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大切なもの
           
----金井雄二詩集『にぎる。』ノート



箪笥


六畳間の片隅に ひっそりとあった 桐の箪笥
木のぬくもりと 剛直な感覚を 併せ持つ
引き出しをあけるとき 箪笥の鐶がゆれる リズムよく

カン カタン
カカン タン

カン カタン
カカン タン

母親の嫁入り道具 鼻の奥の 樟脳の匂い
はるか、の、記憶 灯りもつけぬまま 夕闇を迎えるころ
ぼくは箪笥の前で 真っ赤な汗をかき 初めて自慰をした

カン カタン
カカン タン

カン カタン
カカン タン


 金井さんの詩集『にぎる。』の「あとがき」では、紙屑を丸めて紙玉をつくる、というご自身の癖についてふれられている。

「ポケットの中で、紙屑をごそごそと丸めている。紙の端々が手の
ひらにときどき当たる。紙は手の中で角が取れていく。ギュッとに
ぎりしめる。また紙の角が当たるのがわかる。手の中で丸めていく。
五本の指の先を使って、形を決めていく。どのような形かって?も
ちろんまん丸な形に。微妙な力を入れながら、角を潰す。この手の
動きを何度も繰り返している。しだいに球体に近づいていく紙。堅
くなっていく紙。紙でなくなっていく紙。紙玉をつくるのはぼくの
一種の癖である。
 ぼくは詩を、いつも紙玉をつくるような感触で創ってきたかもし
れない。最後にはなめらかな球体をめざすが、どうしても完璧には
ならない。完璧なものが書けないからこそ、また次の作品を一から
書き直す、というように。」

 ここではポケットの中で紙屑をしだいに球形にまるめていくときの感触が、詩を自分で満足いく形にしあげていくプロセスに対比されているのだが、このおもいがけないような対比の構図をとても興味ぶかく読んだ。たぶん詩の創作行為というのは、人の目的意識的な行為一般になぞらえることが可能だ。絵を描くこと、作曲をすること、彫刻をすること、といった芸術の創作行為に限らず、料理をつくったり、掃除をしたり、散歩をしたり、というように、結びつけようと思えば、どんな行為のプロセスにでも、似ているところを見つけてそれなりに関係づけることができそうに思う。けれどこの紙屑をポケットのなかで手のひらや指先の触覚だけをたよりに球形にまるめていく、という行為との対比が、あまり恣意的な感じがせずにどこか説得力を感じさせるように感じられるのはどういうわけだろう。結論的に書かれているのは、完璧な作品をめざして試行錯誤する過程が、紙屑のかたまりを微妙に指先で形をたしかめながら徐々に球形にしていく過程に似ている、ということだけなのなのだが、この文章の前段の紙を丸める過程を描写した部分には、たぶん男性の自慰行為のイメージが意図的に溶かし込まれているように思える。もちろん詩作は一種の精神的な自慰行為である、という言説も別に珍しいわけではない。ただそれはそんなふうにも言えるということに過ぎず、問題はいつもそういう対比によっていいあてたい何かのほうなのだ。。


握っていてください

蛇口をひねるあなたの手で。包丁を持つあなたの手で。ミトンの鍋
つかみの中に手を入れるあなたの手で。赤ちゃんの手を握るように。
やつれた母親の背中をさするように。開いた傷口にそっと薬をぬり
こむように。ぼくの陽の当たらない寂しげな部分にあなたの手をそ
えてやってくださいませんか。

日陰者のわりにはあたたかい場所なのです。ぼくはいつも眠
る前に必ず一度は握るのです。ものごころつくころから、ずっと。
ずっと ものごころつくころからのご縁なのです。切ろうとしても
切れない遮二無二あり続ける塊なのです。最近では無理矢理に断ち
切ってしまう方もいらっしゃるようですが多くの人たちはしっかり
とそこに存在しているみたいなのです。またぼくも例外ではござい
ません。人間そのものの根源とに誓っていつもやさしく握りしめて
いるのです。

できればしっかりと見つめてほしいのです。人が話しをするときに
人の眼をしっかりとみつめているように。あなたの眼がかがやくよ
うに。そしてぼく自身もしっかりと起立していたいのです。あなた
の視線でどうかぼくを縛りつけてください。やさしさのかたまりで
ぼくはすべてを支えてもらえることでしょう。そうしてからあなた
の五本の指をぼくのたよりないものに絡みつかせてほしいのです。

いつになっても帽子が脱げませんでした。夏のあいだは陽を避ける
ために。冬の寒い日には耳まで覆いかぶさる毛糸の帽子を。北風の
ときにはあごにゴムひもまでくくりつけてぼくは帽子をぬぐことが
できませんでした。春一番にも秋の木枯らしも。いえいえ落下する
異物にたいしても帽子は非常に意義あるものでした。ぼくはいつも
目深に帽子で頭を覆っていたのです。あなたは帽子をやさしくとっ
てくださいましたね。

あなたが触れようとするものはあなたの大事なもの。そしてぼくの
命にかかわるもの。人に触れさせたことがないもの。他人に見せた
ことがないもの。ぼくはこれを大切に毎日さわって確かめている。
やわらかくてときにかたいもの。熱いもの。涙もふくむ ぼくのや
るせなく苦しい 皺がいっぱいの。
あなたのその手で ぼくのを握ってください。
あなたのその手で ぼくのを握ってください。


 たぶんこんなふうに、男性が自分自身の生殖器の所在を自己関係的に意味づけ、異性への求愛的な表現と絡み合わせて直接的にうたいあげた現代詩の作品が書かれたのははじめてのことではないか、と思う。もちろん私が知らないだけかもしれないのだが、なにかあたらしい世界の扉がふっと押し開けられたような感触を読んでおぼえた。難しい言葉はつかわれていない。いわれている内容も明快だ。しかしどこか風通しがよすぎる、というようなところがある。この不思議な感触はなんだろう。それは語られていることが、あまりにも明瞭な信のかたちをまとっているからではないか。作品では、自分にとって自分の身体の一部である男性器が、いかに大事なものであったか、ということの解説が、そのまま、そのように自分が大事にしてきたものとして、「あなた」にも扱って欲しい、という誠実な願いと結びついている。それはたぶんとても正当的なことなのだが、そういう言い方のもつまっとうさのようなもの、そういう言い方が可能なおおらかで親密な人間関係というものから、私たちの世界があまりに疎遠になっているので、ここで設定されている「ぼく」と「あなた」の関係がまぶしすぎるように見えるのかもしれない。これを異性の側からの求愛の告白におきかえれば、このまぶしさはその調子をかえるように思える。たぶんそういうことには、私たちの「性」を巡る文化の偏りということが少なからず関わっていることだろう。


きみの場所だよね


不思議だな
手を動かして
そっと置いてみると
ちょうどいい場所にあるんだ
子ども心になぜだろうって思っていたけど
毎晩眠りにつく前に
あきることもなく
自分の手をその場所にあてがって
軽く触れてみるんだ
ときどき握ってみたりもするんだ
すると自然に落ちつく
ぼくの心に平和が訪れたのさ
土砂降りの雨がふっている晩にも
ぼくはさわやかな草原にいたし
昼間、さんざんに怒られたときにも
山の頂から下界を見下ろしているような気持ちで
眠ることができるんだよ
だから男は
このグチャグチャな闇のなかを
生きていくことができるんじゃないかと
思った
がしかし
人生にはいろいろなことがあるものさ
ぼくはときどき
角度をかえて手をのばすと
そこにはまた
不思議なことに
別のものがあって
たぶんそこは君の場所だよね
ときどくおじゃましちゃってごめんね
ぼくにはまた
新しい平和が訪れる気がするのさ


 「ぼく」の生殖器との自己関係が肯定的に意味づけられているという意味で、「握っていてください」の変奏のような作品だと思う。たぶんこういう誰にでもありながら語られることのなかった情緒のきりとられかた自体がとても新鮮で、そのことの意義は強調しておいて良いと思う。どちらの作品でも、「きみ」は、「ぼく」の分身であるかのような、一方的な親密感や信頼感にそめられている、という感じがする。象徴的にいえば、この作品では「自慰行為」と「性行為」が、同じように自分に「心の平和」をもたらすイメージでとらえられている。ここにはたぶんひとつの跳躍がかくされている(たとえば、現実の他者(きみ)との関係は、「さんざん怒られたこと」といったトラブルを内包した関係の側にある)のだが、そのことにあえてふれないことで、優しい寝物語のような雰囲気のなかで、人にとって本当に大切なことはなにか、という問いのうながしのように作品が描かれているように思える。


もう少し


もう少し
と言って
君はその場所を立とうとしない
もう少しとは
いったいどのくらいのことを
さしているのだろうか
しばらく
ぼくは
頭の中を行ったり来たりしている
その言葉に含まれているものを
考えていて
もういいかい
と聞いてみると
まだそこに座ったままで
ふたたび
くりかえすだけ
遠い忘れ物も
今は見えない
波の色も重たくなってきている
上空にはほどよく風が吹いていて
やがて白い雲が太陽をおおいかくしながら
あとわずかで
そのまま音もたてずに沈んでなくなってしまうだろう
たぶん君の発した
求める言の葉は
ぼくらにとっては
追いつくことができないものなのだろう
まもなく
ぼくは君に手を差し伸べる
小高い丘の上
波を見つめながら
いつまでたっても
もう少し
とだけしか言わない


 詩集の最後に置かれたこの作品は、すこし謎めいてる。この謎めいた感じは、「君」のいう「もう少し」という言葉がふくんでいる意味に、「僕」同様に読者も考え込まされるところからきているのだろう。一見「君」は小高い丘の上から波をみつめ、はるかに暮れていく夕暮れの景色に見入っているだけのように思える。「もう少し こうしてこのまま波の色が変わるのをみていたい。。」。けれどどうもそういうことではないらしいことが、「たぶん君の発した/求める言の葉は/ぼくらにとっては/追いつくことができないものなのだろう」という「ぼく」の感慨からみてとれる。だれか、あまりに理想を追い求めるがゆえに、その場に留まっているような友を気遣って、なかば途方にくれながら思いやっているようにも思えるのだ。受け取り方はさまざまかもしれない。けれどこうしたむしろ「君」と「ぼく」が了解しあうことの難しさを暗示するような作品が最後におかれることで、「手を差し伸べる」ということの意味、「握る。」というこの詩集のタイトルに作者がこめたかった意味が、大きなひろがりのなかで伝わってくる、という感じがした。


 




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金井雄二詩集『にぎる。』(2007年8月25日発行・思潮社)






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