[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]

ARCH
F・S・ゾンネンシュターン「平和の鷹が平和の天使を悦楽の園へ導く」(1953)


柴田千晶詩集『セラフィタ氏』ノート



           「どうして、自分のなかの情欲を喜びとして素直に受け入れては
           いけないのだろう。その喜びを支えにしてはいけないのだろう。
           赤ん坊が母親に抱かれる快感とどこが違うというのだろうか。情
           欲を素直に発散させることによってはじめて自分も人間の一員で
           あることに愛おしさを感じるということが、淫乱という言葉でし
           か言い表せないのなら、ためらわずにその言葉を我が身に引き受
           けてやる。」(津島佑子『歓びの島』)



眼が乾く
空調の熱風をまともに受け
データ入力オペレーターの眼は絶えず乾いている
柏店婦人服お直し伝票125件
東京店婦人服お直し伝票272件
----VDT作業は一時間までとする
  一時間連続して作業した場合には少なくとも十分間の休憩をとること......
眼が乾く
四人のオペレーターは終始無言のまま
休憩時間もPC画面を凝視し
トランプゲームに熱中している
〈フリーセル〉No.29596はまだ誰もクリアできない


  雨降ればオフィスの午後は沈鬱に沈み深海魚として前世


眼が乾く
何処にいても
眼が乾く(外気に触れたい)
(外光を浴びたい)
誰といても
眼が乾く(言葉を交わしたい)
(性交したい)
立川店紳士服お直し伝票248件(ノルマ達成)
大宮店紳士服お直し伝票515件(ノルマ達成)
新宿店紳士服お直し伝票204件(ノルマ達成)
(「セラフィタ氏」冒頭より)


 詩集『セラフィタ氏』は七編の作品からなる詩集だ。詩集を一気に読み終え、日をおいて改めて目次でそのことを確認したとき、そんなに少なかったかなあ、と、一瞬いぶかしい思いにみまわれた。この微妙な感覚の誤差をもたらすようなところが、この詩集のひとつの特徴としてあげられるのではないだろうか。それはたとえば、緊密な文体で描かれた場面のおびただしい転換や、映像的なイメージ喚起力の強い描写が、一本の映画の中での異なるシーンの記憶のように、それぞれの作品の中で多彩で独立性の強い印象を残す、といったことだ。たぶんその中には、作品に挿入されている藤原隆一郎氏の短歌が、そのつど作品の流れをいったんせきとめるような役割を果たしていることも含まれると思う(註1)。

 詩集『セラフィタ氏』は、その前身に詩集『空室』をもっている。前詩集『空室』は、2000年10月25日に発行されていて、詩集『セラフィタ氏』は2008年2月28日に発行されているから、それだけみると7年あまりの歳月の隔たりがあるが、収録作品の初出誌の記載を見ると、『空室』所収の詩「Happy 99」が2000年8月に「hiniesta」誌に、『セラフィタ氏』の冒頭を飾る詩「セラフィタ氏」は、2001年の3月に「現代詩手帳」に、と、ほぼ半年の間隔しか空いていないことがわかる。詩集『セラフィタ氏』は、詩集『空室』上梓のあとを受けて、あまり時間をおかず構想され着手された連作詩集なのだ。このことは二冊の詩集を読んだ読者ならどなたも感じることだと思うが、内容的にいっても詩集『セラフィタ氏』は、多くのものを詩集『空室』から受け継いでいる(註2)。またそれは類似のテーマで詩が書かれているという以上の意味を持っている。というのは、詩集『セラフィタ氏』では、作品中の語り手である「私」が、かって詩集『空室』を書いた詩人として登場し、『空室』を読んだ一読者からの感想のメッセージを受け取る、というところから、この連作詩集を縫うように進行する物語的な展開がはじまるからだ。


 「私」は、ある日、セラフィタ(註3)と名乗る男からの携帯メールを受け取る。自分は詩集『空室』を書店で購入した一読者である、と明かしたうえで、セラフィタ氏は、慇懃な文章とはうらはらに、なんともぶしつけな「忠告」と、あるサイトのアドレスを書き添える。


あなたの詩集については、追々感想を述べてゆきたいと思い
ますが、今日は一つだけあなたに忠告しておこうと思います。
あなあなあなあなたのセックスは、益々散文的になってきて
きてきているはずはずです。次のサイトを覗いてみて下さい。
今のあなたに必要なものが必ず見つかると思います----。
(「セラフィタ氏」より)


 作品の流れでは、「私」がそのメールにしめされたアドレスにアクセスすると、それは、「黒い画面上に浮かび上がる様々な手法で縛られた女たちの無表情な裸体」の画像を掲載した《----縄屋.com》というサイトであり、その画面を見た「私」は、セラフィタ氏のいう「散文的なセックス」という言葉について、「おそらく果てしない欲情のことだろう」と理解したことになっている。。


散文的なセックスとは おそらく果てしない欲情のことだろう
セラフィタと名乗る男と 私の
セラフィタと名乗る男と 私の男との
手掴みで蒸し鶏を頬張り合う この屋台のテーブル席が
彼と私と セラフィタ氏の
果てしない欲情の始まりに違いない
(「セラフィタ氏」より)


 詩集冒頭におかれた「セラフィタ氏」という詩のなかで描かれているこの挿話は、この連作詩集の物語的な展開を始動させる意味をもたされている。「私」は、セラフィタ氏のメールの忠告に従ってサイトを覗き、縛られた女たちの画像を目にし、その意図を、自分の内面に秘められた欲情への傾斜をいいあてられたかのように、肯定的に受け取っている。やがて「私」は、サイトの緊縛された女たちの画像に触発されたかのように、自ら手芸用の紐を買い求め、自分の身体を縛ってみたり、紐を買ったことを「私の男」にそっと携帯メールで伝えたりもするだろう。物語は、セラフィタ氏のメールが導きの糸となって、「私」が、自分自身の「果てしない欲情」を解放していくかたちをとっていく。しかしここでは、もうすこしこの挿話、というより、この挿話に含まれた意味について立ち止まってみたい。

 セラフィタ氏の最初のメールが意味するのは、一読者の感想という形をとった前詩集『空室』のテーマの開示であった、と言えそうに思う。詩集『空室』を読んで、その作者に、詩集を拝見したところ、あなたの性生活は、益々散文的になってきているように思えるので、新しい刺激でもみつけたらどうですか、緊縛写真をのせたサイトをご紹介します。というようなメールを匿名でおくりつけるような人が実際にいたのか、モデルになるような出来事があったのかどうかわからない。ごく親しい異性の友人がユーモアをこめて、ということはあるかもしれないが、見ず知らずの人が匿名でとなると、相手の反応を空想して楽しむような屈折した自閉的な人物によるスパムメールだと考えるのがふつうかもしれない。作者もまた、むしろそういう想像の線を増幅するかのように、「あなあなあなあなたのセックスは、益々散文的になってきてきてきているはずはずです。」と、忠告の文章の部分だけを、おどけたような表記で示していて、そのことは、病的な人物かもしれないセラフィタ氏の得体のしれなさを演出している、とはいえよう。しかし、「私」は、そのメッセージから象徴的な意味を、詩集『空室』のモチーフについての真実(内なる果てしない欲情の所在)を言い当てられたかのように読みとっている。そう読みとったとき、得体の知れないセラフィタ氏は、同時に、「私」の理解者であり、欲情の共有者であり、共犯者に変じたように描かれている。

 普通なら「散文的なセックス」という言葉から、「果てしない欲情」という意味を想像するのは、かなり難しいように思う。セックスが散文的、という場合、ふつうなら、習慣的、惰性的になって、新鮮な刺激が得られないものになっている、というニュアンスで受け止められるのではないだろうか。そう受け取るなら、詩集『空室』を読み、「冬の観覧車」という作品の中の「私」が男にネクタイで手を縛らせるシーンに目をとめたセラフィタ氏が、「私」の性向を深読みして、あるいは自分の性的嗜好との一致をそこにみいだして、「縄屋.com」を紹介した、というのも頷ける。だからたぶん作者はここで、「私」に故意に誤読させている、といっていいのかもしれない。この誤読は、セラフィタ氏の忠告のもっていたかもしれない平明なニュアンスを反転させ、セラフィタ氏を一種の欲望の洞察者、「私」の「果てしない欲情」の導き手のように変じせしめるような誤読なのだが、一方で、作者にとっての、詩を書く根拠をさししめし、詩集『空室』のテーマと、これから書かれるであろう詩集『セラフィタ氏』のテーマの相似性を連結している、という意味で言えば、もちろん詩集のはじまりにふさわしい「正しい答え」なのだといえそうに思う。



 2


 セラフィタ氏とは誰なのか。こんなふうに問いをたててみる。実際に「私」は、連作詩の中で、セラフィタ氏が誰なのかについて、いろいろな想像をめぐらせているし、末尾に置かれた詩「西日デパート」の中には、「まだわからないのですか、セラフィタ氏の正体が.....。」という、作中の「私」と読者にむけた挑発的な言葉や、床に転がった「私」が鞭を手にするセラフィタ氏の顔をみて「驚愕」するシーンがでてきて、「そんなことが、あるのだろうか? まさか...そんなことが......。」と「私」の内心の直接的な反応を綴った個所もでてくるし、「(もう、あなたにもわかったでしょう? セラフィタ氏の正体が)」と、念をおすような言葉さえ記されている。

 詩集では明解な答えは書いてなくて、その判断は読者にゆだねるようになっているので、ここでは勝手なセラフィタ捜しをやってみたい。連作詩の世界には、語り手の「私」にとっての「現実」、とでもいいたいような「事実」の世界がしつらえられている。その世界で「私」は派遣OLとして働き、休日には部屋にこもり「次の仕事の資料となる本を読む」とあり、この仕事が何であるかは書かれていないが、「性に関する本ばかり」とあるので、作者の略歴からうかがえる、コミックの原作やシナリオライターとしての仕事が暗示されているといってもいいように思う。さらに、上記のように、かって詩集を上梓した作家であることにも触れられていて、この「私」は、いわゆる「私小説」の主人公のように、実在の作者の自己像をなぞるように造形されていて、そのことで、連作詩の世界に独自のリアリティを与えるように構成されている、といっていい気がする。そんな「私」にセラフィタと名乗る男からメールがくる。このときから、セラフィタ氏は、「私」の世界に侵入しはじめる。しかしセラフィタ氏は、作品に登場する、「私」の情事の相手である「私の男」や、駅ビルの手芸品売り場の店員である「肌の荒れた中年女」「霜村さん」や、派遣会社のコーディネーターである「俳優の嶋田久作によく似た」「佐島」という男のように、その世界に輪郭のさだまった他人として実在するわけではない。セラフィタ氏は、自分は書店の新刊コーナーにいたとか、あなたが詩の情景としてかきとめた空地で、あなたとすれちがったことがある、とメールで書いてくるが、それも本当かどうかたしかめようのないことだ。ただしメールを送りつけてくる誰かであることはたしかで、この目にみえず得体のしれない他人という性格が、「私」をある意味でおびえさせ、妄想にかりたてることになる。詩で書かれた情景の現場にセラフィタ氏がいたという内容の第二のメールを受け取った「私」は、しばらく後に、自分の身体に買ったばかりのロープを巻き付けながら、ふいにそのときのことを思い出す。


夜の窓に赤いロープを首から掛けた女が浮かんでいる。私はようやく
思い出した。あの時、あの空地の前で、確かに私は、すり切れた紺色
のコートを着た大きなマスクの男に追い抜かれた。
(あの男がセラフィタ氏か?)
あの男は今日も私の詩のフレームの外側を歩いていたのだろうか?
例えばスリーエフのコピー機の前で陰気に分厚い本をコピーしていた
男が、例えばラブホテルの駐車場で客の車を移動させていた男が......
セラフィタ氏だったのかもしれない。
(「情事」より)


 セラフィタ氏の忠告に導かれるようにして購入したロープを首にかけて、夜の窓ガラスに映る自分の姿を眺めみているときに、「ようやく」思い出したという設定は、巧妙にこの記憶が「私」自身による捏造かもしれないことを暗示しているが、いったんそう思いこむとこの記憶は確信にちかくなっていく。続く「あの男は今日も私の詩のフレームの外側を歩いていたのだろうか?」という言葉にはちょっとこだわってみたいところだ。あとに続くことばの流れからいうと、この言葉は、単純に、「あの男は、「私」が今日外出先でみた男たちの誰かでなかったとはいいきれない。ゆきずりに見た彼らの誰でもセラフィタ氏である可能性がある。」という疑念を、セラフィタ氏がそばにいたことを知らずに詩を書いていたという過去の事実(と信じられること)に即して、いいかえているだけのように思える。しかし、そういう文脈から離れていうと、作者にとって「詩のフレームの外側」にいる男、という位置に、セラフィタ氏の像がむすばれていることを明かしているようにみえる。このとき、「詩」といわれていることは、「私」にとっての「現実」であり、微妙なことだが、書かれたものだけが、実在する、というテキストの奇妙な性格をいいあてている。スリーエフのコピー機の前で陰気に分厚い本をコピーしていた男も、ラブホテルの駐車場で客の車を移動させていた男も、そう書かれた時にはじめて「作品世界」という「私」の現実に参入するのであり、もし書かれなければ、セラフィタ氏のように「詩のフレームの外側」にとどまるほかはない。

 ところで、「詩のフレームの外側」にあるものを、詩のなかに呼び込むことは、誰の意志なのだろう。もし詩のフレームといわれていることが、「現実」なのだとすれば、そのフレームの外部との境界を定めているのは、「私」の注意力の限界であり、たえず外部からの働きかけに注意力が対応しているという意味で言えば、その意志は常に「私」のコントロールできる範囲をこえている。私は偶然みかけた人を、なにかのきっかけでその情景とともに記憶したりみすごしたりする。しかし書くことにおいては、ある意志や作為がはたらいている。「スリーエフのコピー機の前で陰気に分厚い本をコピーしていた男」と書くとき、外部から「詩のフレーム」の中にその像をたたしめているのは作者なのであって、うかがいしれない現実が、「私」の注意力の外部から偶然のようにおしだしてくる事象としての像なのではない。セラフィタ氏が、「詩のフレームの外側」や、そのみえないへりにいて、メールに書かれた言葉を通して、私の「果てしない欲情」に水路をあたえる、というとき、この作用の源は、「私」の表現意志でしかない、ことがわかる。しかしこの表現意志は、厳密にいえば「私」の無意識にとどまっていて、書くときだけに立ちあらわれてくるような意志なのだ。



 3


 連作詩のなかで、最初に自分はあなたの詩の読者であるといって緊縛画像を掲載したサイトを紹介し、二度目に自分はあなたとすれちがったことがあるといい、三度目のメールで、あなたには座禅縛りがおすすめですと書いてきた、セラフィタ氏は、四度目のメールで「オマエニ課題ヲ与エヨウ 近々キット オマエニダケワカル形デ」というメッセージを送ってくる。この言葉のでてくるのは、三編目の「新首相誕生」という詩の末尾で、メッセージはそこでとぎれ、次にセラフィタ氏のメッセージ(らしきもの)が登場するのは、詩集最後におかれた「西日デパート」の中のカレイドスコープの「オマエニ与エル最後ノ課題ダ」という文字である。その間に書かれた「熱の島」「スケアクロウ」「新世界」「氷河」という四編の詩にはセラフィタ氏は登場しないし、作中での言及もない(厳密にいえば、セラフィタ氏を暗示するような目を閉じたマスクの男の顔写真が「スケアクロウ」に登場する)。これは何を意味しているのか。

 メールの送り手としてのセラフィタ氏が誰であるか、彼の個人的な思惑がどういうものであるのか、ということは実はどうでもいいのだ、と考えてみよう。「私」が彼の最初の手紙から、彼を、自分の詩の基底にある「果てしなき欲情」の理解者として、その同伴者として、ある意味誤読し、そう思いなしたとき、また二度目のメールによって、セラフィタ氏を、AであるもしれずBであるかもしれないような、「詩のフレームの外側」にいる者として思い浮かべたとき、欲情の同伴者としてのセラフィタ氏が誰であるかという問いは、誰でもがセラフィタ氏でありえる、という答えのなかに消えてしまう。詩のなかからセラフィタ氏の消息がきえたとき、「私」の想念のなかで、逆にセラフィタ氏は遍在しはじめた、といっていいのではないだろうか。セックスの最中に相手の男がすりかわる古典の猥談(「情事」)のように、パソコン画面の中で「セラフィタ氏の顔は、佐島の顔になっている。」(「新首相誕生」)。「熱の島」の夢の中で「私」が性交する場面は、そういう事情を良く伝えているように思える。


夢の中で私は知らない男と性交している。はじめ男は「藤原さん」だ
った。今はまったくの別人だが、でも男はかつてどこかで会ったこと
がある人間なのかもしれない。例えばどこかの郵便局の窓口にいた男、
いや九階のオフィスの窓を時おり拭きに来る清掃員だったかもしれな
い。ブーンと低い音がして、部屋に紛れた一匹のカナブンが壁や天井
にぶつかり、闇雲に暴れている。ピシッとカナブンが私の腿に当たる。
ピシッ、ピシッと私の頬や胸や腹に当たり小さな痛みが走る。ふいに
生々しい視線を感じて私は窓を見る。宿の窓にもびっしりとカナブン
が張りついている。
(想像してごらん。網戸を食い破ったカナブンがいっせいにおまえの躰
を目がけて飛んでくることを)
ピシッピシッという音が次第に大きくなり、鞭打たれたような鋭い痛
みが躰中に走り私は歓びの声を上げる。カナブンの背後に島中の人間
の視線を意識して私はもっと声をあげる。

(しかし、私はいったい誰に抱かれたことになるのだろう?)
(「熱の島」より)


「オマエニ課題ヲ与エヨウ 近々キット オマエニダケワカル形デ」というメッセージをのこして、セラフィタ氏は沈黙してしまうのだが、その後に書かれた四編の詩からおおまかに読みとれる(自己意識の孤立感をテーマにした「新世界」をのぞいて)のは、この課題というのが、「私」の遭遇する性的な試練のようなものではないか、ということだ。セラフィタ氏が「私」の「果てしなき欲情」の代弁者であるとすれば、その課題とは、詩を書く「私」にとって、「果てしなき欲情」の諸相を描ききることへの要請であったといっていい気がする。他人にみられながらの性行為(「熱の島」「スケアクロウ」)、身体的な苦痛を伴う性行為(「熱の島」、「スケアクロウ」)、二人の男との性行為(「氷河」)が描かれるとき、「鞭打たれたような鋭い痛みが躰中に走り私は歓びの声を上げる。」「島中の人間の視線を意識して私はもっと声をあげる。」「火事現場から逃げ遅れた女のように夢中で叫んでいる。」、「私は管 収斂を繰り返す歓びの管」と、倒錯的だったり被虐的だったりする状況が「私」にとっての快感であることを、作者は読者に印象づけるように書きそえるのを忘れない。しかしこのセラフィタ氏が登場しない一連の詩編は、「(本当ニシタイコトハ/コンナコトダッタノダロウカ)」という言葉を残して、詩集末尾の欲情の横溢する性夢のような世界を描いた「西日(にしび)デパート」に接続される。


 4


「西日(にしび)デパート」は、白日夢(デイ・ドリーム)の世界を、そのまま言葉に定着したような作品だ。「私」は「西日デパートへ素敵なウェディングドレスを買いに行こう!」という言葉を残して失踪した「あなた」の後を追って、昭和四十年代のデパートを再現したという四階だてのテーマパーク「西日デパート」を探し当てる。地階から四階まで、店内をくまなく探索するが「あなた」はみつからず、辿り着いた屋上階で途方にくれてカレイドスコープをのぞきこむ。するとそこに映し出されるのは、何人もの男女たちの演じる性行為であり、スライドが最後にきりかわると動画となって、画面に登場したセラフィタ氏が横たわる「あなた」の胴体を二つに切断する場面が映し出され「私」はショックのあまり昏倒する。気が付くと「私」は自分が全裸の姿で椅子に縛りつけられていて、自分が閉じこめられているのがカレイドスコープの箱の中だということを知る。そこで私はカレードスコープをのぞき込む人々の目にされられたまま、性交をくりかえすが、鞭を手にして自分を見下ろすセラフィタ氏の素顔をみて驚愕する。また、屋上にやってきた「あなた」がカレイドスコープをのぞきこもうとしてることに気が付く。。。

 この作品は、この連作詩集の末尾におかれていて、連作を通じての物語的展開の結語部分にあたっている。映画でいえば終盤の山場というところだろうか。「霜村さん」(「情事」)、「佐島」(「新首相誕生」)、「旭ブロックの男とグレーの作業衣を着ていた男」(「氷河」)といった、これまでの作品の「詩のフレーム」の内側に登場した人物たちをはじめ、影のように作品によりそっていた「セラフィタ氏」も登場する。けれどここでは、そうした物語の流れとは別に、この作品を一編の独立した作品としてみてみたい。

 この作品は、白日夢の世界に似ている、と書いたが、この白日夢的な世界は、とても周到に組み立てられている。最初に気が付くのは、作品で描かれる出来事が、パソコンの画面の中で生じているように構成されていることだ。「西日デパートへ素敵なウェディングドレスを買いに行こう!」と「貝の形のiBookを開きながら唐突に」あなたは言ったまま、「私」の前から姿を消す。それから、「西日デパート」という言葉を手がかりに、「私」のあなた捜し(デパート地獄巡り)がはじまるのだが、注意してみると、「貝の形のiBook」は、開かれたまま放置されている。浅草界隈を迷い歩き「西日デパート」を訪ね当てたという言葉とは、うらはらに、というより、この探索(白日夢)は、すでに、「私」がパソコンの画面をみいることではじまっているかもしれないのだ。この想像は作品の終盤に、「貝の形のiBookがゆっくり開く」という行がでてきて、そのモニターに映し出された自己像(「ボロボロのウェディングドレスを着た私」)が地獄巡りの白日夢からの覚醒を促すように描かれていることにも対応している。もちろん覚醒といっても、依然として「私」がいるのはデパートの屋上であり、ここでは、夢から別の夢に抜けるようなことが起きているのだが、「私」の意識の体験としては、「ウェディングドレス」という言葉や、もしかするとパソコンのモニターにうつったウェディングドレスの映像をみたことがきっかけで、膨らんでいった想念(それを幸福なイメージとしての結婚願望といっていいのかもしれない)のゆくすえを、白日夢という形で内面に投影してみたことの結果として導かれた苦い自己認識(もちろん歪曲されたかたちでの)のように、この転換はおこなわれている。

 もしこの地獄巡りが、貝の形のiBookのモニターの中で起きたことだとすれば、という空想は、さまざまな連想をさそう。なぜそこが「西日デパート」なのか。ひとついえそうなのは、各階に異なる多様な商品を陳列したデパートそれ自体が、完備された世界のひながたのような意味をもっている、ということだ。しかも「西日デパート」は本物のデパートではなく、昭和四十年代のデパートを再現したという四階だてのテーマパークで、売り場にはマネキンの売り子がいるという、まがいものの世界として設定されている。この設定もとても見事に思える。夢の中でみるデパートと、現実のデパートを隔てるのは、一方がまさに夢でしかないということだ。しかし、夢の中でみるデパートが、テーマパークとしてのデパートであるということは、夢の中にまた夢の世界をしつらえる、ということに似ている。このイメージの重層性は、夢の中でカレイドスコープをのぞく、ということにもいえる。この所作は、現実には「私」が、iBookのモニターをのぞくこと(のぞいたこと)を反復していて、「私」が、セラフィタ氏のしめしたサイトを覗いて、女性の緊迫画像をみたように、そこで男女の性交の場面や緊縛された霜村さんの画像を目撃することになる。これは象徴的にいうしかないことかもしれないが、「私」が体験するデパート地獄巡りの世界は、モニターの中の世界に重ねあわせてみると、さほど奇異な感じはしない。奇形の動物たちばかりをあつめたサイトでも、スナッフ(実際の殺人現場を映した画像)フィルムをのせたサイトにしても、探してみようとさえすれば、みることが可能だろう。人々の無意識の「果てしなき欲情」がつくりあげた世界だといえば、それは当然のことのようにも思われる。。

 もうひとつ書きたいことを書いてみる。この西日デパートが、「昭和四十年代のデパート」を再現したテーマパークとして設定されているのは、どういうことなのだろう。「四階建ての古めかしいデパートの壁面には〈四十二年間、ご愛顧ありがとうございました〉という垂れ幕が掛かって」いて、「屋上の鉄柵には赤いタイツを穿いた女の下半身だけのアドバルーンが結ばれ、地上を覗き込むように屋上から迫り出している。」とある。また、この建物は、「繰り返し私の夢に現れる無人デパートに似ている。」とある。著者の略歴欄を見ると、四十二年という数字が、作品の初出(2002年11月)時の、著者の年齢に一致することがわかる。この一致はたぶんとても意識的なもので、もしかすると、著者はこの作品(厳密には、この連作詩集を通してということだが)で、ひとつのテーマの核心にふれるような総決算を、試みたのかもしれない、という思いに導かれたのだった。この作品にかぎっていえば、それは「私」の少女期の記憶を巡る探索、というかたちをとっているといっていい感じがする。またそういう言い方をするなら、「私」が少女期の原光景にふれるべくしてふれる、というところまで、作品が届いている、といっていいのかもしれない。すこし気をつけてみると、連作のなかで、この作品のなかに登場する「あなた」だけが、すこしだけ他の作品に「私の男」として登場する「男」としての「あなた」とは異なるような印象をうける(古典の猥談を聞かせ、それを真似て実行する「情事」の男や、「スケクロウ」に登場する「私の名前をまだ一度も呼んだことのない男」には共通性があるが)。この作品での「あなた」は、「ウェディングドレスを買いに行こう」と、結婚を暗示するような言葉を口にしたあと失踪して、その後はもっぱら「私」に捜し求められる存在として描かれているので、当然と思われるかもしれないが、この作品では、「あなた」もまた「私」を探していて、アナウンスでしめされた場所に「私」がいないとこを知ると「落胆したよう」にベンチに座り込む。この「あなた」=「私の男」の造形のニュアンスの違いは、作品のストーリーの要請というよりも、「あなた」に、誰か他の人物の影がとかしこまれているからのような気がしないでもない。詩集は、最終ページに、セラフィタ氏のメールの言葉を反復するように掲げて終わっている。


「オマエニ課題ヲ与エヨウ オマエニダケ ワカル 形デ」
(詩集最終ページより)


++++


註1)
 この詩集は、二人の作者による合作の試みという面をもっている。ただ、この合作ということの意味を理解するのはかなり難しいことだと思う。たとえば短歌が単独の作品として読まれた場合と異なる効果が、詩の中に挿入されることによって生じる。そういうことはある意味みやすいことかもしれないが、結果としてそういう配置に決定された、そこに至る合作のプロセスのなかにむしろ見えないが興味深い部分が隠されている、という気もする。ある詩の一節が書かれ、そのイメージに呼応するように短歌がかかれ、さらにその短歌に触発されて詩が書きつがれる、そういう単純な流れで作品が作られているのだとすれば、たぶんこのプロセスはずっと見えやすくなると思うが、実際にはそうではないだろう。いくつかの完成した短歌作品の中から特定の作品を選んで、すでに完成している詩のなかに効果的な部分として挿入する、という場合、それはほとんど引用に近くなるし、ある短歌作品から特定のイメージをとりだして、むしろそのイメージに合わせるように詩の一節をつくりあげ、短歌の前後に配置するように作品を構成する、という場合も考えられる。逆に、完成した詩のなかの望ましいと思われる位置に新たに内容に相応しいと思われるような短歌が書きおろされる、というようなことも考えられそうだ。相互の作品の選択と最終形の決定、また詩集全体の構想というようなことで、二人の作者の間でどの程度の方法論の合意ややりとりがあり、それがどの程度作品に反映しているのか、ということはわからない。イメージの照応関係がよみとれるとき、その効果をもたらした作者はどちらなのか、ということも厳密にはわからない。けれどこの見えない部分はこの詩集成立の背景にあって、共作者たちの美意識や相互の作品理解が火花をちらすような充実した時間の堆積があったように思えるばかりなのだった。


註2)
詩「新首相誕生」には、派遣会社のコーディネーターである佐島という男が、「私」にむかって、「唐突に私の詩集の話」をはじめるところがある。

----いろんな会社が出てくるのがあったでしょ。「箱女」だ。あれ全部、
  僕の前任の三津田さんが担当してた会社ですよね?あれよかっ
  たな。男に手縛らせるヤツ。「観覧車」が出てくる。
----あれは.....
----全部、ホントのこと、だったりして?



 このセリフのなかで、「箱女」といわれているのは、詩「Happy 99」のことで、「「観覧車」が出てくる」というのは、詩「冬の観覧車」を指している(いずれも『空室』所収)。この個所は、詩のなかの登場人物である「私」が、かって詩集「空室」を上梓した詩人として等身大に描かれている場面で、おもわずその入れ子構造にはっとさせられるところでもあるのだが、それはおくとして、ここでさりげなく注意がむけられている二つの詩は、そのモチーフとしても、詩集『空室』と詩集『セラフィタ氏』を、いくつもの線で連結する象徴的な作品だといえると思う。

 詩「Happy 99」は、様々な異なる環境の会社の職場で派遣社員として「箱女」のように働いていた「私」の記憶の情景描写からはじまるが、ある日見知らぬ男から新ウィルスHappy 99に注意を促すメールを受け取る。「私」は、「Happy 99」というその名前から、昨晩性交のあとに「どうすれば君はもっと気持ちよくなれるんだ?」といった男の言葉と、そのとき何も答えられなかったことを思い出す。私が派遣の仕事で観葉植物を運びいれるためにオフィスに向かうとそこは無人で、そこここに箱が積み上げられている。私がパソコンのウィルス感染したファイルをひらくと、「HappyNew Year」という言葉の表示とともに花火の映像があらわれる。その画面の言葉からの連想で、ふたたび私の頭に男の言葉「君はどうしてもらいたいの?」がよぎる。今まで相手のことばかり考えていた自分が、本当はどうしたいのか、私はこの詰問にとまどい、わけもわからず箱をつみあげる。あなた(詩ではここから「私」という表記が「あなた」に巧みにずらされている)は、詰問においつめられて、その天辺にのぼりつめたすえに(抱っこして)と叫んでしまう。すると、積み上げられていた箱それぞれから二本の腕がでてきて、箱から変じた「箱女」たちが同じ言葉を口々に叫びはじめる。積み上げられた箱の天辺で放心状態になっているあなたは、そのときまだ知らなかった。「(ダッコシテ ダッコシテ ダッコシテ)/という声が谺するこの宇宙の果てで/「I LOVE YOU」という名の孤独なウィルスが発生しようとしているのを」と、詩は結ばれている。

 この作品前半の派遣社員としての職場体験の簡潔で即物的な描写と、そこからもれる吐息のような願望、ある日届く不審な携帯メール、という導入部分からは、詩「セラフィタ氏」を思い描くことが可能だし、(君はどうしてもらいたいの?)という男の言葉からは「----本当にしてもらいたいことを正直に言ってみろ。」という「氷河」にでてくる旭ブロックの男の声を、後半の妄想のビジョンの積み重ねられた「箱女」のイメージからは、(私の名を呼んでください)と言いながら行進する案山子の一団のでてくる「スケアクロウ」を、(抱っこして)という叫びは、そのまま「西日デパート」の(ねぇ、結婚、してよぉ)という「私」のせつないつぶやきに重ねることができそうに思えてくる。また、この作品の、ウィルスに感染したメールを開いたために、「I LOVE YOU」という名の孤独なウィルスが発生し、宇宙にひろがっていくというイメージは、詩集『セラフィタ氏』の連作詩の構想を先取りしているといえるかもしれない。

「冬の観覧車」は骨組みだけの観覧車をみていてその「両腕を肩から切り落とされた女が立っている」かのような形からの連想で映画『サンタ・サングレ』に登場する母親コンチャへ、またその役柄の連想から自分がなりたくなかった(自分自身を愛せなかった)「母」的なものへと連想がうつっていき、その母をめぐる「私」の心の葛藤を、後半で男にネクタイで手首を縛らせて行う「私」の性行為のシーンと、心象イメージ的に緊密にとけあわせた作品だが、詩「セラフィタ氏」では、セラフィタ氏が、「縄屋.com」という女性の緊縛画像を掲載しているサイトを紹介するメールを送ってくる、きっかけになった作品と想定できそうに思える。


註3)
セラフィタという名前(ハンドルネーム)から連想されるのは、オノレ・ド・バルザックの小説『セラフィタ』に登場する、セラフィタ=セラフィトゥスという名の人物だ。詩集に挿入されている藤原隆一郎氏の短歌に、


オノレ・ド・バルザックなる作家居てアルジャーノンはネズミの名です

ノイズかもしれず聖痕かもしれずセラフィタ=セラフィトゥスなる闇は

の二首があげられていて、この小説の主人公名から、とられたことが伺えるが、両性具有の天使的存在であるセラフィタ=セラフィトゥスと、この作品のセラフィタ氏との関連をたどるのは難しい。ただ、「バルザックの場合、『セラフィタ』における両性具有のテーマが《異常な性》への関心と密接に結びついて生まれてきたということは間違いなくいえるのではないかと思う。」(『世界幻想文学大系第六巻 セラフィタ』(国書刊行会)の「『セラフィタ』解題--沢崎浩平」より)、というようないみでの、イメージ的な関連が想定されているのかもしれない。、




ARCH

柴田千晶『セラフィタ氏』(2008年2月28日刊・思潮社)






[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]