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生命をめぐって
           
----苅田日出美詩集『川猫』ノート



生命記憶


C・Tスキャンでヒトの頭部の輪切りを見ると
眼の部分では不思議なほどに
トンボの眼玉に類似していて驚かされる

はじめての角度から自分を見ると
意外なほどに生命としての共通の構図があって
生命リズムの畏れのような感動が
こころとからだに伝わってくる

ヒトだけがもつ「遠いまなざし」というのは
過ぎ去ったものを思うというより
自分の内部に向かおうとするまなざしのこと

波の音や心音のレコードが売れるのも
原初の生命は海で生まれたから
それとも母の胎で
羊水に浮かんでいた名残なのか

波の音は揺籃になる
古代のヒトが愛したという勾玉の形をもった
胎児たちが泳いでいる

見てはならないものまでも
C・Tスキャンでのぞいてしまう
ヒトの内には
海のようにひろがって輝いている

生命があるので眩しくて
つい眼を閉じてしまいますのに


 詩集冒頭におかれたこの作品は、この詩集『川猫』全体をつらぬくひとつの大きなテーマを、序章のようにうちあけているところがある、とまずいえそうに思う。そのテーマとは、あとがきで、

「ヒトの生命を自在に扱うことも可能になった時代のことを私なりに考え感じたことを書いてきた。
それらが「文化の病」であるとしたなら、自分なりにカルテのようなものを残しておきたいと思った。」

と記されているようなことで、主に先端医療や、生命科学の進展からもたらされる知識情報についての、著者の関心「考え、感じたこと」が、詩のことばで綴られている、といってもいいと思う。この作品では、C・Tスキャンで撮影された頭部の輪切りの映像をはじめてみて、眼の部分が蜻蛉の眼球に酷似していると思えたことの驚きが、そのまま蜻蛉とヒトをつなぐ生命としての類似性(生物進化の連鎖)の連想につながっていき、「生命リズムの畏れのような感動」を自分にもたらしたと書かれている。たぶん自分の覚えたその感動の質は、ヒトだけがもつ「遠いまなざし」とでもいうべきもので、過去にむかう(生命としての過去を観念的に想起する)、というより、自分の内部(生理的な記憶の古層に)にむかう、というようなことではないのか、と。思考はここでちいさく旋回して、「波音や心音のレコード」が求められるということも、それに類したことではないのか、と連想がつながっていく。そこから浮かび上がるイメージの世界は、古代の海や羊水のようなところで「勾玉」のかたちをした胎児たちが泳いでいる、というようなものだ。しかしその光景を思考はまた対象化してしまう、という後連に、この作者の思考の特徴のようなものが、よくあらわれているように思える。ひとつは、C・Tスキャンの画像をみることを、「見てはならないもの」を覗く、というような、ある種の禁忌にふれるときのような(倫理的な)意味づけがされていることと、ひとつは最終連で、また別の角度から、見ることのいみを、いくぶんか距離をおいてユーモラスに相対化しているようにみえるところだ。

 この作品のなかで直接ふれられているわけではないが、作品の前段や、ヒトだけがもつ「遠いまなざし」といういいかたに、『胎児の世界』を書いた三木茂夫の思想との共鳴を読みとるひとは多いと思う。後段の波音や心音のレコードにふれたくだりでは、思わず別の項で引用したばかりの根本明さんの詩「鳥を聴く」の最終部を思いだしてしまった。


声、それはもうひとつの生の姿
私は忘れ錆びた色彩の中に街を見失う
胎児のとき、何を聴いた?
でき得ればいまいちど
自身をふりほどいて
小公園で細い川としてさやぐ木々のみず音や
軋むブランコの鎖の音、幼い子の声、窓をあける老いた人のしわぶ
 きのなかに
心音を置き私の血流に世界の切れ端を映したい
(「鳥を聴く」より)

 もちろん作品のスタイルも作品にこめられた意味あいの志向性にも違いはあるのだが、この偶然私のめにふれた作品の比較からも、もしかすると作者の個性ということをこえて、外界と内界をどこかで結びあわせたいような時代の希求が、無意識の要請のようにうかびあがってきている、ということも想像できそうな気がするのだった。


 先端医療や生命科学の進展という分野の「時代のカルテのようなもの」という意味で言うと、詩集『川猫』には、さまざまなテーマが、おおくの作品でとりあげられている。現代では、受精卵は、零下196度の液体窒素タンクの中で冷凍保存され(「生命」)、脳神経の小さな腫瘍も「MRI(磁器共鳴診断装置)」によって発見されるようになり(「コンポジション」)、超音波画像の診断で8ヶ月の胎児が外部の音に反応することがわかったことから、新しい「胎教」のように、胎児に「G線上のリア」を聴かせるということが行われ(「結ばれ」)、人工一卵性双生ウシがつくられ(「地球型DNA生物考」)、脳死移植が行われる(「Heart」)ようになっている、等々。もちろんそういう情報としての「事実」にふれて、なにをどう「考え感じた」か、というところに作品が書かれるので、そうした「事実」にふれたときの驚き自体の共感といったことから、作者の心に垂線をおろすような世界の開示にいたる、ひとつのひろがりとして、この詩集が成立しているのはいうまでもない。


家・イエ

     〈これは暗い家 ずい分大きいわ 私が自分で作ったの〉 シルヴィア・プラス


私もせっせと家を作ったのだけれど
それは暗い家ではなくて
とびきり明るい翳りのない家
寝ころがると空がひろがり
踊り場には小鳥が唄うステンドグラスもはめこんで
壁はすべて白にしたわ
お気に入りの台所には腐臭がこもらないようにして
収納庫もたっぷり作ったの

でもどうしても帰りたくない
とりわけ台所にははいりたくない
モヤシのように芽を出しはじめた馬鈴薯や
玉ねぎや 芯のところで腐りはじめたかぼちゃがあって
みんな私のほうをむくから
食器戸棚にしまっても床下にしまっても
芽をふりかざしては
みんな私を追いかけてくる

 母さんは木の芽どき
夫も子供も私のことをそのように笑うけれども
もうこれで終わりにしましょう
指一本で夫も子供も家の外へ放り出しておきましょう
これは私が自分で作ったの
完璧な箱庭よ


 一見して優しい言葉で「私」の悩みが書かれていて、ラストにその明快な解消法がぽんと示されることで、さしだされたテーマそのものを自分で回収してしまうような、どこか不思議な印象を与える作品のように思える。生命科学をめぐる倫理の問題にめをこらしているような作者が、一方でどうしてこういう作品を書き、そうした諸作のなかにおかれたのだろう。そんなふうに、たちどまってみると、ここで語られていることが、いくつかの作品に関係づけられそうに思えてくる。ひとつは、自然と人工性ということの対比だ。ここでは、「家」が、まったき「私」の理想化されたイメージによって人工的に構築されていて、その中で、制御できない自然(台所のなかの野菜類の発散する生物としての自然生理)が排除できないことが、家人にも理解してもらえない「私」固有の悩みとしてとらえられている。こうした感覚は、閉めきった寝室で、自分の体臭(ヒトという生物の匂い)に思いをはせる作品「夜・ヨル」にもかようものがある。明るくて清潔な家をつくるために奔走したという「私」の受難のエピソードは、いくぶんかの誇張をこめたように書かれているが、現実に誰にでもおぼえのありそうなことながら、あっけらかんとした結末部分が、現実にはありえない「時代」の風刺になっている、といえるかもしれない。「夫も子供も家の外に放り出」す、といったことは、現実にはかなわないにしても、観念のなかで、私たちは同じことをやっているのではないか、というように。では、この作品は、自己イメージ優先で清潔志向の時代風潮を軽く揶揄するような、一種の寓話のように書かれているのだろうか、というと、そればかりではないことが、『季節と空間』という作品から分かる気がする。


季節と空間


その部屋には正面に棚があっていろいろなおもちゃ(箱庭の材料)
がしまわれている。それを自由に運んできては、与えられた箱のな
かに自分の世界をこしらえていく

ローエンフェルトの考えた箱庭で治療する先生は黙ったままで患者
の私もしゃべらない

私はこれで3回芽の箱庭づくりに来ているのだが いつも最初にも
ってくるのは頑丈そうな柵なので 箱のなかを柵ばかりで囲ってし
まってその真中に閉じ込められてしまうのは、自分の分身である人
形なのだ
また2番めに好んでつかう材料は扉で 柵と 決して開かない扉な
どで箱の中はますます狭く区切られる

4回めの箱庭づくりは1週間後の今日である筈だから そのときは
もう少し変化した箱庭になっているのかもしれないと--こう考える
私はたしかに正常なので 閉じこもらねばならぬような私などどこ
にもいない

たとえば新郎新婦を乗せた車が 祝福に訪れた人の列に思いきり突
っ込んだとか
母親を刺殺したのは息子だけれど 実のところは母親の方が先に出
刃包丁をふりかざしていたのだとか
泣きさけぶ自分の子供を2人とも橋の上から投げ捨てたとか
錯乱のヒトはいま世界に溢れているというのに

私が自分の台所にどうしても立ちたくなくて 台所の入口で恐ろし
さに震えてしまう ただそれだけのことなのに 電車とバスを乗り
ついで箱庭づくりに通っている

季節はまことに残酷で 片隅に転がしたままでいた球根や 弥生期
のマメの種子まで芽吹かせる
どこかでヒトが不用意に落としたままで 意識の奥で埋もれていた
阿頼耶の種子が いま芽吹こうとしているのかもしれぬ


 この作品は、「家・イエ」の後日談のようによめそうなところがある。ただ語り口から、すこし言葉のでどころが違っていて、この作品では、もうすこし言葉が地についているといったおもむきがある。もちろん、「家・イエ」に登場する「私」もこの作品に登場する「私」も、実作者そのものではなく、作品に書かれている体験が事実をそのまま述べたものではないということは前提なのだが、私たちは書かれたことばのなかから、ある種の直観のようなもので、「事実」ということのいくばくかの片鱗がそこに編み込まれていることを瞬間のうちにみてとっている。そういう心の動きを論理のうえで否定することはある意味たやすいことかもしれないが、否定することばのたくみさの中にさえ、私たちはむしろある情動をよみとってしまうのだ。「人間の心は、情報という実体を「入力」されるのではなく、刺激をうけて「変容」するだけなのです。」(西垣通)とは、そういうことではあるだろう。ともあれ、「家・イエ」の中で、めざされた完璧な家が「箱庭」だと比喩的に語られていたのたいして、この作品では、「箱庭」そのものがめざされる(心象)としての「家」になっている。箱庭療法では、使用される道具が限られているので、「私」が無意識につくりあげたい「家」のかたちが、おもいのほか象徴的に浮かびでてくるところがある。「柵と 決して開かない扉」に囲まれた部屋の中央に「自分の分身である人形」が閉じ込められている、というのが、「とびきり明るい翳りのない家」(「家・イエ」)の実態だ、というように。このことの異常さを「私」が感じていなくて、むしろ異常性を積極的に否認している、というふうに「書き手」が想定しているのは、とても微妙なところだと思う。それにしてもこの作品のなかの「私」が「箱庭療法」に通うことになった動機も、「自分の台所にどうしても立ちたくなくて 台所の入口で恐ろしさに震えてしまう」という、「家・イエ」の「私」の感じたのと同じ、不全感なのだ。放置された馬鈴薯からモヤシのような芽が吹き出ることや、タマネギやかぼちゃが芯のところから腐敗しはじめること、片隅にころがしたままの球根や、マメの種子からでさえ、芽がふきでること、それらの自然現象がなぜ恐ろしいのかといえば、「ヒトが不用意に落としたまま」という言葉がその理由を暗示しているように思えるところがある。その言葉は、作品のなかでは「意識の奥で埋もれていた/阿頼耶の種子が いま芽吹こうとしているのかもしれぬ」といういいかたで、回収されている。  が、本当はこの言い方も、「家・イエ」の終わりかたのように、事態の解決にはなっていない。植物の予期せぬ生長や腐敗過程に感じる恐怖感の由来を、自らの「阿頼耶の種子」が感応しているせいかもしれない、というのは、家人に「母さんは木の芽どき」といわれたのと同じような発想の延長のうえにある気がするからだ。
 理路のうえからいえば、「私」の資質の、ある種の完璧主義のまといがちな潔癖感のようなものがこうじて、自分の意志と無関係に生じる物事(生物の腐敗や生長)に耐えられなくなった、ということかもしれない(体臭嫌悪や、手を何度洗っても気が済まない感覚のように)。そういう「症状」としてみれば、まさにそういう理路を自覚的にたどりなおすことで、「症状」はいずれ解消するかもしれない。けれど、どちらの作品でも問いは投げかけられたまま、正確に(というのもへんだが)もとの場所に回収されているように思える。

「阿頼耶の種子」という言葉に「書き手」がこめたかったことは、「書き手」自らの批評意識の根源にふれる、ということではないのか、と想像してみる。そんなふうに読むと、なぜ「私」が事態の異常性を積極的に否認している、のか、ある意味生活の持続の困難さが予想されそうなほどの深刻な事態を描きながら作品にある種の余裕やゆとりのようなものが感じられるのはなぜか、という理由がとけそうな気がする。というのは、この二作品は「家」や「箱庭」ということを素材にして「書き手」自身の詩意識について書かれた作品なのではないか、というふうに読みとることができそうな気がするからだ。そうすると、これらの作品の詩意識は、ある作品としての完成をめざしながら、その対象世界の中に、どうしてもひきこまれてしまうものをかかえているがために、そのことの不全感によって、作品が変容してしまう、といった体験を記していることになる。生命科学の進展のもたらす様々な問題が、なぜほかでもなく自分にとって(だけ)は、重要な関心事のように思えてしまうのか。そういう問いに明確な答えはない。ただその不全感の由来は、ふだん「モノ」として見がちな植物のそなえた自然性になぜか心を奪われたり、自らもまた「ヒトという生物の匂い」をもった生き物である、という気づきに向けられる注意というものと結びついていて、その垂線を深く下ろしていけば「阿頼耶の種子」(大乗仏教の唯識思想でいう、人間の潜在意識。a-layaの語義は「住居・場所」であり、その場に一切諸法を生ずる種子を内蔵しているといわれる。)というイメージにいきつくかもしない。そういう微妙なニュアンスで、作品の詩意識は、その不全感もふくめて、「私」は「世界」をひきうけて作品を書き続ける、といっているように思える。


川猫


川底に猫がいるなんて
そんなウワサを信じなければよかった
川のなかを覗いたりしなければよかった
川のなかに何時から猫がいるようになったのか誰も知らない
それは なぜか川藻のようなものをまとっていた
見てしまったヒトはみな 竹竿でつついたり
セメントの浮き袋を被せたりして
猫を見なかったことにするのだが すぐに浮き上がってしまうのだ
だれもが自分の目前から猫の姿を消したくて
竿だけでなく石を投げたりするのだった
私はこれが猫でなくヒトの死体だったらもっとニュースになるのでは
ニュースにしなければと 家にあった男の死体を川に運んだのだけ
れど 男の顔に猫を被らせるのを忘れてしまった
あなたの男はやさしい 人当たりが良い 律儀な人だ という評判どうりの
猫を被らせるのを忘れてしまった
川底に男が沈んでいるなんて
そんなウワサを信じるヒトはいなかった
川のなかを覗いたりするヒトはいなかった
川のなかにヒトを被った猫がいるというウワサはあったが
そんなウワサを信じるヒトはいなかった


 どこか不思議な印象をのこす作品で、この作品のタイトルが詩集タイトルに選ばれている、ということも一見すると不思議な感じがする。あとがきにあるように(人間の生命科学が)「ヒトの生命を自在に扱うことも可能になった時代」の「文化の病」のカルテのようなものを残しておきたい、ということが、詩集のテーマだったのだとすれば、そうしたテーマに直接にふれた作品は他にいくつも収録されているように思われるからだ。けれど、ここまで書いてきた「家・イエ」や「季節と空間」といった作品についての解釈の道筋からすれば、このファンタジックな川猫の登場する軽い調子の作品にも、たぶん著者の詩法や「文化の病」のカルテといった意味合いが象徴的にこめられていることを読みとることができるようにおもう。そういう読み方かたすると、「川猫」とは、遺伝子操作でつくられた、水中で棲息できるような形質をそなえた猫そのもの(遺伝子操作技術の進化の象徴としてのキマイラ)をあわらしているといっていいように思える。そういう事実を見知ってしまった「私」は、そうした遺伝子操作技術のはらむ問題をなんとか多くの人に知って貰いたいと、「家にあった男の死体」を川に運んで水に沈める。そのとき「猫を被らせるのを忘れてしまった」というのは、「川猫」という言葉にかけた、語呂合わせ以上の意味がふくまれているのかどうかわからないが、「川猫」のことを人々に知らしめるために、男の死体を川に沈める、という「私」の行為自体は、「語り手」が生命科学のはらむ問題をテーマにした作品を書くことの喩のように受け取れるところがある。「川猫」のニュース(川猫の存在の認知)のほうが川でヒトの死体が発見されることより重大だという発想の逆転がここにあって、ブラックユーモアを感じさせるが、これは本当にブラックユーモアとして書かれたのかどうかわからない(作者は本気でそう思っているのかもしれない)、というところで、一種味わいのある批評性がかもしだされているように思える。ともあれ、「私」の果敢な試みにもかかわらず、その成果はあがらない。ウワサはながれたが、誰も信じようとせず、川を実際に覗こうとするヒトもあらわれなかっった。最後の「ヒトを被った猫」とは、たぶん「川猫」をつくりだした遺伝子技術が、最終的にいきつくさきを示しているように思える。もちろんそんな話があったとしても、深刻にうけとめるひとはいなかった、と作品は結ばれている。  




ARCH

苅田日出美詩集『川猫』(2007年9月20日発行・あざみ書房)






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