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竹内敏喜詩集『任閑録』ノート



           「いずれのセリフも死者の彼方をイメージ化し
            逆説的に、いのちの現在をさぐる試みなのでしょう」
             (詩集『任閑録 salon編』所収「小劇場」より)



 竹内敏喜詩集『任閑録』は二冊組の詩集で、それぞれ筒状の箱形カバーに収められた紐とじの小冊子からなる詩集の表紙には、『任閑録』という表題の下に「vase編」「salon編」と副題がつけられている。両詩集には、それぞれ13編の詩が収録されていて、「vase編」には、vaseというタイトルにそれぞれ異なる日付の付された7編の詩、「salon編」には、salon、salon2から9までのナンバーと多くは副題の付された詩が併せて10編収録されている。このそれぞれの詩集で収録作品の半分以上の比率をしめる連作詩編の対照が、最初いちばん目につくところだ。




 ごく大まかにいうと、「vase編」では、生活のなかでであう特権的な時間体験のようなものが主題にされた作品が多く、その時間体験が、心、という花器(vase)にもられた美しい花のような姿として捉えられている、といえそうな気がする。


vase  ----2007/04/20


赤ん坊が
ゆぶねのなか
手足を ばたつかせ
顔いっぱいに水をあびながら
よろこびにあふれている

その様子に
おさない母が
心あたためていると

少女が
プールのなか
友人を 追い抜かそうと
身体能力を使いきってゴールにつき
涙をあふれさせている

その様子に
仕事づかれだった母は
もらい泣きしていたが

やがて白髪のほつれを
風のままになびかせ
じっと
海をみつめる横顔
命へのひびき

その様子に
立ちどまって見上げる
ちいさな眼......

そのまなざしは
あなたのもの わたくしのもの
シーツの波に呑まれたり
耳を傾けたりしながら
華のように そこにあるもの


 生活のなかでであう情景。赤ん坊の笑顔、それを見ているまだ年若い母親、競泳を終えた少女が、うれしさに流す涙、それを見てもらい泣きする母の姿。海をみつめている老いた母の横顔と、それを見上げている子供の小さな眼。こうして並べられた情景のイメージは、いずれもそれを見るものに引き起こされる感応とともに捉えられている。たぶんこの生活のなかにあって、そのふれあいに気付くものだけが、それを幸福と呼べるのかもしれないような、人と人の感応の時間のようなものが、心という器を飾る「華」と呼ばれているのだ。
 作品としてみると、ここで捉えられている幾つかの情景には、「水」がよりそうようにでてくる。この水は「華」を活かす水であると同時に、赤ん坊、少女、幼い母、成熟した母、老いた母、という、女性の生涯のありかたの推移が、そうした水との関わりで描かれているという見方もできるところがある。幼い頃は、わけもなく戯れる対象であった水、若い頃は、世界の抵抗感そのものであったような水、老いた母は、その水をはるかな過去の姿のように海として遠望している。ちいさな目の幼子は、その老いた老婦人の横顔をまぶしく畏怖しているのかもしれない。最終連で、そんな人と水の関わる情景、そのことに感応する者のまなざしが、「あなたのもの」、「わたしのもの」、と語られるところで、この作品が、「あなた」にむけられた一種の恋歌であることがあかされている。わたしたちの未来の「海」へと続く時間に誘うように。

 連作「vase」のなかで、「華」(花)という言葉は、いくつかの作品で印象的に使われているのだが、そのなかから、「華」という言葉のでてくる作品を引用してみよう。


vase  ----2007/04/30


仕事を辞めたいとの悩みを
お聞かせくださって...

そちらでの苦労を具体的に知らずに
提案できることがあるとすれば
それは、わたくしがどのようにあなたに対し
責任を持つつもりか
という意志の表明になります
その意味で申し上げるとしたら...

ここまで書いて、電話が鳴りました
やはりお声を耳にすると心がやわらかくなります
短い休暇中のことですし、こちらからは
連絡しづらく
すっかり待つ身になっておりますけれど
おかげで手紙の筆が進むのかもしれません
おおきな声ではいえませんが
自分の表現にとっての
すばらしい鍛錬の機会でもあります...

あの夜
相手をおもう心を指さきで差しだし
はじめてのように肌のりんかくをなぞるという
渦中にあっても
目のまえの表情をみつめながら
いくらか言葉でとらえていた愛情ですが
しだいにこちらの自意識が華のように
覆われてしまうころ
肉体が、永遠に染めあげられていました...

そうした時を積みかさねることが
生命の本来のよろこびなのでしょうね


 連作「vase」の作品の多くは、こうした書簡体とでも呼べそうな文体で書かれている。それらの作品はこのように実際に書かれたプライベートな手紙(恋文)の文面を行分け詩として再構成したような体裁をとっているのが、ひとつの特徴になっている。この作品では、たぶんあなたと過ごした親密な時間の中で生じた、「言葉でとらえていた愛情」が、「自意識が華のように覆われてしまう」・「肉体が、永遠に染めあげられ」る、といった内的な感覚の体験が新鮮な発見のように語られている。「自意識が華のように覆われてしまう」というのは不思議ないいかただが、ここでも、「華」という言葉でいいあらわしたいような特権的な時間の体験が、「言葉」や「自意識」という枠組みから流出するように捉えられ、そのことが、「生命の本来のよろこび」として語られてることに注意すべきかもしれない。


vase  ----2007/08/15


金曜日の夜、池袋から四十分の駅に着いても
電話はつながらず、しかたなくカフェで読書をしておりましたが
仕事が片づかないのだろうと想像しつつ
そうした不運はすぐにわすれ

肌を通し、土地の空気になじみゆく自分を受けとめていました

あなたの働く病院の背後の、熟れきった木々の奥の森林や
数百もの蓮が咲いていた沼の周囲にひろがる
草木のあらあらしい生命力が
ほどよい媚薬として訴えかけたのかもしれません

ならば大いなる存在には安心して身をゆだねるべきです

なにごともなく、あなたの部屋で食事をする時間がきたなら
ふるさとの母から届いた写真を一枚ずつひろげたりして、
ふくらむべき次の華が、発掘された物語のように
あらわれるのを知るでしょう

それは神の感覚にならって眠りを楽しむことに似ています

----自己の孤独に向き合うとは、このようなことなのでしょう
  流れに逆らうことなく、流れに溺れることなく
  本来あるべき「道」を流れのなかで自在に感受することです
  さらには自在であることを自覚してしまうと
  自己に溺れることに通じるわけですから
  外である流れに対して常に自己を開いていなければなりません
  そこにおいて、この個人の姿は   「道」そのものの姿のように見えてきます

そういえばいつか夜明けまえのこと
一晩中吹き荒れていた風がおだやかになって
ひぐらしの鳴き声がよせては、かえし
ゆめ も うつつ も

ハーモニーのてのひらに、揺られていました


 この作品で「華」ということばは、ある未来のなかの来るべき時間として、「発掘された物語のように」あらわれる、というイメージをさししめしている。「あなた」に会いたいのに会えない時間、そういう不遇な時間のさなかにあるはずなのに、そんなことはすぐに忘れて、自分は「大いなる存在には安心して身をゆだねる」ように、現在の孤独を楽しめた。この自分の内面に生じた感覚が、後半では、「タオ」の教えにもかなうことのように覚者のような語り口で語られているが、たぶん、それは、あなたへの信頼、という、未来の「華」の訪れへの確信に支えられているように思える。

 詩集「vase編」の末尾には、こうした連作「vase」のなかで「あなた」と語りかけられている女性が「妻」と呼ばれて登場する連作の後日談のような「新居にあり」「如月一輪」という作品がおかれていることもあって、詩集としてひとつの物語的な統一感をつくりあげている。


2 

 「salon」は、広間や社交会、場合によっては美術品の展示場を意味する言葉のようだが、それを、あるひろがりをもった部屋のような空間だと考えれば、「vase」という言葉同様に、いずれもなにかを満たす容器のような対のイメージとして選ばれたのではないか、と想像できそうな気がする。「vase」が、「華」(花)という言葉で象徴されるような特権的な時間体験の場(ある意味意識をはなれて美に魅入られるような)なのだとすれば、「salon」という言葉がしめすものは、意識に訪れる様々な対象に振り向けられた関心(自己意識や批評意識)そのものをテーマにした作品の場ということになるだろうか。実際、「salon」という詩は、9.11のアメリカの同時多発テロ事件を取り上げているし、「salon 2  ----「衣服の精神分析」による」では、タイトルにあるようにE. ルモワーヌ・ルッチオーニ著の『衣服の精神分析』の引用が大きな部分をしめている。東慶寺を訪れて文士の墓に詣でた時のことが書かれている作品(「東慶寺」)や、小劇場で観劇をした時の体験がもとになっている作品(「小劇場」)もあれば、友人との別れにたむけた作品(「salon 2  ----F氏に」なども収録されている。こうした素材の多様性とともに、作品がまとっているのは、テーマの多様性であるともいえる。それは明解に透明感のある線がひけそうなものから、ある種の了解しがたいような難解さを帯びているものまで、さまざまな断面が作品から浮き上がってくるところがある。「実体としての言語のあらわれと/主体性としての自己意識とのあいだの/救いようのない不一致...」というのは、「salon 4  ----年始に」の中の詩行だが、「どこから話しはじめるか」という言葉からはじまるこの作品には、「私(主体性)」を手放さすに詩を書くことの現在の困難が、率直に描かれているように思える。


salon 4  ----年始に


どこから話しはじめるか

それも問題だ

御籤ならかんたんでいい
----失せ者 出るが役にたたず

この国では古いものであるほど密室でおこなわれた神がかり
にもかかわらず
祭る者が神となる事実はかれらに信じられていた

  *(かれが降ったよ 風をまびいたよ)

やがては疑いはじめるか
声の主体を
ワタシという解体から締め出されている弾道へむかったの

----争事 先に言と負ける

さびしいとかんじるほどの暇もない忙しさだった
しだいに旅ごころはもろくなって

  *(ふって とけ けがれて ただれ)

千年の定型が日本語の抒情をささえていると知ったなら

「実体としての言語のあらわれと
 主体性としての自己意識とのあいだの
 救いようのない不一致...

暮れのこる境内の火に背をさらし
地をみつめれば鬼のゆらめき


 書くことの困難さという心象が、神社で求めた御籤の言葉との対応に心をとめさせ、それが古い時代の「神懸かり」へと連想を誘っていく。神懸かりが象徴するのは、ことばとこころ(主体性)との幸福な一致ではなかったか。声の主体への不信(という言説)に覆い尽くされているような現在は、(「ワタシという解体から締め出されているような「私」の心にとって)さびしい風景ではあるにちがいないのだが、そんなさびしさにひたるゆとりももてないまま、今ここにある。その心のありようが、訪れた神社の篝火のによって地に映しだされた「鬼のゆらめき」のような自分の影に重ねあわせられている。興味ふかいことに、この「年始に」と副題のつけられた作品の下敷きになっているように思える初詣のエピソードが、「vase編」の「新居に在り」という作品にも別のニュアンスで登場する。


新居にあり


年末年始の休暇に入り
ようやく蓮田の土地が身近にかんじられます

日がな、柳田國男集の相手では疲れるので
夕方などに
自転車で散歩してみると
以前、歩いた沼辺のさらに先には冬田が
ひろがっており
なんとも空はおおきく
おおきいと、どこたなく静かでやさしい雰囲気があります

そういえば大晦日の夜、徒歩で二十分の久伊豆神社に
初詣をしたところ(ひさいず、と読みますが
妻の同僚にクイズと憶える方が
いるそうです)
うえから覆いかぶさるように北斗七星が浮かび
そのどっしりとした風格は
幾千年の祈りをたどるかに見えます

お参りのあと、みくじをひくと
彼女が第一番の大吉
こちらは第二番の大吉、
なかなか縁起の良いことですから
ふたつをならべて額に飾ろうかと話しました

----人生 塵蒙に在り
  恰かも盆中の虫に似たり
  終日 行いて遶遶
  其の盆中を離れず       (寒山)

境内では
しばし焚き火をかこみ、舞い上がるそれぞれの灰に
たましいの一筋をおもいました


    注 塵蒙(じんもう)......塵に覆われること
      遶遶(にょうにょう).....ぐるぐる歩きまわる


 年始という時期、御籤のこと、境内の火(焚き火)などが共通しているが、作品のトーンは対照的に異なっている。作者はたぶんこのふたつの作品を「vase編」「salon編」にわけて提示することで、その振幅のなかに自分の表現の現在がある、といいたかったのだと推測できそうな気がする。


3

 以前、竹内さんの詩には、宗教的感性(キリスト教的な)への傾斜のようなものが見られるということを書いたが(「リタ vol.12」所収「竹内敏喜詩集『燦燦』と『鏡と舞』について」)、その特徴は、この詩集でも一貫している。「vase編」に収録されている「祈りについて」や「恩寵について」といった作品のタイトルは、直接そのことを示していようし、聖書の一節がそっと詩のなかに引用されている作品も多い。そのことで、詩で描かれている世界が聖書のことばから逆照されるようなところがあって、作品に独特の奥行きをつくりあげているのだが、「salon編」冒頭には、「記憶、その前日」というタイトルの、ちょっと不思議な作品がある。


記憶、その前日


門をくぐると、真正面にみえるのは西欧近代風の校舎だ。白く塗
られていた壁はまだらに紫がかり、左手にあって奥へとつづく建
物も、ここから右側に伸びる建物も同じありさまらしい。全体は
「コ」の字を鏡に映した配置で、その内側にひろがる校庭には一
面に草が生えており、北へ向かって下るなだらかな坂になってい
る。二十代のグループがいつしか座っていて、遠くをみている。

左手の奥には校舎と校舎のあいだに空間があり、そこを過ぎよう
として、五色に彩られた巨大な馬とすれちがった。目を合わせる
まま神だと直感したが、
          ...さらに進めば、巨木の梢へと滑走路のよ
うに小道がつづく。しだいに重力が強くなるのか、力みつつ勢い
をつけて走りぬければ、空に出て、
               ...軽々と浮かんでいた。地上は
はるか下方にきらきらと輝いていた、うつくしい、と声が響いた。


 カフカの日記にでもでてきそうな幻想的な作品だが、前段の情景についてのこまやかな描写と、後段の自分が道を走っているいつかうちに空に浮遊していたという描写の対比が、どこか夢の体験をもとにしたような印象を受ける。夢のようだ、と感じられることには、この作品の主体が、自分のおかれている状況をある意味客観的に語りながら、そこで起きていることの不思議さに驚くという現実的な反省意識が働いていないことにもみうけられる。五色に彩られた巨大な馬を見ても、自分が宙に浮いて地上を眺めていることからも、ふつうなら生じるであろう疑念や驚愕の思いが湧いてこない。主体はなぜか「神だと直感した」り、地上を眺めて「うつくしい」という声を、内心の思いのようにきくばかりだ。こういう心の動きはたぶんめにみえる像そのものが意識と結びついているような、夢をみている状態に似ていると感じられる。「しだいに重力が強くなるのか、力みつつ勢い/をつけて走りぬければ」というのも、「走る」(いつのまにか自分は走っている)という理由があかされていなので、唐突な感じがするが、これも夢の意識の体験と考えるとありえそうなことだとは言える。そしてこの作品の最初の行変えの間にある場面の転換には、言葉としては書かれていないが、自分がすれ違った筈の巨大な馬にいつしか変身していた、というイメージが隠されているようにも思える。これは微妙だが、たぶん夢のなかで自分が「神だと直感」したものになった、ということを意味するわけではない。自分がペガサスのように飛翔しても、神は外部にあって「うつくしい」という声を発していて、私はその声を内側から聞こえる他者(世界)の声のように聞いている。この作品に「記憶、その前日」というタイトルがつけられている理由はわからないが、このある意味自己像の変身を暗示するような夢は、なにか現実の出来事の予知夢のように作者に訪れたのかもしれない。夢のなかの意識は、夢そのものの展開や内容をそのつど変容させて決定していくが、巨大な馬と目があって「神だと直感」した、という感じ方には、超越的なものに感応する作者の資質がよくあらわれているように思えて、紹介しておきたい作品のように思えた。


 最後に今回も詩集のなかから私の好きな一編をあげておきたい。


salon  7  ----飯田橋駅前


そして午後三時
雲ひとつない三月の空を
歩道橋で
みつめていると
うっすら青い、いろのなか
ものを見ていない
という感覚がわかる

右手の鞄には
九歳のころから使っている筆入れ
とても大切なひとに
もらったから
いつまでも身近にあったはずなのに
それが誰だったか
いまは、おもいだせない

ことばをうむための
ペンではなく
誤字脱字を訂正しようと
傷の匂いを追う棒ばかりを
孕む、ということは
あの鉛筆にまみれた時代にくらべ
なぁ さびしいか

出先での仕事を終え
そうかもしれないと考えながら
うっすら青い、いろの
見ていないという感覚の
にじみ
それゆえの語り


ふいの、友のような
事後のsiren
わかく
やさしく
思慮ぶかく







ARCH

竹内敏喜『任閑録』(2008年8月20日発行・水仁舎)






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