やまもとさんが来るからあぶないのか、わからなくなってしまう。。ともあれ、作者の想像力は、この奇妙な言われ方を足がかりに、人馬一体ならぬ、人自一体のイメージに飛翔していく。たぶんありふれた現実のなかに、ひとつのほころびのようなものをみてしまい、そこからそのほころびをおしひろげるように、(現実的な制約のない)別の世界にぬけていこうとするようなこと、そういう手法とも資質のなせるわざともいえそうな傾向が、やまもとさんの詩のひとつの魅力的な特徴になっているように思う。


くすんだ茶緑


二年生のとき
ニワトリを描いた
臭いのをがまんして描いた
先生に 足が細すぎる
こんな足では立てないよ と言われ
イヤイヤ太い足にする
足ばかりが目立つ妙な生き物になった

四年生の秋
絵のうまいみさおちゃんが転向してきた
そのみさおちゃんとすぐ仲良しになったまりちゃんは
いつもみさおちゃんの絵を真似していた
運動会の絵なんかそっくりなのに
掲示板に二枚一緒にはりだされても
誰もあんまり気にとめていなかった
みさおちゃんはパレットを洗わない主義だったので
わたしはそれを真似した
四年生がおわるころ
パレットは茶色と緑におおわれた

五年生になって
みさおちゃんともまりちゃんとも違うクラスになった
わたしは自信をもってパレットを洗っていない
友達の顔を描くときも
洗っていないパレットに白と黄土色と朱色を出して
筆に水をふくませて混ぜていく
はじめは肌色ができるが
そのうちにパレットにこびりついていた色がしみ出してきて
画用紙のじゅんこちゃんの顔は
だんだんくすんだ色になっていく
先生は パレットを洗わないから
そんな色になるんだ と言う
じゅんこちゃんは何も言わない
わたしはさらにパレットに筆をこすりつける
くすんだ茶緑の顔ができあがるまで


 不思議な味わいのあるいい作品だと思う。どこか未解決な謎のような余韻がのこるのは、できあがった茶緑の顔の絵そのものについて、「わたし」がどんなふうに考えているのか(いたのか)が窺えなくて、そのまま読者に判断をなげかけているからだ。じゅんこちゃんの沈黙という行も、かくし味のようにその印象をひきたてている。前段に書いたことにひきつけていえば、この不思議に判断を宙づりにされたような世界が、現実のほころびをおしひろげてできた別の世界ということになるのだと思う。
 自分が好きなように絵をかいていた。すると先生から、思いつきのように常識的な視点から欠点を指摘され、いやいや描き直したことがあった。みさおちゃんの絵を、そっくり真似したまりちゃんの絵が、並んで掲示板にはりだされたのに、誰も気にしていなかったのも、変なことのように思えた。こうした誰にでも覚えのあるようなエピソードで示されているのが、絵についての評価の基準をめぐる、現実(先生やみんな)と自分とのずれの感覚の記憶というようなふうにも読めそうに思う。みさおちゃんの「パレットを洗わない主義」をまねしたとき、「わたし」は、たぶんそういう違和感の体験をもとに、なにか自分が先生やみんなと違うものを感じていて、それゆえにこそ絵を描くという世界に魅力をかんじていったのかもしれない。しかしパレットを洗わない、というのが大丈夫なのは油彩絵の具の場合であって、水彩でやったらよほど注意しないと混色してしまう。どんどんくすんでいくじゅんこちゃんの顔は、その混色が予期しないことだったという意味で、「わたし」にも予想外のことだったように思える。しかしなにかこの予想外のことは、おきてしまったことなのだ。先生は相変わらずもっともなことをいうが、「わたし」はもう幼い頃のようには耳をかさない。として、「くすんんだ茶緑の顔ができあがるまで」、「わたし」は「パレットに筆をこすり」つけ続けるのだが、ここで描かれているのは絵なのか、詩なのか。。。





何事もなく

歩いているのだけれど

軒下に置いてある

砂まじりの水が

気にかかり

とっさに手に取り

いっきに飲みほしてしまう

よくない味はしたのだけれど

体の心配ではなく

今の行為を

誰かに見られたのではないかと

そのことばかり気にかかり

できるだけ遠くへ遠くへ

足を運ぶ




 歩いていて、軒下に置いてあった(何かの容器に入った)砂まじりの水がなぜか気になり、一気に飲み干してしまう。すると、その結果がまねくかもしれない体の不調よりも、今の行為を人にみられたのではないか、というふうに気持ちが囚われていって、その場からできるだけ遠くに、という思いにせかれて足を運んでいく。なぜ砂まじりの水を飲んだのか、その理由が伏されていることが、この作品にミステリアスな印象をあたえているのだが、ただ飲みたくなったから、としかいえないとしても、その行為そのものの意味は結果としておきるかもしれない体の不調という事態とともに、たぶん話者にとって、ひきうけられている。そのうえで、気がかりは、その行為の意味を説明できそうにもない他人、誤解するしかないであろう他人の視線にむきあうことなのだ。砂まじりの水を飲む、という行為は、この朝の路上という「現実」の場のなかでは、茶緑色のじゅんこちゃんの顔の絵のようなものとして他人の目に異様にうつるかもしれない。自分がひきうけた世界とその果実ともいうべき世界の場所が、この地続きの世界にはない。たぶんそういう伝えがたいような哀しみが、自分でも予期せずに禁忌にふれてしまったときのような体験のスケッチとして描かれているように思う。


車道の人


国道25号線
車ではしっていると
むこうから
車道を人が歩いてくる
はしる車ぎりぎりに人が歩いてくる
黄色い服の人

私はスピードをゆるめ
近づいて
近づいて

顔が

はっきり
見えた

泣いている

どうしようもなく
泣いている

涙もなく
泣いている

声もなく

泣きながらも同じ歩調で前を見つめ
私の横を通り過ぎる
サイドミラーの中に黄色い後姿

私にも
泣けるだろうか

ひきつるほどの力で
真面目な日々を
泣きたく
なった


 自転車に乗っていて、にたような経験をしたことがある。泣きながら歩いているひととすれちがい、すれちがったそのことが瞬時にみた希薄な夢であるかのように遠ざかってしまう。そういうときの印象には名状しがたいのものがある。どんな事情があったのだろう、ととっさに想像するけれど、そういう情景にであって、あんなふうに、自分もこの路上で泣けるだろうか、と思いなす「私」の気持ちの動きには、ちょっと独特のものがあるように思える。たぶんここで黄色い服の人の泣き顔を目撃した、というできごとは、ちょうど「朝」で砂まじりの水を飲んでいるときの自分の姿を、通りすがりの自動車の車窓からみていた自分、というふうに、うらがえしてみることができそうに思う。泣きたくなる理由というのは、茶緑の顔の絵を描いた本当の理由(「茶緑の顔」)や、砂のまじった水を飲んだ理由(「朝」)のように、伏せられている。ただこの「真面目な日々」は、「朝」の路上につうじていて、「私」の内奥の感情の流路をどこまでも禁圧しているように思いなされている。言葉は、さりげなく自身にとっての詩の書かれる理由にふれている。


 




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やまもとあつこ詩集『まじめなひび』(2007年8月1日発行・空とぶキリン社)






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