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久谷雉詩集『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』ノート



           「ちいさな風のなかで
            あなたは静かにばらばらになるだろう
            ばらばらになることでかろうじて
            あたたかな蜜で
            ありつづけるだろう」
             (「ある愉しみ」より)



 この詩集は、冒頭と末尾におかれた「----n夫婦に」「----s夫妻に」というタイトルのふたつの祝結歌をはさんだ二十四編の作品からなっている。また全体は八編づつ三つの章にわけられていて、それぞれ「ぼくが生まれていたかもしれない町でおこった八つの出来事」「ぼくが出会っていたのかどうかさえ忘れてしまった人たちの八つのつぶやき」「ぼくが冷たくなったコンソメスープのために唱える八つのお祈り」というタイトルがつけられている。

 著者の「あとがき」には、この本にあつめた詩のほとんどは、著者の友だち(「東京のはずれの坂道の多いまちに暮らしている女の子」)が聴かせてくれた話に対する「へんじの代わりにかかれたようなものです。」とあり、その女の子と今では疎遠になってしまったことが明かされたうえで、「これからずっと、このひととのつながりの中で詩を書いてゆくのだろう。というぼくのもくろみは、見事に崩れさりました。」と書かれていて、「この滑稽なありさまにほほえみかけることのできるまで、一体あといくつ齢を重ねればよいのだろう。」という慨嘆がつけくわえられている。収録されている多くの詩の書かれた背景や、完成した詩集についての思いを率直に書き留めたこの「あとがき」は、この詩集をよむうえで、著者自身がしるしたひとつの道標のような意味合いをもっているように思える。。


返事


ベランダの下で
すれちがう電車が
いつもよりひとまわり
ちいさくみえる日
ぼくはうっかり
忘れてしまいそうになるのだ
あたまからはじまって
しっぽで終わる
という
この世の単純なしくみを

おぼえていても
忘れてしまっても
本は読めるし
自転車にも乗れるし
薬屋はあかるい
はだかの女のかたわらで
性器でも こころでもないものに
なることだって
むずかしくはない

それでも
人間の手をはなれて
青空のへりでゆれている
わかれのあいさつに
どんな返事を
書けばよいのか
みえなくなることだって
あるだろう


 本を読むとき、まず「あとがき」から読み始めるというような習慣をもっている読者はともかく、詩集を最初から読みすすんで「あとがき」に至ってから、再度、24編の冒頭におかれたこの作品を読みかえすと、見え方がかなりちがってくるところがあると思う。「あとがき」が道標のようになっていると書いたのはそういうことで、実際に、ひとりの特定の女性(「ともだちだった女の子」)がいて、彼女からきいた話の返事としてこの詩集の作品の多くが書かれたという、あとがきのことばは、この作品の最後の連にでてくる「わかれのあいさつ」が、彼女からのわかれを告げる手紙を暗示しているらしいことに、どうしても注意をむけさせることになるだろうからだ。そのことが、この作品で描かれている「とまどい」の様相をより鮮明なもの変貌させる。これは一度知ってしまうとあたりまえのようなことだが、ちょっと不思議な体験だった。

 この作品がみごとなのは、失意の状態の心のうごきを微妙になぞっているところがあるからだ。いつもより電車がちいさく見える状態、というのは、ともすれば「この世の単純なしくみ」を忘れてしまいそうになる状態であり、いわば日常からすこし遊離したような心の状態だ。しかし、それでも(世のしくみなんて忘れてしまっても)「本は読めるし」「自転車にも乗れるし」と「ぼく」がいうとき、この状態は、微妙に日常にたちかえった状態として描かれている。いってみれば、心の位置がずらされている。作品はそんな日常の状態にあっても、わかれの手紙に対しての返事だけはかきあぐねている、というふうに終わっているのだが。

 この流れを全体としてみると、「ぼく」は、最初に、いつもより電車が小さくみえる、という自分の心の状態に気付く。その非現実感は、「あたまからはじまって/しっぽであわる」という「この世の単純なしくみ」を「うっかり」忘れてしまいそうになるようなものとして説明されている。しかし、この「うっかり」という言い方にはたぶん無意識の作為(作者にとっては意識的な)がある。なぜわすれてしまいそうになるのか、といえば、それは、ものごとには終わりがある(彼女とのつきあいが終わった)ということを、思い出したくないからで、ここには「忘れるべくして忘れる」という機制がはたらいているというべきかもしれない。けれど「ぼく」の意識は、それを世のしくみのことなんて忘れていても日常生活に支障はない、と、自分でことあげした問題をうちけしている。この打ち消しは、(別の)女性とベッドを共にすることさえできるのだ(むつかしくない)、という虚勢のような打ち消しとして語られることで、「ぼく」の無意識がなにを否定して心の平静をとりもどしたがっているのかが読者にはわかるように描かれている。この一言も「返事」の内容にふれていない作品で、「ぼく」の心の無意識の揺動というものが伝えられて、もしかすると「青空のへり」に届くかもしれないような「返事」として、読者に伝わってくる。


おとむらい


なまずの赤子のため息のように
たましいの肌もやわらかいほうがいいね
ながあめのあとのあぜみちを
おのれのねやへと帰ってゆくきこりのはなしが
網戸のむこうから聴こえてくる
お棺からはみだした 妹のどろだらけのひざを
せびろにからだをかためた見知らぬおとこが
ぬれぞうきんで拭いている
裏庭の木戸がときおり ぎいと音をたてるが
だれがはいってきたのかはわからない



通夜があけた朝は
ひまわりの林にみんなで集まって
時間をかけて歯をみがいた
みがき粉の泡であふれかえりそうな口をあけけたまま
わたしはおびえた
ひまわりの種のかたまりの上で
みごもったやもりが後足をあげるけはいに


 この作品は、最初の書き出しから特異な喩えに目をひきつけられる。「なまずの赤子のため息」のように柔らかいほうがいい、といわれるのは、「たましいの肌」のことだという。これはどちらもかなり特異なイメージだ。それでもこういう言い方があまり奇異に感じられないのは、心、というものを、形のあるもの(手触りが確かめられるもの)にたとえて、人の心に触れる、というような言い方があるからだろう。詩の後段には、この謎めいた言葉についての解説はない。通夜の夜に、死んだ妹のひざを雑巾で拭いている男のことや、翌朝ひまわり林でみんなで歯をみがいた、といったことが書かれているだけだ。作品では、なにが語られているのだろう。

 ここでこの作品をひとつの仮構された心象のドラマとして読んでみる。そうすると、「おとむらい」とは、ある断念(喪失)の体験を意味することなる。おのれのねやに帰っていく木こりとは、仮構された「私」であり、関連づけるとすれば、この「私」は、裏庭の木戸をあけて部屋に入り、みしらぬ男が死んだ妹(私の恋人)のどろだらけの膝を拭いている(性的な行為の暗示)のを目撃する。通夜があけた翌朝歯をみがいている、というのは、日常にたちかえった今の「私」であり、「みごもったやもりが後足をあげるけはい」に「おびえる」のは、昨夜の光景の再現(フラッシュバック)におびえている、ということになる。こんなふうにきわどく踏み込んで読まなくても、妹の死と葬儀という仮構の物語に、恋人の喪失という体験を重ねて書かれているとはいえそうな気がする。作品にあらわれる暗いイメージは、そのデスペラートな喪失感の表出のように思える。

「なまずの赤子のためいき」というのは、こういう読み方をすると、その喪失感の表出そのものを自己対象化したイメージにように読めるところがある。「たましいの肌もやわらかいほうがいいね」というのは、追憶のいたみを直接的に表現するのでなく、このようなミステリアスな仮構の物語として書きしるすことで、あるいみ浄化し対象化してしまいたい、という希求をあらわしている、というように。
作品をくりかえして読むと、この作品には様々な魅力的な音の連鎖がしくまれていることがわかる。


なまず、ながあめ、ねや。ぬれぞうきん(N音)、
ためいき、たましい(TA音)
あめの、あとの、あぜみち(A音)、
帰ってゆく、きこり、きこえてきる(K音)
からだを、かためた
木戸がときおり、ぎいと、きたのかわからない

ひまわり、はやし、歯を(H音)
みがいた、みがき粉、みごもった(M音)


 これらは継続的な連鎖をつくっていることもあれば、ある距離をもって再起してくる音の印象として届いてくるところもある。「せびろにからだをかためた」というようないいかたは、普通そういう言い方をするなら「せびろにみをかためた」となるはずで、こういう音の連鎖の効果が意識的に使われているところだと思うが、半ばははたぶん書いているうちに言葉のほうからやってきた、というような、作者の資質のなせるわざなのだと思う。本当のところは、なぜ「なまず」なのか、「ひまわりの林」なのかはわからない。「なまず」(という自己像)には性や胎児を暗示するところや、「やもり」(恋人像)と対になっているところがあるが、幼少年期の記憶からよびだされたものか、「あとがき」にあるように、「ともだち」から聞いた話に由来をもつものかもしれない。それは死んだ妹のどろだらけの膝を雑巾で拭いているという情景にもいえることで、作者は「ともだち」から聞いたある「おとむらい」の話を追憶とからめて再構成しているのかもしれず、印象にのこった夢の情景から作品をつくりあげているのかもしれないのだが、そうした空想に根拠が示せるわけではないので、それとは別のことをかいてみた。


あろえの花


ひいらぎのおいのりが
まいにち きこえないでくださいね
おかあさんの棚ももう
草だらけの冥土を おぼれているから
ひとはり ひとはりの
つつがないうったえのむこうには
ひの色をした線路が
わらっているばかりなんです
まだらの鱒とまぐわうのも
まちどおしいものでした
いなほのゆれるおくゆきを
つめたい食器にのって 口のない手紙は
とんできます
けばだつちぶさにかみついたまま
かいばおけからたれてくる
あろえの花ども

鬼でもへびでもあいしています
ろしあの西陽はいかがでしょうね
びしょびしょになった材木屋さんで
むらさきのまま ぜんめつして
えりかもゆかりも みんなのこらず
あしからうまれてきたんです

あしからうまれてきたんですよ


 この作品は、全体としての意味をとろうとしてもわからない。異なるさまざまな話の断片がくみあわされているように思えるが、一種の語りの情緒のようなもの(女性が肉親の思い出や子供時代の印象に残った出来事を語っているといような)が共通しているようにみえるのは、ですます調で書かれているということがあるのかもしれない。また「まだらの鱒とまぐわうのも/まちどおしいものでした」といった意識的な言葉のつかいかたが(技巧としての創作部分として)一個所めだったかんじがするが、全体としては、由来の異なる言葉のフレーズをくみあわせて、むしろ意図しなくてもむこうからやってくる記憶の言葉の断片に苦しめられる状態のような、ある種不分明な意識の様相を、つきはなして作品化したような感じをうける。たぶん背景にあった文脈のなかでは、了解できるのかもしれない言葉が、断片化されて意味を剥奪され無意味さのなかから別の意味をよびこもうとする、読む側からすると、そこに意味の回路を見いだそうとする抵抗がおきて、その圧力のようなものが作品としての緊迫感をうみだしている、というようなことだろうか。「えりかもゆかりも みんなのこらず/あしからうまれてきたんです」というのは、もし「わたしたち姉妹はみんな逆子として生まれたのです」といううちあけ話の文脈で語られたら、奇異な感じはうけないが、作品の末尾でこんなふうにたたみかけて語られると、意味のわからないことを執拗に誰かに言い寄られているような状況におかれている感じがして、異様な効果をあげているといえそうだ。


ちいさなことば


コーヒー豆を挽く手を
九月の風のふくらみに休めて
きみがいつものように
おもいだすのは

むらまつりのあさに
金紙や銀紙でかざられた
ぼろぼろのおるがんのむこうで
こっそり草をくわえている
ろばのなだらかな背中なんだ

西日をあびてふかくなってゆく
きみのてのひらを走るみぞを
ゆびさきや 鼻のあたまでたしかめながら
ぼくはろばにささやきかける

ろばのうしろにあつまってくる
子どもや 蚊や
株式や
万有引力などには
とどくことのないよう

ちいさなことばをぼくはささやく
きみのししむらにさえ
とどまることはないまま
ろばのおなかにしまわれてしまう
世界でいちばんちいさなことばをね


 この詩は甘いラブソングのように読んでも十分に味わいのある作品のように思う。たた注意してみるといくつか興味ふかいところがある。ひとつは、ぼくの言葉が直接きみにむけられるのでなく、きみの思い出のなかに登場するというろばにむけられている、ということ。ぼくはきみの手のひらに走るみぞを直接ゆびさきや鼻のあたまでなぞっている(なぞりながら)、というのだから、ぼくと君はまじかにむきあっているはずだ。けれどぼくがささやきかけるのは「ろば」なのだ。なぜきみではないのだろうか。ひとついえそうなのは、そのことばが、子供や、蚊や、株式や、万有引力、つまりはこの世界の現実をあらわすものに、とどいてはならない、という「ぼく」のルールがあるからだ。世界でいちばんちいさなことば、というのは、この世界にかよいあう肉体をもたない言葉、かすかにしかし確かに思いのなかだけで存在しているようなことばということで、「なまずの赤子のためいき」のような言葉だといっていいのかもしれない。ことばが、きみのししむらにとどまること、そのことは、逆に言葉にこめたい固有性のようなものを、相対化してしまう。また「ぼくの言葉」として肉体をもってしまう。このことは、「この風がやんだら」という作品のなかでこんなふうに語られていることを連想させる。


男はきみのために
百円均一のおにぎりや
警官の帽子を盗んでくることはあっても
決して言葉をささげはしない
君のふたつの腕は
男の頭ではなく言葉のねじれへ
さしのべられてしまうだろうから
男の強い筆圧を
男の骨のぬくもりと
まちがえてしまうだろうから


 もうすこしいってみると、これは作者が「詩のことば」というものにあたえたがっている理想的な定義のようなものかもしれないと思える。ろばは、きみの記憶のなかにだけ住んでいる。ぼくのことばは、そのろばのおなかのなかにしまいこまれて、きみの記憶とともに(ときにはきみにさえ思いだされることなく)生きるだろう。これは通念的に詩について思われていることとは微妙にことなっている。
 詩集表紙のおりかえしには、「ぼくの記憶を奏でる笛ではなく、読む人の記憶を映す鏡をつくる仕事に徹すること。ぼくはそんなふうに生きてゆきたいと思います。そしてまた、そんな風に生きてゆける勇気と腕がほしいと思います。」という著者の言葉が記されているのだった。




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久谷雉『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』(2007年10月25日発行・思潮社)






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