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三井喬子詩集『紅の小箱』ノート






 『紅の小箱』は、収録されている異なる作品同士が、思わぬかたちで言葉の喚起するイメージを交換したり引き寄せあって、独特の効果をうんでいる詩集だ。こういう効果は、作品を「連作」として読むときの感触につきものだといえるかもしれないが、この詩集では、スタイルや表現手法的にも多彩にかき分けられて配置されている諸作品のそこかしこに、単独の作品としてはみえてこないような意味やイメージが横断的に分散していて、そのことが、読書体験として、見えない力がひきあっている磁場に封じこめられたような、ちょっと名状しがたい味わいをもたらしているように思える。
 この感じをもうすこしかいてみよう。ある作品のなかに登場する言葉やそこから連想されるイメージが、同じ作者の別の作品でも微妙に背景や文脈をかえてなぞられているように感じる、というとき、ふつう私たちはそこに作者の無意識の志向性や、複合観念の所在をよみとったりしている。しかしたぶんこの詩集で起きていることはそういうことではなくて、そうすることでめざされているのは、その読みとり=受容のなかに、別の物語=詩を浮かび上がらせるというような試みであるような気がする。この幻の物語=詩は、その細部をもたない。というよりも、細部はさまざまな異なる詩作品のなかに分散して描かれているし、語られている文脈や背景が異なるので、なにが本当のことなのか、という意味での細部をもたない。逆に個々の作品は、詩集を読みすすむにつれて、この幻の詩の放射する光によって微妙に意味を変質させられてしまう。うまい例えではないかもしれないが、小説の冒頭で描かれていた情景の意味が、小説を読み終えたあとでは、まったく異なって理解される、というようなことに似ているかもしれない。。
 こんなふうに詩を書くこと、というより、こんなふうに詩集を編むことが、現代詩のなかで、どれほどの規模で意識的に試みられているのかよくわからないのだが、この読書体験の複雑な味わいは、とても新鮮で未知な世界にふれているという感じがしたのだった。


* 舟の旅


牡丹


満開で
花びらの波に乗って 白髪の爺が迎えにくる。
おちょぼの口に紅をさし
袂を重ねて お出かけで。

お重を抱えて徳利下げて
お出かけで。
葦の葉のような舟に乗り
は 行方は知らぬ。

知らぬ存ぜぬ
うっとりとする酔い心地。

瓜をたべたい 蜜のしたたる白い瓜。
背中もたべたい
耳もたべたい
喉の奥の
魂なんぞもたべてみたい。


ふ ふ  ふ

くちびるを
湿らせて
無明の指が 紅をさす。
ほうっ
 と 頬に刀傷。


 詩集冒頭には、こんな謎めいた魅力をたたえた作品がおかれている。牡丹の花の咲く日に、(女)が、爺の船頭をする小舟にのってでかけていく。どこに行くのかわからないが、お化粧し、お重や徳利ももって「お出かけ」していくのだから、お花見にでもいくのだと考えられる。後段では、舞台がかわって、宴がすでにはじまっている。語り手は(女の)内心の声になりかわって言葉を発しているように転換している。語られていることは、酩酊がもたらした戯れ言のようにも聞こえるし、このどこか素性のわからない(女)が妖怪じみた本性を現した怪談の一節のようにも感じられる。最終連では、くちびる、指、紅ということばがクローズアップの効果をうんでいて、最後にさししめされる「頬の刀傷」で、(女)の由来のしれない過去の物語が暗示されるところで作品は舞台が暗転するように終わっている。

 ところで、詩集二編目におかれている「川下り」という詩では、(女)が、夜明け前に川を小舟にのって下っていく情景が描かれていて、その川下りが、(女)が故郷や親しかった人々と別れを告げる旅(象徴的にいえば死出の旅)だということが暗示されている。この配列はたくみで、冒頭の詩とは情景も細部も異なるし、またそんなことはどこにも書かれていないのに、読む者は、この作品が、冒頭の「牡丹」ではじまった(女)の舟の旅の続きであるかのような思いにとらわれる。


川下り


西の空にまだ月が残っている。山のかなたの遠い国の
朝日が、わたしたちの町に届くまでには、すこし間が
ある。
新鮮な水のにおいがする。靄の中から櫓を漕ぐ音が聞
こえてくる。ああようやく来てくれたのだな。と思う
胸に、ギイッギイッと響いてくる。

川音がゆるやかに遠のき、ギイッギイッと入ってくる
舟の、舳先を打つ水の音も聞こえてきて、ああ、ああ、
よく来たね、待ちかねたよ。

ギイッギイッ、割り符はお持ちでございましょうな、
雲っ。
時鳥っ、と応えて、静かに舟に乗り込めば、雲は勇み
立ち、鳥音ははるか遠くなる。

ごらん、あれが白姫山だよ、白い蛇が棲む...。向こう
が薬師岳だよ、赤毛の猿が棲む...。
ふかぶかと眠る黒い瓦の屋根の下の、赤ん坊は五ヶ月。
ギイッギイッ。あと三日の命だとは、母親も父親も知
らぬはずで、ギイッギイッ、日の出と共に機嫌が悪い
のを、暑いかと思って水に漬け、寒いかと思って火に
あぶり...。

水音が高くなり、家々が浮かびあがり、ひたひた走る
音もする。

おはようおはよう、爺さんが歩きだす。婆さんが喋り
はじめる。猫がのびをする。おお、わたしたちの町の
夜明けだ、騒々しい朝だ。おくにさん世話になったね。
おしげさん元気でね。おとしさん、我慢するんだよ。
みんな、ありがとう、家も柳も板塀も。

ごらん、あれが白姫山だよ。生まれた山だよ。おっか
さんは、まだ眠っているだろうか。舟は下らなくては
成らないけれど、ギイッギイッギイッ、想いは残る。
忘れ物はなかっただろうか、引き返そうか。
ねえ船頭さん、もう幾つめの橋くぐっただろうか。


 三編目の詩「その向こう と」は、女が指さした場所に一本の木が生え、その木のもとで、映画の情景のように男の登場する人生(物語)の断片が演じられている(女はそれを回想しているようにもみえる)、といった内容の、感覚的な表現が多用されている作品だが、「列車の窓際の席」「彷徨う湖の記憶」、「悲しみの湖岸」「夜行列車」といった言葉は、たぶん二編目の「川下り」の詩のイメージに呼応するように選ばれている。そんなふうに書かれているわけではないのだが、読者は、小舟にのって川をくだっていく女が、「列車の窓際の席」からみるように、岸辺の風景の中になつかしい樹木をみとめ、その木を思い出を糸口にするように(生前)親しかった男を回想している、そんなふうにも読めてしまう。

 四編目の詩「ものを見ている男の」から、川下り(死出の旅)のモチーフは作品上からはいったん遠のいていく。というよりも、この作品からは、女が「その向こう と」の中で見ていた「一本の木の下」の「物語」が、さまざまな形で語りだされることになる。そんなふうにみれば、幻の川下りの詩はまだ続いていているのだ。骨董屋で手に入れた壺を愛撫する男を描いたこの作品には、「白磁の壺」「(熊の手ように)毛深い手」、という、これから何度も異なる作品にも書き付けられる言葉がはじめて登場するが、そのことを読者はまだ知らない。たぶんこの作品は、幻の詩(死出の旅をする女の回想)というモチーフからいえば、女自身を「白磁の壺」になぞらえて、若い頃の恋人(男)とのなれそめを語っているような気がする(そんなことはどこにも書かれていないのだが)。女(白磁の壺)にとって、男が「ひと日の物語の主人」だった日のことを。

 五編目の「妖怪の素」は、ホラーコミックのような作品だ。過剰摂取すると骨がとけ、身体も透きとおってしまうという「思い出印の「妖怪の素」」を、店に訪れた客が確かめようと顔を近づけすぎたため、店員もろとも(たぶん)「白い魂」になってきえてしまうというこの作品は、一幕もののナンセンス詩のような印象を与える。だが作品の置かれている位置や詩集全体の流れとしていえば、重要な意味をもっているように思える。それをひとことでいえば、語られる意味の相対化の「みぶり」というようにいえるかもしれない。「妖怪の素」が「紅い小箱」(詩集のタイトルにもなっているこの言葉は、はじめてここで登場する)に収められている、ということは、たぶんそのことに深く関わっている。幻の詩のなかの(女)は、ここで「妖怪」=白い魂になってしまい(このことは、「魂なんぞも食べてみたい」(「牡丹」)ということばと遠く響きあっているだろう)、しばらくは詩の表層からは姿をかくしてしまう。(女)は、むしろこの作品から、「紅い小箱」に封じられていた魂と一体となって、自在に自分(たちの)の「物語」をつむぎはじめる、といったほうがいいのかもしれない。




1章の後半の、「越前府中丁稚羊羹伝来異説」、「乙女潟きさらぎ尽」「算盤はじいて」「吉やぁ」といった作品の流れは、まさに紅い小箱の蓋をあけて出現した「妖怪」の世界として饒舌に描かれているように見える。菓子舗の看板娘に魔物がとりついたのを、寺の住職が読経によって追い払う、という「事件」の顛末が描かれている「越前府中丁稚羊羹伝来異説」、口がきけなくなった少女の身体から「水のようなもの」がとめどなくあふれてくるという怪異談「乙女潟きさらぎ尽」、丁稚が奉公さきの屋敷の内情を語った「算盤はじいて」、「逝ってしまった女」の声につきまとわれる男の話「吉やぁ」といった作品は、それぞれ独立していながら、全体を通してみると、またしてもうっすらと物語がみえてくる仕掛けになっている。つまり、「越前府中丁稚羊羹伝来異説」の中で、看板娘に取り憑いた魔物とは、実は丁稚の仕業であり、「乙女潟きさらぎ尽」の少女の腹に水がたまる怪異話とみえたことは、実はその看板娘の妊娠や死の暗示であり、「算盤はじいて」や「吉やぁ」は、「越前府中丁稚羊羹伝来異説」で店をやっかい払いになった丁稚の後日談である、というように。




 1,2の章、それぞれに13編の作品が収録されているこの詩集は、読み始めてちょうど中程のおりかえしから、第二章がはじまるのだが、その冒頭から、近親者の死をテーマにしたと思われる幾つかの作品が、連作のようにまとめておかれている。(死者の)焼けた骨のにおいが漂う部屋のなかで、中空に白いゆりの花が流れていくという幻影にとらわれながら、死者の記憶を思い返している「花が流れていく」、母親の遺灰を川の流れにまき、その灰がやがて海にかえることを願った「川に送る」、死者と花をのせた舟が海に運ばれていくという情景をうたった「花舟」といった作品がそうだが、それらはいずれも(死者、遺灰、花、花をのせた舟)が川を下り流れていく、というイメージの共通性をもっている。これらの作品はとても凝集度が高いので、読者がここで詩集冒頭の二編の作品を思い返しても、作品自体のイメージが変貌する、といったことはないかもしれないが、逆に「牡丹」や「川下り」という作品は、これらの作品をよむことで、たぶん微妙に意味をかえてしまう。想像上で構築されたと思われていた物語的な作品の背後に、別のイメージ(あるいみ主情性や叙情性にふちどられた、切迫感のある身近な死者への追悼というイメージ)が重ねられるのをまのあたりにすることになるからだ。


花が流れていく


白いゆりの花が流れていく。川の瀬音が寄せては返し。白い
ゆりの花が流れていく。たったいま本箱の裏から生まれたよ
うに。白いゆりの花が流れていく。食卓の夕刊の上を、ゆっ
くりと、白いゆりの花が流れていく。すうっと背中を撫ぜて。
白いゆりの花が流れていく。

焼けた骨のにおいがする。ああこんな姿にと...焼けた骨の
においがする。どうしてこんなことに...と。焼けた骨のにお
いがする。夜は大好き...と。焼けた骨のにおいがする。暗い
山道の危なさが好き...と。焼けた骨のにおいがする。人を本
当に好きになったこと、ある?...と。焼けた骨のにおいがす
る。深夜にその家のまわりを泣きながら走ったのよ...と。骨
の、焼けたにおいがする。

人には見せない。いつもにっこり微笑んで、人には見せない。
伏した視線のぞっとするような冷たさを。人には見せない。
激しい侮蔑の言葉を。人には見せない。用心深く、その小さ
な欠片すらも。人には見せない。だれを愛しだれを捨てたか。
人には見せない。どこを訪ねたか、それはいつのことだった
か。人には、人には見せない。

白いゆりの花が流れていく。勝ち誇って。白いゆりの花が流
れていく。短い笑いを遺して。白いゆりの花が流れていく。
美しい花。白いゆりの花が流れていく。美しい花。ゆりの花
の噎せかえるにおいがして。美しい花。いずれ何処かで、あ
なたはその人を殺めることになっただろう。美しい花。その
人の喉に甘いにおいを詰め込んだろう。美しい花。窒息する
ほどに。美しい花。不安が立ち上がる遅い夏の、白いゆりの
花。ほの暗いわたしの部屋に、いつまでも流れ漂う、焼けた
骨のにおい。白いゆりの花が、行きつ戻りつ流れていく。



花舟


紺碧の海である。
青い空 緑の山々
水際に土色のベルトを締めて
真昼の海岸線は近づいてくる。
軸先をひたと定めれば
待ち焦がれたように緑の入り江が広がって。

花舟の白い花々。
ゆり 菊 フリージア 蘭
溢れている溢れている白い別れ。

軸先を一点に定めれば
傷ついたように
奥の入り江が広がって。

定められたものとして
行くよ。

緑の入り江の その奥の
入り江の奥に入り江が出来て
花舟は行くよ。
白い花々を撒き散らし
白い別れを繰り返し

緑の入り江は連なっていて
真昼である と思われた。

会いたいという気持ちとは
こういうものかと思われた。
永遠とはこういうものかと思われた。
白い花々
舟には骸。


 こうした作品は、詩集冒頭の川下りの詩の物語性や仮構性というモチーフを否定するように置かれているわけではないのに注意しておこう。むしろこれらの作品によって、冒頭の作品群の物語性ということに込められた意味あいがさらにきわどく鮮明になる、といえばいいだろうか。詩集をここまでたどってきた読者は、第一部に収録されていた仮構性のつよい物語的な作品群から、憑き物がおちたかのように解放され、作者の直裁な感情にふれたように感じるだろうか。しかし作者の感情のでどころが一見異質なようにみえても、詩の細部の言葉やイメージは、微妙に物語と呼応している。冒頭の詩は牡丹の花園から女が出立し、二編目の詩は、死出の旅にでた女が舟にのって、川を下る様子を描いたものではなかっただろうか。
 さらにたどっていえば、詩集末尾ちかくには「枝垂れ桜」という作品がおかれている。この作品は、年老いた我が身(わたくし)を一本の枝垂れ桜にたとえたもので、一見「川下り」とは別のモチーフを扱ったものにみえるが、この「枝垂れ桜」という詩は、冒頭の詩「牡丹」で春の日に「お出かけ」した(女)が、舟旅(この詩集全体を巡る物語の旅)を「語り」終えたのちにいきついたひとつの風景としても、読めるようにおかれているように思える。「うっとりとした酔い心地」(「牡丹」)ではじまった酩酊と、「御酒もたっぷり頂いて/もう飲めませぬ」(「枝垂れ桜」)という詩行の対比は、たぶんとても意識的なものだし、数百年の樹齢をもつ枝垂れ桜の「この世の最後」のつぶやきは、木の精のいう言葉としては、不思議に川下りの舟の旅の終わりを暗示するような連で結ばれている。「牡丹」で、(女)をのせた川下りの舟は、みごとな枝垂れ桜の「花見」をおえて、たしかに海にいたりついたのだ、とでもいうかのように。


おお

この世のはてのさみしさよ。
親知らず子知らず
罪人の海岸に波が寄せ
わが身の末は
海の藻屑となりますように。
(「枝垂れ桜」より)


*「紅の小箱」


 詩集のなかで「紅の小箱」(紅い小箱)という言葉は、「妖怪の素」「箱がしずかにありました」「枝垂れ桜」「逝く春の」という、4つの作品に登場する(「逝く春の」の中だけに「紅(くれない)」とルビがふられている)。詩「妖怪の素」では、「妖怪の素」そのものが収納されているのが「紅い小箱」であり、「箱がしずかにありました」では、実家の奥の間の違い棚のうえに置かれていた「紅い小箱」のなかに、何が入っているかと想像をめぐらせる、という作品になっている。「枝垂れ桜」の中では、「猿たちがわたくしを覆い隠すまで/やがて黒々とした愛になるまで/あなたの舌は/紅い小箱に閉じこめて/わたくしがお預かりいたします。」といった謎めいた詩行のなかに登場する。詩集末尾におかれているのが、「逝く春の」という作品だ。


逝く春の


紅(くれない)の小箱を開けると
白い花々の匂いがする。
しずかな春の午後の部屋の
お座布団の上に猫が丸まり
しんしんと時間が積もり。

人一人分の生ほどの
時間が降り積もり。

薄いお座布団に陽がさし
ああこんな春の午後だったと
昼寝の夢のように言葉を閉じて
消えてしまう出来事もある。

何もなかった
いたかも知れないし
いなかったかも知れない人の
葉書が一枚黄ばんでいて
うっすらと寒くなる。
しずかに
  暗くなるのである。


 この作品だけを読むと、たぶん「紅(くれない)の小箱」という言葉は、さらりと読みすごされてしまうかもしれない。箱をあけると、白い花々の匂いがする。静かな春の午後の明るい部屋のなかで、(わたし)は、また別の春の午後、遠い記憶のなかの春の午後を思い返している。そうさせているのは、箱のなかにしまわれていた、黄ばんだ一枚の葉書である。もう実際にあったことなのかどうかもさだかでないような、おぼろげな追憶にひたっているうちに、春の日が暮れ、あたりが暗くなっていく。しかし、詩集をここまで読んできた読者は、「紅(くれない)の小箱」(紅い小箱)ということばが、いくつかの作品で印象的に使われてきたのを知っていて、そのイメージの残像にとらえられている。あるときは、「妖怪の素」!が、あるときは、笛(かなにか)が、あるときは「舌」が、封じられていたかもしれない、からといって、この作品の「紅(くれない)の小箱」とそれらのイメージとの結びつきが、けして突飛でないようなしかたで、ゆるやかに結びつくように言葉が選ばれているのだ。「白い花々の匂い」というさりげない言葉も、「花が流れていく」「花舟」「枝垂れ桜」など、多くの作品から、イメージを引き寄せるようにつかわれているのは同様のように思える。


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三井喬子詩集『紅の小箱』(2007年10月31日発行・思潮社)






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