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笙野頼子『萌神分魂譜』・ノート



 愛している。頭に釘を打たれ壁に張りつけられて、愛している。愛している。土嚢の下に埋め
られ、げじげじの足と共に腐りながら、愛している。
 愛している。動物の死体に乗せられて焼かれても灰の中から蘇ってしまう程に、愛している。
俺は、----。
 俺本来の身体をそうでないものに作り替えられて、例えば受けがたき「人身」に尾を翼を装着
され、この世で君が見る限り一番「美しい」はずのこの美男の素顔に仮面を張りつけられ、本来
の手足を縛られ、神様とよばれ、俺ではないものにされても君を、愛している。毎日毎晩、俺で
はない別の名で呼ばれても、その別の名の下に君の「男」の乗物にされながら、唯一絶対の君が
崇拝する俺の知らない「男」に使役されながらも、愛している。もしもその「男」を夜毎夜毎君
が取り替えるとしても、愛している。転々と異なる神社の札に着替えさせられ、時には女装まで
させられ、俺ではないものにされ、気にいるものを演じさせられ、それでも。愛している。ただ
ひとりの君を。ただ君ひとりのわざおぎである、囚われた俺は、----。(『萌神分魂譜』より)



 笙野頼子の小説『萌神分魂譜』(2008年1月刊・集英社)を読み、この作品の前編ともいうべき『金毘羅』(2004年刊・集英社)を併せて読んだ。『金毘羅』が自分を神だと発見した人物「私」の手記のように考えると、この作品『萌神分魂譜』は、神としての魂をもつ「私」がその分魂たる内なる他者を発見する物語といえると思う。いずれも「私」の内面の告白という色彩がつよいが、この作品では、分魂たる他者が、別の側面(上位自我的な)から「私」の内面を解釈している、というふうにも読みとれそうだ。
 自分を神だと発見した人物「私」の手記、といえば、神がかった教祖のような人物を思い浮かべるかもしれない。しかし作品を読めばわかることだが、この「神」というのは、作者独特の概念としてつかわれていて、なにか人智のおよびもつかない超能力の所有者ということを意味するわけではない。人として生まれながら、およそ人のすることに関心がなく、生きているのが嫌でしかたがない、そういう自分の資質の核にある性向のようなものを、対象化して、「神」と読んでいる、という趣がある。つまり自分の根っからの厭世観のようなものは、もともと自分が人間世界に関心のない神の魂をもって存在するのに、人間の肉体に閉じこめられているがために、人のふりをまねて生きざるを得ない。そのことで生じる矛盾から生まれてくるものだ、といった理解とほぼ合致するように思える。もちろん、そういう理解をほどこしてみても、生きにくい苦しさが軽減されるわけではない。しかし、この理解は、そのほうが生きやすいので、自分から望んでそう思いこむ、というよりも、ある日、とつぜん気づいてしまう、というふうにやってきた、とされている(1)。
 この認識がもたらすものは、だからけしてはかばかしいものではない。むしろなにをしても、つまりどんなに人なみになろうと努力しても、本性上それはかなえられないのだから、神としてあることの孤独をかみしめるほかないことになる。けれどさらにふみこんでみると、作者はこの神という言葉に独自な意味づけをほどこしていることがわかる。ひとつは「私」の本性である神は種族名「金毘羅」ということになっていて、「金毘羅」はたしかに神として信仰されるが、「私」の場合、実はもとは八百年という有限の寿命をもつ深海生物で、単独で生きていけはするものの、そのばあい神とはいえないのだという。「金毘羅」は、既成の神や人など、なにかに寄生したり、その体をのっとったりして、はじめて神となるという。このあたりの記述(2)になると、まったくたしかめようもないことで、その幻想味あふれる壮大なビジョンを面白がりながらおそれいって拝聴するしかないのだが、ここでのっとられてしまう既成の神というのは、神社などに祀られている神道の神である、とされている。(3)
 もうひとつは、こうしたビジョンからみちびきだされることだが、神道の神を神とよぶ以上、多神教的な「神界」というものが存在する。そこに住む神々は、「私」の夢のなかにあらわれたりして、「私」と会話したりもする。そういう記述からすれば、「私」が神であるという認識は、たぶんこの点で一番おおきな意味をもってくるように思える。神であることは、現実の生活のうえでは、何のメリットももたらさない。なぜなら神とはいっても、「私」の場合、人間の体に閉じこめられた神(魂だけが神)なので、他のふつうの人間同様の身体の制約のもとで生きざるを得ないから。しかし夢の世界の中だけでは、神として、他の神々と会話をすることができる。それがたぶん「私」の人間と異なる唯一の神らしさ、ということになる。そういう意味でいえば、「神」であるとは、夢のおつげを信じるような心の動きの真らしさを保証するような確信ではあるのだと思う。
 このことについて、すこしいうと、作者は夢や幻をヒントに作品を書くというタイプの作家のようで、そういうことが、ある意味こういう能力を行使する「私」という人物(神だが)の造形と関わっているかもしれないと思う。また、作家としての創作行為の意味に、仏になろうとする神の修行、というイメージを重ねているところがあって、これも神々との交流によって与えられる夢のビジョン、ということと深く関わっているだろう。(4)
 作品『金毘羅』は、夢を媒介にしてどんな神が「私」のもとにあらわれたか、また去っていったか、といったエピソードや、夢をたよりに神社探しなどする具体的な記述がとても興味深いのだが、それはまた作者独自の日本神話の解釈や神仏習合ということの意味をめぐっての解釈が背景にあって、独特の「私的神話体系」の存在をうかがわせるものになっていることは書いておきたい(5)。

 ここまで、いかに『金毘羅』という作品の中で主人公の「私」によって語られる神のイメージが独特のものであるか、ということを書いてきたが、続編にあたる『萌神分魂譜』では、この「私」がそれまで夢や幻を通して交流するばかりだった神が、作品内で「私」が生きている現実空間のなかに、目にみえる姿をとって出現する(台所の床から生えてくる)。また、この作品自体が、「私」と、この出現する神「俺」という二人の語り手がかき分ける、という構成がとられている。この「俺」は、作品のなかでは「私」と出生を異にする他者としての神なのだが、「私」が赤ん坊のころに、「私」の守り神のようになって、「私」が人として生きてきた一部始終を身近で見守り、「私」を愛しつづけてきた神なのだとされる。
 「俺」が、もとは娼婦達のお守り札「客人権現」としてこの世にうまれてきた、という来歴に驚かされるが、この神の性格付けというのも独特でとても興味深い。特徴的なのは、やはり現実には霊験あらかた、というふうにはいかず、祈ったからといって、その持ち主を現実的な不幸から救えるというふうには描かれていないことだ。しかし持ち主(宿り主)の愛する対象に無差別にのりうつって、持ち主に愛をなげかえす。単純化すれば、そのような精神的作用そのものとして描かれているように思う。神棚の神をあがめれば、その神となり、人形を愛せば、その人形に宿って愛をかえす。というより、なにかの対象に惹かれる(萌える)という心の動き、そういう本人の心の動きそのものが、その「分魂」のはたらきなのだ、といっているようにさえ思える。「私」は、猫を愛した、ある神を信心した、ある男を愛した、と思っているが、「私」が愛した対象というのは、本当はそれらのものに仮に宿った分魂としての「俺」であり、つまりは自分自身のことなのだ、とこの「分魂」はいう。もちろんそうであることを「私」は知らず、この「俺」の本当の名を誤読し、誤解しつづける。この永遠に知り合うことのできない、「私」にとっての内なる他者が、「私」が絶望のあまり衰弱して生きる力を失っているとき、私のまえに、借り物ではない姿で登場する(台所の床から生えてくる)。というのが、『萌神分魂譜』で描かれている奇跡としてのドラマであるのだが、もちろんこういう簡略な誤読にみちているかもしれない概説は無視して興味あるかたは作品にあたっていただきたい。
 ただここでいってみたいのは、この作品にこめられている鎮魂ということの意味である。『金毘羅』『萌神分魂譜』はたしかに語り手「私」の視点や人物造形からすれば地続きで、後者は続編と読んでもいいような気がする。しかしこの間には作者の愛猫の死という大きな出来事がある。その出来事がいかに精神的なショックを与えたか、ということは作品の中でもふれられているのだが、その精神的なショックが、作者の「神」のイメージにどのような変化を与えたかということは直接にはふれられていない。(予知夢のかたちでさえ猫の死を知らせてくれなかった神(当時神棚に祀っていた神)への信仰はすてられた、というエピソードは書かれている)。誰かを愛するというとき、本当はその誰かの姿をかりている(のりうつっている)何者かを愛している、という論理そのものの枠組みは、多神教世界の神話の解釈をめぐる考え方とも深く結びついているようにも思われるが(6)、そこに失われた愛するもののかたちをおいてみたとき、大きな慰めのように訪れたということは確かなことに思われるのだった。




(1)「四十過ぎていきなり自分が金比羅だったと判り驚愕しているのです。」(『金毘羅』-025)
「自分が金毘羅だと認めること、それは人間としての自我の崩壊に等しい物凄い事でした。(『金毘羅』[031)

(2)「金毘羅とは、そう、私に言わせれば元々実体のないものだ。ウィルスのようなものだ。人にも宿るものだがまた神的には、地元の神をのっとってはびこるものだ。その癖勝手に全国区になってしまうもの、でも権力・政権を担当せぬものだ。増えても増えてもそれはぐさぐさだ。ばらばらだ。元々は正体不明の深海生物だったのがある時いきなり金毘羅を名乗ったものだ。」(『金毘羅』-037)
「ようするに金毘羅はわけの判らないものだ。というより構造だけの存在。反逆的なものだ。その反逆性が人の信仰を自在にさせる。そここそが金比羅の正体である。」(『金毘羅』-038)
「私らは別に本物の神ではない。悪魔でもない。幽霊でもない。まあなんでもないのです。ただあるのは高慢ともいえる強固な自我だけです。私達の本能とは実はこの自我を守る事だけなのです。」(『金毘羅』-021)

(3)特に強調されているのは、かって国家神に反抗して滅ぼされたような神、「地上の滅んだ神に取りついてそれを再生させる」(『金毘羅』-037)ということ。

(4)もちろん、作者と作中の「私」の混同には充分に意識的であるべきだろう。「猫云々妄者と怪」の中で、作者は小説『金毘羅』に言及していて、「真面目な土俗心理探求小説」「一番素朴な民俗フィールドワーク実践小説」と呼んでいる。そこでは、作中の語り手である「私」をさして、「変な主人公の妄想」「教祖を書く」ともいわれ、自分が「なんと言ってもその「金比羅」という小説では主人公と私が違う人だからだ。」(『片付けない作家と西の天狗』(河出書房新社)所収「猫云々妄者と怪」-097)というふうに、作中の「私」と作者が別人格であることが強調されている(これはふだんなら、筆のすすまない作者の悩みを、そのまま作中でも「私」の悩みとして書いてしまうことができるが、この作品の場合、作者と主人公の「私」は別人格なのでそうすることができない、という文脈でいわれている)。
対談で、生まれてすぐに死んだ赤ん坊の死体に宿った魂といったエピソード、神が台所の床から生えてきた、という作品の中では事実とされているエピソードの由来が語られているのも、創作過程の一端をあかしているようで興味深い。

笙野 、、、私は、母の実家の四日市で、三月十六日の真夜中に生まれたんですけど、いっぺん死んで生まれてきて、朝産声を上げたということです。それで自分は何か、生まれてくる時に、まあ勝手な妄想なんだけど、本当の赤ちゃんというのは死んじゃってて、変わりに何か変なものの魂が入ってきて。それが私なんじゃないかって思ったりした(笑)。
(『徹底抗戦!文士の森』(河出書房新社)所収、聞き手 葉山郁夫/座談会参加 小川国夫「幻想の今日の質をもとめて」(初出「河南文藝」2003年夏号)より)

笙野 ええ、大切だけど妄想です。だけれども、じゃあ宗教的な感情がないかというと実はあっ
て。うまく説明できないんだけど、ものすごく精神的にきついことがあって、寝入りばなに見た
夢で、台所のところに男の子がいるんですよ、夢なんだけど。夢の中で寝てても、台所に触れ合
うような感じの変な夢で、家の台所は床下に食糧倉庫になる穴がある。ちっちゃい箱みたいな。
その上にその男の子が立ってるんです。どんな子かというと、南から来たような感じの子で、神
様がきれいというきれいさだけどその一方、すごく親しみ深くて明るい。生命力の固まりみたい
なものが、そこに立っている。「あっ、いる」って思った。
 完全にいるって思って、目が覚めて、「いた」という感じだけすごく残っているわけです。で
も、その子がいるということは、何か理性とか、物質があるとかそういう物理や科学みたいなも
のでは決してない。でもそのことで私は一瞬すごく救われたんです。でも起きたら......。だから
といって、それをそのまま信じてこれは南方からきた子供の神様なんですって言って教祖になっ
ちゃうことはとてもできない、その上民俗学の本を読めば思いあたる共通イメージがあるし。で
も自分の心の中に他者としてあるような、まさに対象化されたような喜びの感情があって、それ
がいきなりすごい苦しいときに出現するというのはあるのかなと思ったんです。
(『徹底抗戦!文士の森』(河出書房新社)所収、対談 加賀乙彦+笙野頼子「森の祈り、太陽の祈り」(初出「すばる」2004年12月号)より)


(5)独特の「私的神話体系」は、えたいのしれない深海生物の存在ということもふくめて、神話の読みかえを通した、神々のすむ世界の歴史や秩序の一端を記すことにまで及んでいるが、これは『金毘羅』という作品中の「私」の妄想として語られていると同時に、他の複数の作品群のなかで示される神話解釈とも重なるところがあり、個々の作品を横断した広がりをもっているのが特徴だ。

(6)小説『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』には、オオクニヌシとスクナヒコナの関係にふれた記載がある。国を平定しなくてはならない立場になったオオクニヌシのもとに、スクナヒコナが手助けにやってくる。その後いなくなってしまったのはなぜか。

「彼(オオクニヌシ)が苦悩に耐えて国を引き受けようとしたからです、最初小さい人形として対象化されていた弱くちっぽけな自分、これが等身大の存在である大三輪の神として現れた時、オオクニヌシは自分の中の真の他者が、自分自身であるという事を知ったのです。弱く辛い自分を支える真の他者とは実は自分自身であり、自我を持つという事はただそれだけで社会の中にいる事だと悟ったのです。社会とは何か、それは所有と苦悩の場所。」(『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』(講談社 -114)

 そういう意味では、こんなふうに作者によって読みとられた神話(オオクニヌシとスクナヒコナの関係)が、『萌神分魂譜』では現代で生き直されているといっていいのかもしれない。以下に作品最終章で「俺」の語る個所を引用しておきたい。

君は人身を受け、佛魂を持ち、夢にすがり、ひとつの神の名を呼ぶ。もしそれが正しくなくと
も、その祈りが誠実であれば、それがただの悲願に過ぎぬ事さえ知っていれば、その時、神話は
命を持ち、たかが白神人形に過ぎぬキャラクターに精霊が宿る。でも、----。
それを動かしているのは全部俺だ。君と全てを共有しながら、変わらぬ他者だ。

 翼のある俺は地に生えている。君が俺のすべてであるように。俺は君の総体である。俺は君の
至上の愛であり、それが君の感情の本質だ。君の中のもっとも美であり、真であり、善であるも
のだ。それでも、君は俺とだけはいられない。人間の肉体を持ってしまったが故に。
 その肉体故に俺もまた万能でいられない。君はありもしない万能を求め、それが得られぬ時
俺の名を呼ぶ。俺はどこにいても君を見いだす。愛している。それ以外の言葉はない。
 愛している。俺と交わらぬが故に君は他者を求め、俺が君と同じ有限の身であるがために、君
は神という仮定を求める。自分の中にあるものを外にあるように感じ、心のなかから湧いて出る
仮想の神に祈る。しかしもうひとりの君はいつか俺と出会う事を求め、有限の肉体を捨てようと
し、仏という見果てぬ夢を求めつづける。
 権現とはその錯綜の結果なのだ。神と、人と、仏の。でも本当を言うと、そこには何もない。
君がいるだけだ。君と俺が。
(『萌神分魂譜』 「5. 諸・行・無・常」より)



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笙野頼子『萌神分魂譜』(2008年1月刊・集英社)






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