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「嘆きの天使」と『ウンラート教授』



 映画「嘆きの天使」を30数年ぶり位にビデオで見て、その勢いで昨年10月に出版された今井敦訳によるハインリヒ・マンの原作小説『ウンラート教授 あるいは、一暴君の末路』をネットの書店から注文して読んでみた。映画とその原作小説は、全く別物とはよくいわれることだが、それでも原作のストーリーをなるべく忠実に再現することに重点がおかれていたり、原作の伝えたいテーマの再現に重点がおかれていたりと、みくらべてみると、いろいろな工夫にが気付かされるということはある。今回もそういう異同を確認して楽しもうと、軽い気持ちでとりかかったのだが、比較してみて驚いたことに、映画「嘆きの天使」は、原作小説『ウンラート教授』のストーリーの再現に重点をおいたものでも、原作小説のテーマの再現に重点をおいたものでもなかった、ということだった。それでいて、両作品の主人公が中学校(ギムナジウム)のあるいみ真面目教師であり、彼が旅芸人一座の女歌手に恋をして、教職を解雇され彼女と結婚し、やがてあるきっかけで破滅してしまう。というところは共通している。しかし主人公の性格付けが異なることで、この恋の意味は当然ちがっているし、解雇されるきっかけも違っているし、彼らの結婚後の暮らしぶりも異なっていて、両作品の後半は、ほとんど似たところのない別の物語になっている。

 原作小説から映画へ、という流れでいうと、複雑な心理が起こしたドラマを、複雑の心理のなかの一線だけを残して、残りの部分を削除し、単純な心理が起こしたドラマに組かえること、単純にいえばそういうことが行われているといっていい気がするが、『ウンラート教授』の翻訳者今井敦氏による同書の「作品解説」には、この組み替えについての多くの興味深い情報が多々記載されている。以下に同書からの引用をふくめ、すこしくわしくこの事情をたどってみたい。

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「作品解説」には、映画「嘆きの天使」が原作小説との関連で批評されたいくつかの例があげられている。

「(「映画に最大級の賛辞を送ったあとで」とある)マンの本は、学校から逃げ出した生徒が書いた陰険な復讐の書であって、その「主人公」は、反吐の出そうな悪辣漢だ。映画に描かれているのは、初めの瞬間から我々の共感を呼ぶこと確かな、心の孤独に苛まれた男の運命だ。」(1930年3月31日付けの新聞『月曜』に掲載されたフリードリヒ・フソンの映画評)

「(この映画は)「お涙頂戴的な、知性のかけらもない通俗的なもの」であり「火花の散るような風刺小説から善良な市民が破局に至るセンチメンタルな映画」ができあがってしまった。」(カール・フォン・オシエツキによる雑誌『世界舞台』の批評)

「ここで描かれた「個人的悲劇」は誰にも係わりのないもので、現実を忘れさせるための誤魔化しに過ぎない。本来なら登場人物は、彼らを取り巻く社会的、経済的状況の中に置いて描かれねばならないのに、そうした社会的背景は意図的に取り除かれている。」(ジークフリート・クラカウアーによる映画公開当初の批評)

一番目と二番目の評は、まったく映画と原作の評価が背反していて面白いが、こうした評を紹介し、制作者たちのいいぶんも紹介したうえで、訳者は書いている。

「、、、ひとつの点で、彼らの見解は一致している。それは、小説を特徴づけていた学校批判や社会風刺というものが、映画では抜け落ちていることである。小説には、当時の権威主義的学校への批判が顕著であり、後半部では社会の偽善性が暴露されているのに対し、映画には、学校や社会に対する批判的視点はまったく見て取ることが出来ない。」

 そのうえで、戦後のアドルノの批判も引用紹介されている。

「事実、迎合主義なのだ。というのもあの映画は、今でこそ記念碑的なものと見られているが、ヒトラー時代の前に、しかも検閲が乗り出すまでもなく、自分の方から例の精神的態度を表していたのだから。その後体制化された、あの精神的態度をである。そしてマレーネ・ディートリッヒの美しい脚だけが、これを誤魔化すことが出来た。周到に調合されたセックス・アピールのお陰で、人びとは、映画の作り手たちがあらゆる社会風刺を取り除き、俗物の妖怪から感動的な喜劇的人物を拵えたことを見逃してしまった。(テオドール・W・アドルノ『新・新聞』1952年正月の文芸欄に掲載)

 アドルノの批判は、制作者たちの自己検閲的な精神態度のせいで、原作にあった社会風刺が消されてしまったという踏み込んだもので、訳者は、のちに公開された映画会社の理事会議事録の内容によって、この推測が当たっていたことが明らかになったとし、議事録の内容も引用している。

「この題材に対しては、様々な方向から懸念が表明された。「これは、高尚なる学校に対しての悪質な攻撃であり、特に主人公ウンラート教授は、あまりにも共感の持てない人物として描かれている。」「ハインリヒ・マンのこの小説は、発表当時極めて活発な議論の的となっており、映画もまた、利害を持つ人びとから攻撃を受けることが予想される」。[中略]こうした指摘に対しコレル氏は「この題材は完全に改作され、ウンラート教授の人物像は人間的に分かりやすい形で表現されます。だから心配されるような攻撃を受ける要因は残らないでしょう」、と説明した。」(コレル氏は当時のUfa 制作部長)。(1929年8月28日の理事会議事録)

「議論のあと、コレル氏とポマー氏は二人の共通見解を述べた。「この映画がその表現法によって、公衆、とりわけ教員たちの反感を煽るということはありえません。ウンラート教授も、また学校や教師たちも、好意的に描かれています。」この言葉にもとづいて理事会は、この映画に最終的な承認を与えた。」(1929年10月30日の理事会記録)

 さて、ここまでの流れをいうと、映画「嘆きの天使」と原作小説の関わりは、映画公開以来いままでたびたび論じられてきたが、その多くの批評で、訳者のいうように「小説を特徴づけていた学校批判や社会風刺というものが、映画では抜け落ちていること」が指摘されているし、制作者たちの見解でも一致している。アドルノはそうした原作の改変を、「映画の作り手たち」の迎合主義的な態度(ヒトラー時代の検閲に屈した精神的態度に類した)が生んだものだときびしく批判した。また実際そのことは後に公開された映画会社の議事録によって明らかになった、ということになるだろうか。実際に小説と映画を比較してみると、その相違に驚ろかされるし、あくまで原作小説の内容を中心に映画との関係をみれば、ここで語られていることにほぼ異論はないのだが、もうすこし「映画の作り手たち」のがわによってみると、また別のことがみえてくるのではないか、とは思ったことだった。

 どういうことかというと、まずこの映画の成立事情ということがある。上記の理事会で、題材に関して様々な懸念が表明され、それに対して制作部長は完全に改作されるので問題はない、と答えている。原作小説の教育関係者から批判を受けるおそれのある部分は削りとるので心配には及びません、という発言を「迎合主義」だということはたやすいが、その場合、この映画は迎合主義でない、といえるのは、なるべくマンの原作に忠実な映画の制作を意味していることにならないだろうか。たぶん、そういうことはもともと問題にならなかった。あらかじめ非難が予想される作品をつくる考えは制作者にはなかったのだ。問題はここで起きていること、制作部長がなぜ、理事会でのこうした懸念を予想しつつもこの題材にこだわったか、ということになる。

 小説『ウンラート教授』は、1905年に出版されている。この作品の映画化に関して、「作品解説」に、興味ふかいエピソードが書かれている。

 「ハインリヒ・マンの回想によると、小説を読んで感銘を受けたヤニングスは、1923年、作者マンに直接、映画化を申し出たという。しかし当時はサイレント映画の時代であり、この作品をサイレントで映画化することは困難だったため、一旦この話は立ち消えとなった。
 六年後の1929年春、ベルリンの映画会社Ufaは、サイレント映画からトーキー映画の制作へ切り替えるため、ポツダムのノイバーベルスクにあった撮影所を大改修した。それと前後して、プロデューサーのエーリヒ・ポマーは、当時ハリウッドで活躍していたドイツ人俳優、エーミール・ヤニングスを主役にして映画を作ることを提案した。Ufaはすぐにこの案を採る。新しく作るトーキー映画で何としても成功しなければばらなかったUfaは、名前の知れ渡った人気俳優を主役に据えることを重視したのである。アメリカ滞在中、サイレント映画で大成功を収め、創設されたばかりのアカデミー賞を授与されたヤニングスは、巨額の報酬を約束され、ヨーロッパに凱旋する。ベルリンに到着した彼がまず行った提案は、ロシアの怪僧ラスプーチンの話を映画化するというものだった。しかしこの案は、彼自身がハリウッドから呼び寄せた映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグによって拒否される。そこでヤニングスが次に出した題材案が、ハインリヒ・マンの小説『ウンラート教授』であった。つまり、この映画を作る際、最初にあったのは、エーミール・ヤニングスの映画を作る、ということであり、題材も、監督も、主演俳優の提案によって決められたのである。」(『ウンラート教授』「作品解説」より:年数表示は日本語表記から変えてあります。)

 ここで興味ぶかいのは、エーミール・ヤニングスが、1923年の時点で、『ウンラート教授』の映画化を考えていたということだ。実際に小説を読んで、彼が最初に提案したという「ロシアの怪僧ラスプーチンの話」ともども考えあわせてみると、ヤニングスは、たぶん『ウンラート教授』の性格ドラマ的な部分(それは人間憎悪の複合観念に取り憑かれた男の話なのだが)を演じてみたかったのだと思われてならない。演劇界から映画界に転じた彼は、「オセロ」(1922)や「ファウスト」(1927)などの作品にも主演している。しかし題材の提案は受け入れられたものの、映画製作の過程で、この小説の映画化の構想をあたためていた彼の思いは半ば裏切られたのだと思う。そう思うのは、原作にあった主人公ウンラート教授の人間憎悪を核とした内面心理の掘り下げが映画ではまったく切り捨てられているからだが、ともあれ、どんなふうにことが運んだのかを見てみよう。

「ツックマイヤーによると、最初にポマー、スタンバーグ、ヤニングス、ツックマイヤー。フォルメラー、そしてハインリヒ・マンが一堂に会し、映画の大まかな内容について相談した。そこで決められたことをもとに、ツックマイヤーが「映画のための短編小説」といえるものを書いて、ハインリヒ・マンに見せた。マンは、これを承認しただけでなく、映画という媒体にうまく適合させていると言って誉めてくれた、という。ツックマイヤー。フォルメラー、リープマンの三人で台本は完成された。
 撮影が始まったのは11月4日、終わったのは翌1930年1月末だった。撮影が終わるころ、これに携わっていた人びとの多くは、「エーミール・ヤニングスの映画」として計画され、宣伝もされていたこの映画が、「マレーネ・ディートリッヒの映画」になったことを悟っていた。ディートリッヒは、ハリウッドの映画会社パラマウントと契約を交わし、『嘆きの天使』のプレミエに隣席したその晩のうちに、アメリカへと旅立った。同席したヤニングスは終始機嫌が悪かったと伝えられる。」

 ここで、ツックマイヤーが書き、ハインリッヒ・マンが承認したという「映画のための短編小説」というのが、その後の台本の骨子になっていたと思われるが、この会合以前に、上記の映画会社の(1929年8月28日)理事会は開かれていたという。これまでの流れでいうと、まず最初に映画会社Ufaは、トーキー映画第一弾として、サイレント映画で大成功を収め、第一回アカデミー賞主演男優章を授与された人気俳優ヤニングスを起用することを決定し、ドイツに呼び戻す。巨額の報酬を約束し、題材も、監督も彼にまかせ、あくまでも「エーミール・ヤニングスの映画」をつくる、ということだった。ヤニングスは、ロシアの怪僧ラスプーチンの話を映画化を提案するが、監督ジョセフ・フォン・スタンバーグによって拒否される。そこで「ヤニングスが次に出した題材案が、ハインリヒ・マンの小説『ウンラート教授』であった。」という。これは推測なのだが、ヤニングスが自分の主演映画の題材をきめる、ということも、映画会社との契約の条項に入っていたのではなかったか、と考えると、ことの経緯が理解しやすくなるように思える。彼の第一案は彼自身がアメリカから呼び寄せた監督によって拒否されるが、第二案には合意した。これがまず制作者たちにとって契約上動かせない映画製作の条件となった。そこで、上記の理事会が開かれた。そうすると制作部長が、いろいろな理事達の懸念の表明を浴びねばならなかったこと、にも関わらず、ストーリーは改変するので問題ないと大見得を切って(この時点でまだ台本はかかれていない)、小説『ウンラート教授』の映画化に固執せざるをえなかったことが分かる気がする。たぶん撮影期限の関係で時間は残されていなくて、主演俳優との契約上も代案をだせる状態ではなかったのだと。。こんなふうに考えると、これは「映画制作者たち」の「迎合主義」だといえるだろうか。たしかに妥協の産物とはいえるかもしれない。しかしそれは、ともあれ『ウンラート教授』という題材を映画化するため、というより、「エーミール・ヤニングスの映画」をつくる、というこの企画を流さないための妥協の産物だったように思える。

 理事会で制作のゴーサインをうけた制作スタッフが、急遽「映画のための短編小説」を書き上げ、つぎに原作者マンをふくめた会合をもったというのも興味深い。順序が逆転しているようだが、ここではすでに契約をとりかわしていた原作者マンの最終的な合意をとりつけることがもくろまれ、そのことに成功している。

「彼(ツックマイヤー)によれば、マンを含めて持たれた最初の会合で、映画のテーマが決定された。小説には、学校への批判や世代間の葛藤という一つ目のテーマと、転落していくラート教授の運命、という二つ目のテーマがあり、後者のほうが映画のテーマに選ばれた。それは、カチカチに硬直した一人の市民的存在が、人生の拠り所を失い転落していく運命であり、人間的で悲劇的な運命だ、とツックマイヤーは述べている。」

 このツックマイアーの発言を読むと、この会合の場で、テーマが選ばれたように書かれているが、すでに理事会の内容を知っている目でみると、制作者たちにとってこの路線はすでに折り込み済みであり、一つ目のテーマの可能性はあらかじめ排除されていたことがわかる。後者のテーマはこう説明されるとなるほどと思う。「ハインリヒ・マンは結局、映画と小説は違うのだ、という映画人たちの説明を受け入れたと考えられる。」と訳者は書いている。


 ここで、ちょっとふりかえってかいてみたいのは、映画『嘆きの天使』は女優マレーネ・ディートリッヒの主演映画として知られているが、映画のストーリーをみても主役はウンラート教授であり、旅芸人一座の歌手に恋した彼の悲劇的な末路の顛末が描かれたこの映画で、でずっぱりの主演男優エミール・ヤニングスも熱演している。しかしではなぜマレーネ・ディートリッヒの主演映画として名をのこすことになったのだろうか、ということだ。。

 原作小説と比較しながら言いたいを書いてみると、原作小説ではウンラート教授が女歌手に近づく動機にはとても個人的なものがある。それは、ひとりの最も憎んでいる生徒の悪行(素行不良)を暴いて自らの手で没落させたいという怨念や、その生徒の恋人である女歌手(というのはまったくウンラート教授の妄想なのだが)を、彼の手から奪い取って鼻をあかしてやりたいという執念であったりする。それらは、「主人公ウンラート教授は、あまりにも共感の持てない人物として描かれている。」という理事会での懸念に該当するわけで、映画ではすっかり削除されている。すると彼ウンラート教授には、美しい女歌手の魅力に惹かれて虜になった真面目教師という一面だけがかろうじて残されることになる。このストーリーをもっともらしくつくりあげるためには、女歌手の魅力がとびぬけていなければならない。つまりウンラート教授が彼女に近づく動機というものが、ウンラート教授の側にあるのでなく、彼女の側にあるのでなければならない。映画でも原作小説でも彼女が歌手として出演する安キャバレーにいりびたるのは三人の不良学生であることに変わりないが、原作小説では、彼女に対する彼らの接し方も思惑もそれぞれ異なって描き分けられているし、そのうちのひとりは、別の人妻を愛しているので、彼女に憧れてさえももいない。しかし映画では三人の学生は、みな彼女の魅力にひかれているファンのように描かれている。そればかりでなく、店を訪れる客、酒をもって楽屋におしかける船長、後半にでてくる優男の芸人。みんな彼女の魅力にひかれてやってくる。彼らの「魅力的な女歌手にひかれている人間」としての位置は、ウンラート教授とかわらない。つまりこの作品は、映画のなかの物語としても美と魅力を兼ね備えた女歌手(スター)礼賛の映画になっているのだ。映画シナリオが、ある主人公の暴君的性格や生徒や人々への憎悪という固定観念ゆえに生じてもたらされた悲劇を、教育関係者による批判への配慮から、ある女性の魅力ゆえに生じた悲劇のように書き換えられたとき、「「エーミール・ヤニングスの映画」として計画され、宣伝もされていたこの映画」は、「マレーネ・ディートリッヒの映画」」に、なるべくしてなったのではなかったか。あとは、映画の観客が、自分もまた映画の登場人物たちと同じ位置にいると思いこむのをまてばよかったのだった。


 原作小説の立場からいえば、あまりに多くのものをそぎ落としてつくられた映画「嘆きの天使」は、「迎合主義」の産物といえるかもしれないが、映画と原作を切り離して考えれば、そこに「カチカチに硬直した一人の市民的存在が、人生の拠り所を失い転落していく運命であり、人間的で悲劇的な運命」(ツックマイヤー)を読みとることができる。映画化の過程をおってみるとき、最初の題材の発案者である俳優の思いや、その題材を映画会社や原作者を説得して映画化するために奔走した制作者たちの困難などが思い浮かぶ。個性的なウンラート教授をほかの誰でもありえるような市民的存在にすりかえることで、映画の作品としての中心軸は女歌手に移った。彼女の役柄が歌手であることが、トーキー映画としての成功を約束すると、制作スタッフは企画をすすめるどこかで確信したのかもしれない。映画製作に関しては、監督ジョセフ・フォン・スタンバーグが当時ミュージカルに出演していたほぼ無名にちかい映画女優ディートリッヒを発掘し、いかに魅力をたたえた女優につくりあげたか、という話が有名だが、すべてはマンが原作小説をかき、エーミール・ヤニングスが、その本に魅了されたことからはじまっているとしたら、と考えるとなんとも興味深い巡り合わせだと思ったことだった。


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以下は小説『ウンラート教授』についてのメモ的ノートです。

 『ウンラート教授』は、異様な執念の物語だ。物語に一貫して流れているのは主人公ラート教授の他人に対する不信や軽蔑、憎悪といった負の感情で、この負の感情は膨大なひろがりと深さを持って彼の心を支配している。そのひろがりの裾野はおよそ他人と名の付く人間全般にまで及んでいるように思えるが、けして抽象的なものでなく、彼の具体的な屈辱の記憶と結びつく度合いによって、ある広がり、ちょうど彼が日常でふれあう町の住人たちに向けられるとき、体感的な感じとしての像をいつも結ぶように思える。さらに特定の人物たち、その多くは今では成人して町に住んでいる彼の教え子たちなのだが、彼らに向けられるときほとんど決定的なものになり、現在の教え子である生徒たち、さらにその中でも素行不良の、フォン・エアツム、キーゼラック、ローマンという3人の生徒、またその中でもとりわけローマン、というように、この負の感情の度合いはラート氏の心のなかでピラミッドのような序列をつくっているように思える。

 ラート教授はその町のギムナジウムに赴任してきてから26年。威厳のある風貌とものごしで、町では一種の名物教授として知られている。しかし赴任した当初から、口さがない生徒達によって汚物を意味する「ウンラート」(教授)というあだ名で呼ばれてきた、という。このあだ名は学校内ばかりでなく、卒業した生徒たちが成人後もそう呼ぶことで、町の住人たちにも広がり、いわば名物教授の通称のようになってしまったのだという。しかし、いわれた本人は、けしてその場の屈辱を忘れようとはせずに、深く記憶にとどめて復讐の執念を燃やし続けた。とはいえ、この復讐とは、言った相手が生徒であったなら、その生徒の落ち度や成績の不備を探し当てて、進級や進学の邪魔をする(時には無理難題の試験問題をだして落第させる)、という陰湿で姑息な形で実現されるのだが、いったん生徒が卒業してしまえば、ラート氏にはこうした復讐のチャンスはない。かくして、せめてその人物の人生の不幸や没落をいつも願うようになった、というのだ。たとえば、彼を悪意をこめて「ウンラート」と一人の生徒が呼ぶ。その特定の人物を彼は憎悪する。しかしその場にいあわせて、その言葉に調子を合わせて笑った人々に対してはどうだろう。同じように彼は憎悪をふりむけるしかない。こうして、彼は生徒全般を憎むようになる。町にでて、誰かが「ウンラートが、、」と彼の噂をして家族と笑い合っている。そうすると彼の屈辱感から発した憎悪はその家族にもむけられる。こうして26年、彼の憎悪は町の住人全体をおおい、その不幸と没落を願うようになっていったように描かれている。

 『ウンラート教授』を原作にした映画「嘆きの天使」には、こうしたラート氏の憎悪は描かれていない。邦訳映画では、生徒がラート氏の教師用ノートの表紙に書かれた名前ラートの頭に「ウン」という文字を書き添える悪戯をする場面や、三人の学生たちが、ラート氏によってキャバレーの楽屋からしめだされたはらいせに「ウンラート!」とラート氏に向かって声をあわせて叫ぶ場面がでてくるが、いずれも「クズラート」(屑のラート)と訳されていて、「ウンラート」という言葉が汚物を意味することの示唆はされていない(註1)。

 映画ではラート氏の学生憎悪や人間憎悪といった内面心理はまったく描かれておらず、ロマンチスト(冒頭の飼っていた小鳥の死をかなしむシーンで象徴されている)で謹厳実直な初老の独身教授が、受け持っているクラスの三人の問題児が夜な夜な寄宿舎を抜け出して安キャバレーに出入りしていることを知り、彼らの生活指導のために自らキャバレーにでむく、というストーリーになっている。学生たちからとりあげた女歌手のプロマイドにみいってひとり嬉しがっているシーンもあるが、それはラート氏のおもてむきの謹厳実直さのうらにあるほほえましい人間味(ある種の通俗性)をあらわわすエピソードになっていて、彼がキャバレーに自ら足を運ぶのは、たんに生活指導のためだ(その時点で女歌手の美しさに注意を惹かれたとしても)ということは疑い得ないようになっている。しかし原作小説では、そうではなく、彼の動機は、三人の問題児生徒、というよりそのなかのローランという生徒の素行不良のしっぽをつかむためにいくのだった。

 『ウンラート教授』を読んでとくに感じたことは、映画では物語の進行役でしかないようなフォン・エアツム、キーゼラック、ローマンという三人組の問題児生徒が、それぞれ個性豊かに描きわけられていて、しかも彼らのその個性が実在のモデルでもあったかのように生き生きと彼らの行動と結びついているように思われるところだ。ラート氏が三人の学生の夜遊びを知り、その現場をおさえようと安キャバレーにでかけていき、彼らのおめあてである旅芸人一座の看板歌手ローザ・フレーリヒ(映画ではローラ・ローラ)にであう。原作小説では、それ以前に三人三様のローザとの関係が設定されている。裕福な伯爵家の子弟であるフォン・エアツムがいちばんローザに熱をあげていて、この身分違いのかなわぬ恋に自分で酔っているようなところがある。中産階級(父は夜間勤務の港湾職員で祖母と暮らしている)出身の子弟であるキーゼラックはすでにローザと関係をもっているが、そのことはおくびにもださない。ローマンはやはり裕福な領事の子弟で、三十歳の人妻(プレートポート領事婦人)をひそかに愛していて、この秘密が発覚したら自殺するために拳銃を隠し持っているという、ハイネ風の詩をつくる文学青年。原作小説ではローマンがノートに書いたローザに捧げると題した詩の一節をラート氏が見たことが、彼がキャバレーにでむく行動のきっかけになる。ここにはやや入り組んでいるが興味深い登場人物たちそれぞれの思惑と行為の動機付けが示されている。

 三人の青年は、たしかに旅芸人一座の看板歌手が出演している安キャバレーの楽屋にいりびたっていた。しかしそのことをラート氏はローマンの書いた詩によって知るのであり、なによりも詩に暗示されているローマンとローザとの関係をあばきだして、ぶちこわすことで、いちばん憎んでいる生徒であるローマンに復讐するというのが、ラート氏の行動の奥に隠された動機だった(註2)。しかしそれは詩の言葉を真実のように信じ込んでしまったことによるラート氏の誤解で、ローマンは別の人妻ドーラへの秘められた恋に懊悩してはいたものの、ローザに恋をしていたわけではない(註3)。

 いってみればラート氏のローマンに対する憎しみ、この傲岸不遜な青年に対する憎しみが、過剰な誤解をうみ、彼への対抗意識がローマンの愛する女性ローザを奪い取ってやりたい、という欲望の回路に火をつけることになる。詳しい展開に興味のあるかたは原作になった翻訳小説にあたってみていただきたいが、こうした原作小説前半の人物設定や心理描写から浮かび上がってくるのは、恋愛感情ということだけについていっても、その諸相を相対的にとらえるシニカルな視線であり、ある個別的な因果性のなかで恋愛感情もまた生起するということを見据える作者の視線である。映画が描くのは、女歌手ローラが男たちの憧れのまとである、というようなことだけだ。映画のなかの価値の構図は、そのまま映画スターとそのファンの構図にスライドされて、矛盾するところがない。しかし原作は誰からも同じように好かれるような女性はいないということを前提にしているし、その理由は彼女に魅力があるかどうかということにもないことを前提にしている。恋する理由はむしろ恋する側にいつもあるのだ、と。



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 マンの『ウンラート教授』は、ウンラート教授やローマンの抱く道徳観の描写などから、ニーチェ小説(ニーチェを風刺し、ニーチェとの決別を告げる目的で書かれた)として読める、というエルケ・エムリヒの評があることを訳者は紹介している。そのうえで、ウンラートは「モデルになった他の誰にもまして著者自身の戯画であった。」とする訳者はその説はきわめて疑わしいとしている。ウンラート教授のモデルとなったらしい何人かの人物について「作品解説」では紹介されているが、つきつめていけばマン自身の自画像に重なる、という訳者の説にはとても説得力がある。ただそのうえでいえば、作品を読んで私が感じたのは、作品の中での著者の分身のように思いうかぶのはローマンという傲岸不遜な詩を書く青年だった。それはこの作品の前半がやはり著者のギムナジウム時代の思い出を下敷きにしているように思えるからだ。「著者自身の戯画」を書く、という視線には、ギムナジウム時代の著者が権威主義的な教師に感じた視線がとけこんでいて、そのことは作品中ではとりわけウンラートをみすえるローマンの視線によって象徴されているように思える(註4)。また、たしかめるすべもないことだが、三人の生徒の性格のこまやかな書き分けにには、著者のギムナジウム時代の交友の記憶が色濃くとかしこまれていうような気がする。映画で描かれているのは1920年代のギムナジウムだが、一場面でウンラート教授の目の前で煙草に火をつけて、教授にたたきおとされてもふてくされて超然としている大人びた生徒が、ちょうど小説のローマンの像に重なる。こういう連想は、やはり事前に映画を見ていてはじめて得られることで、そういう意味でも意外な楽しみの味わえた読書体験だった。


註)
1.Un-rat 1(策のないこと、仕方のないこと)困却、不都合 2(仕様のないもの)不用物、廃物、塵芥、屑、汚物。 (「岩波独和辞典」より)。翻訳作品中には、「汚水」という言葉に、にウンラートとルビのふられている個所もある。

2.「彼をあだ名で呼ぶことさえしない、近づきがたいほどの反抗心を持った最悪の生徒.....それが、ウンラートが格闘している目に見えぬ精神だった。他の二人の精神ではなかった。ウンラートは、他の二人のためだったら、自分はここまではしなかっただろう、こんな常軌を逸した行為に出ることはなかったろう、と感じた。」(p71)



3.「「青き天使」で歌う女性歌手の愛を乞おうなどという気持ちは、ローマンにはちっともなかった。あの店にはたった三マルクか四マルクで彼女に幸せにしてもらった船乗りや手代がきっといた。」(p91)。

4.「一体ローマンのような人間には、教壇の上にいる例のぶきっちょな道化者、この固定観念に病む馬鹿者は、どんな印象を与えただろうか。ウンラートに当てられると、授業とは関係のない本を読んでいたローマンは、慌てることなく頭を切り替え、広い、黄色く血色の悪い額にいぶかしげな横皺を寄せて、軽蔑的に目蓋を伏せたまま、質問者の哀れな憤りや、教師の皮膚に付いた埃、上着の襟に付いたフケをじっと見つめた。最後に彼は、自分の良く磨かれた指の爪に視線を落とした。、、、、ローマンはこの哀れな老人の憎しみに対して、いくら頑張っても気の抜けた軽蔑以外、示すことが出来なかった。嘔吐感の混じった少しばかりの同情もそれに加わった。」(p15)。



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今井敦訳『ウンラート教授  あるいは、一暴君の末路』(2007年10月19日刊・松籟社)






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