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小川三郎詩集『流砂による終身刑』ノート



           「机に置いていた
            桃が
            ちょっと目を離した隙に
            壁に溶けてしまった。
            あんなにいい匂いをさせていた。
            壁の模様になってしまった。」
             (「壁」より)



 この詩集には、22編の作品が収録されている。小川さんの詩の魅力的な特徴のひとつは断言の強さのようなものにあるように思う。ある世界のみえかた、世界と自分との関係を、はっきりと言い切ること。これは逆に自分の現在のありかたをしばることになるから、ある種の自由さや、恣意的なふるまいを生き方として拒絶したり否定することを意味している。この否定されるべきことのなかには、過去の自己像もとかしこまれていて、この自己否定のつよい感情の由来が、大きな謎のように作品の背後にかくされている、という感じがする。。

 別のいいかたをしてみよう。意識が日常の出来事を想起して何かを語りはじめるとき、その書かれた言葉が、別の言葉を磁鉄のようにひきよせる。この別の言葉を選択するときに働いているコードのようなものがいつも独特の強い倫理的な批評性をまとっていて、その批評意識の層を濾過した言葉だけが表現のおもてにうかびあがってくるために、言葉は日常の言葉としてはあるゆがみや変形をこうむってしまうようにみえる。それにしてもこの批評意識はどこからやってくるのだろうか。それはある時代の必然のようにやってくるようにみえるところで、とてもなじみ深いものだといっていいが、そういう共感さえ否定して屹立するようにみえるところで、やはりとけない謎のような魅力をたたえるものになっている感じがする。。


松葉杖


首より下は
雲に埋まって
胸より下は
コールタールが渦を巻き

平和な晴れのち曇りの日
逃げ込んだ場所はとても広くて
貼り紙なんか何処にもなくて
白日夢とすら
はぐれてしまって

昔と今の鬼畜な行為に
追い立てられて、逃げ出したのだ。
逃げ込む場所がほしいのじゃない
ただただ逃げる
行為が欲しい。

真鶴駅がはぐれている。
ぐらぐらゆれて
もうじき海に
落ちてしまう。
不安だ。
窓から伸びた大きな手が
いまにも首を掴みそうだ。

否、掴まれないのが
よっぽど怖い。
音を拒絶し、視界を拒絶し
手前の表裏をひっくり返して
他人のノートに書き付けた
尽きることのない
美辞麗句。

透明なゴミ袋も
湿気ったマッチも
言葉も体も腐臭を放つが
コールタールでは埋められない。
誰もが匂いを知っているし
製造過程に私もいた。

カーテンの脇からこぼれた影絵が
私の初めて覚えた形
結局ずっと
その形。
ちょっとのことで揺れ動いて
松葉杖に酷似している。
追憶がまた黒ずんでいる。

助かりたくない
そこにいるのか
体はそのまま
内が縮んで
胸の下へと
縮んで
不安だ。


 詩集冒頭におかれたこの作品では、ひとつの湿地帯のような場所が舞台になっている。自分のいる場所。それは、自分の胸より下がコールタールで埋まっていて、周辺にはゴミ袋や湿気ったマッチが浮いて臭気を放っているという、また真鶴駅が遠望されるというから、どこか沖合の廃棄物の埋め立て地を思わせるような、身動きできない場所なのだが、ともかく、そこは「昔と今の鬼畜な行為に」追い立てられて、自分が逃げ込んできた場所なのだ、という。この幻想的な場所には、作者にとっての自意識自体の定常的な「時間・場所」といったイメージが重ねられている、という読み方ができるところがある。そうすると、この作品でいろいろな形で、この場所について言及されているところは、作者が自意識に与えたがっている現実性の輪郭をなぞっているようにも読めてくる。5連目で美辞麗句を書いた場所との対比で語られているところは、たぶん「詩を書く場所」ということでいえば、作者の独特の倫理観をあらわしている。そこでは、「音を拒絶し、/視界を拒絶し/手前の表裏をひっくり返し」たような場所で書かれる「美辞麗句」(のような詩、そのような詩を書いた自己)が異質の場所として否定されているからだ。七連目の追憶は、この自意識の由来を宿命のように語っているところで、美しい像をむすんでいるが、この連があることで、この自意識の劇が、謎めいた重層性を帯びているのに気付かされる。つまり、この場所は、ある自己の資質が運命的に自分にもたらしたという線と、自分の過去の行為(「昔と今の鬼畜な行為」、「(腐臭の)製造過程に私もいた」)がもたらしたという社会倫理的な意識の線が、とけがたく結びついていて、「(大きな手に、首を)掴まれないのが/よっぽど怖い」、「助かりたくない」といった、逆説めいてもきこえる自罰的なことばに、不思議な説得力を与えているのだ。
 詩集には、「山椒魚」と題された作品がある。


山椒魚


鉄には多分
たんぽぽが見えている
たんぽぽには多分
それがなんだかわかっている
だからそれなり
共存し
眩暈を誘うコントラスト
共に雨を待っている。

私たちはじっとして
しかし雨は降らなくて
夏の匂いに届かなかった。
なにが在って
なにが枯れて腐ったのか
朦朧とした意識の末に
思い起こした初夏の空き地に
死んだ人はいませんでしたと
終えてしまうのはやさしいことだ。
たんぽぽは黄色に徹した。
鉄はこんなに甘い芯だ。
それはそれでいいじゃないかと
済ませられない私であって
湿気た太陽が頭上にまだ居る。

初夏は苦しいばかりの季節
水を求めて地下に潜れば
嫌な話を耳にするし
私の気持ちも潰えてしまう。
鉄とたんぽぽでいいと思うが
初夏は総じて生き過ぎる。
戸惑うことも多い。


 この作品はちょっと不思議な詩だ。作者は最初に、空き地に咲くタンポポの傍らに古い廃材の鉄骨かなにかが置かれた風景をみて、その異質なものの形態や色彩の対比のなかに、モダニズム絵画のような構図としての面白みや調和を感じているように思える。たんぽぽも鉄も、共に雨をまっている。ようにみえるのは、何よりも「私」自身が渇きをおぼえているからだ、とはいえそうだ。というより、私自身が、たんぽぽや鉄を擬人化する程度に風景(かれらの渇き)と一体化している。しかし「しかし雨は降らなくて/夏の匂いに届かなかった。」というとき、この目の前にあった静止画のような風景は顛末をもった物語として時間の中に運び込まれている。雨はふらず、鉄はそれでも残り、タンポポは枯れてしまった。と書かれているが、これはもし雨が降らなければやがてはそうなるであろう、という現前の風景を想像でいいかえたようなところがある。ついで「朦朧とした意識の末に/思い起こした初夏の空き地に/死んだ人はいませんでしたと/終えてしまうのはやさしいことだ。」と場面のおおきな屈折をしめす言葉がくる。ここは難しいところだが、この眼前の風景からよみとられたイメージ(雨はふらなければ、花は枯れ、鉄がのこる)から連想された、ある過去の出来事(雨が降らず枯れた花に関わるような)へのわだかまりが表現されているのようにも読める。そうすると、その出来事によって死んだひとがいたわけじゃないし、そのときはそれなりに思いに徹して生きてしたことなのだから、もうすぎたことはいいじゃないか、と思い切れない。と告白されていることになる。たんぽぽを女性、鉄を男性のようにとらえれば恋愛のようなことが想像できないこともないし、たんぽぽを推移する時間、鉄を変わらない自意識のような観念ととらえれば、夏がくるまえに終わってしまったような短い青春の追想をさしているようにも思える。最終連はその出来事にかかわった知友の現在を噂でしったときの幻滅感がそのまま表明されているように読みとれるところがある。

 ところで、この作品の舞台は、たんぽぽと鉄のある空き地だが、そこにいる「私」もふくめて、前述した「松葉杖」の中の風景に似ているところがある。もちろん湿地帯と雨をまっているような空き地という違いはあるが、この幻想の中に構成された空間の倫理的な意味づけと、過去のイメージに重ねられて語られたりする「私」との距離感がよく似ていて、この空き地に、「透明なゴミ袋」や「湿気ったマッチ」が落ちていてもおかしくないように思える。そこはありふれた場所のようでありながら、ある「自覚」が、そこにある事物に象徴的な性格をあたえてうみだしたような、たぶん定常的な自意識の場所なのだ。そのことで書いてみたいのは、この詩の「山椒魚」というタイトルのことだ。

 詩の内容からいえば、この「山椒魚」というタイトルは、ちょっと不自然な感じがする。雨をまつ空き地にいる「私」の思いを綴った作品の中で、作者はこの「私」を「山椒魚」とみなしていることになりそうだが、作品を読む限り、その必然性は感じられない。ただ「水を求めて地下に潜れば」というフレーズが、両生類としてのサンショウウオの性質を連想させるところがあって、地上と地下(過去と現在)を自在にいききするような詩の意識の象徴として選ばれたのかと思えるばかりだ。しかし、言葉としての『山椒魚』から、井伏鱒二の小説『山椒魚』を連想すると、記憶のいい読者なら、もうすこし別のことがおもいあたるかもしれない。

 短編小説『山椒魚』の主人公は、一匹の山椒魚であり、彼は自分の体が大きくなりすぎたために、住処である岩屋のなかからでられなくなってしまい、「何たる失策であることか!」と嘆く、といった有名な場面から作品ははじまる。この山椒魚は、すぐわきの谷川を泳ぐ目高たちの集団行動をみて「なんという不自由千万な奴等であろう!」と嘲笑したり、彼の横腹にすがりついてじっとしている小蝦をみて、「くったくしたり物思いに耽ったりするやつは、莫迦だあよ」と得意げにいったり、「ああ、神様、どうして私だけがこんなにやくざな身の上でなければならないのです?」と涙ながらに神にうったえたりと、作品では、この岩屋に閉じ込めらた主人公の様々な心の起伏が語られる。そのなかに、主人公が、自分の不幸をなげくあまり、自分を感動させるものから、むしろ目をそむけたほうがいいと気が付き、目をとじて、自分のことを「ブリキの切り屑」であると思いこもうとする個所がある。


 誰しも自分自身をあまり愚かな言葉で譬えてみるこ
とは好まないであろう。ただ不幸にその心をかきむし
られる者のみが、自分自身はブリキの切屑だなどと考
えてみる。たしかに彼らは深くふところ手をして物思
いに耽ったり、手ににじんだ汗をチョッキの胴で拭っ
たりして、彼等ほど各々好みのままの恰好をしがちな
ものはないのである。

  (井伏鱒二『山椒魚』(『日本文学全集32 井伏鱒二集』(新潮社))より)


 小説の山椒魚は、やがて偶然岩屋の中にやってきた一匹の蛙を自分と同じ境遇においやることを思いついて実行し「一生涯ここに閉じ込めてやる!」と叫ぶが、蛙もまけずに「俺は平気!」といいかえす。かくて二匹は意地の張り合いを続けて二年がたち、空腹で死にかけた蛙はとうとう深い溜息をもらす(「しきりに杉苔の花粉の散る光景が彼の嘆息を唆したのである。」とある)。山椒魚が蛙になにを考えているのかときくと、蛙は「今でもべつにおまえのことをおこってはいないんだ」というところで、この味わい深い作品は終わっている。

 この作品を思い出して(私の場合は内容をほとんど忘れていたので読み直したわけだが)、詩「山椒魚」を改めて読むと、たんぽぽと鉄、という不思議な言葉のとりあわせが、「杉苔」と「ブリキの切屑」(自分をそう思いこんでみている山椒魚)のいいかえのように思えてくる。詩「山椒魚」の、自分が「鉄」であり、人としての語り手(タイトルからいえば「山椒魚」になるが)ででもあるような不思議な二重性は、小説『山椒魚』の主人公が想像する「ブリキの切屑」としての自己イメージと、現実の山椒魚としての自意識によくにているし、詩で「なにが枯れて腐ったのか」と書かれている「たんぽぽ」は、小説では、やはり花粉を散らせて(時の推移をしらしめて)蛙に最後の深い溜息をうながす「杉苔」の意味合いによくにているのだ。もちろんこういう想像は、深読みにすぎるのだと思うが、そういう類似性がみてとれるほど、作品のもつ雰囲気が似ていることには比較して気が付かされる。小説『山椒魚』は、自分が成長して肥ってしまったせいで、岩屋から抜け出せないという不本意な状況におかれていることに気が付いた山椒魚の物語であり、それが「不幸にその心をかきむしられる者」としての人間の自意識の劇であるかのように書かれている。彼は「何たる失策であることか!」自嘲したり、仲間の顔色をうかがって群れて生きている目高たちを不自由な奴等だと嘲笑したり、逆に従順に黙して隠者のように生きている小海老を「くったくしたり物思いに耽ったりするやつ」といって莫迦にしたり、神にむかって我が身の不幸を嘆いたりと、さまざまな感慨をもらすが、この多声的な内面の声の表白を、彩り豊かに、またユーモラスに描きわけている。そういう自意識の直接的な表白自体には、実のところさしたる意味をあたえようがなくても、その語り口の自己批評をおりこんだヒューマンなつやのようなところの味わいに独特なものがある。そしてたぶんこの小川さんの詩世界との比較において気付くのはそうした作者の資質のもつ類似性ということではないだろうか。

 幽閉された「山椒魚」の自意識が豊かなのは、むしろその想世界の豊かさにおいてである。これはたぶん逆説ではない。小説『山椒魚』の作者が書くように、「誰しも自分自身をあまり愚かな言葉で譬えてみることは好まないであろう。ただ不幸にその心をかきむしられる者のみが、自分自身はブリキの切屑だなどと考えてみる。」のだし、「彼等ほど各々好みのままの恰好をしがちなものはないのである。」小川さんの詩世界でも、作品の「場所」は自在に変貌するが、その外皮をとりさってみれば、そこが自意識の「岩屋」であるという認識があり、その認識をてばなさないかぎりでの、精神の自由がめざされている、といえばよいか。


 小説『山椒魚』のラストは、「今でもべつにおまえのことをおこってはいないんだ」という蛙の言葉で終わっている。この言葉は蛙から自分を閉じ込めた山椒魚にむけられている。そう読むと合理主義からすれば不自然なことに思われるが、死を自覚したまぎわで、むしろ共苦を受け入れる感情から山椒魚にむけられ、造物主にむけられた運命愛的な言葉だとうけとれば、ありうる境地のように思える。ただこうした言葉は仮構の死の物語だけのなかで可能なのかもしれない。小川さんの詩は、この蛙の赦しの声のきこえない切迫した山椒魚のつぶやき、「逃げ込む場所が欲しいのじゃない/ただただ逃げる/行為が欲しい。」(「松葉杖」)という呟きに似ていて、その独特の喪失感からやってくるように思える抒情性や、そのことが、新たな逃げ込む場所の創出でありながら、逃げる行為そのものでありえるような、多声的な言葉の彩なす舞台の創出で現代の生のただなかにある、という感じがする。

**


小鳥


死人の
気分になったので
死人の振りをしてがっくり項垂れ
動かずにいると
足元に小鳥が降り立ち
小さな顔で
私の目玉を見上げている。

小鳥にかまわれるなど
まったく嬉しい限りだが
私は死人の振りだから動かず
小鳥は生きているから
むずむずしながら見上げている。

小鳥が
死人を見上げる筈がないのである。
ならば何かが小鳥に乗り移って
私を見上げているのである。
しかしいったい
なにがいまさら。

花びらがひとひらふたひら
舞っている所などを見ると
それは季節のようでもあるし
忘れていた誰かのようでもある。
まあ、なんにしろ
過ぎ去るもののどれからしい。

すっと鼻から息を吸うと
小鳥は飛び立った。
なるほど。
では。
日が暮れるにはまだ時間がある。
ならばあと
二つぐらいは見れるだろう。


 この小品は、わかりやすいようで、複雑な味わいがある。書かれていることは、じっと身動きせずにると、近くに小鳥がよってきたのをみかけて、その挙動から、過去のだれかかなにか、といった記憶の情景を思い出しそうになった。しかし、そんなふうな感覚をおぼえていたとたん、鳥は記憶そのもののように飛び立っていってしまった。というようなことだろうか。複雑な味わいは、この記憶、ということに「私」があたえている、一見とらえどころのなさそうな意味あいからやってくるように思える。「私」は、「死人の気分になった」ので、「死人の振り」をしている。こういう伏線がはじめに張られているので、後段の「小鳥」や「季節」(感)の象徴する過去の記憶に対しての「私」のちょっと超然としたような関心のありかたは、一見空想としては、ありそうな説得力をもっている、とはいえるかもしれない。しかし、そもそもこれは自作自演の自己劇、といっていいのではないだろうか。死人というのは、死んだ者であるかぎり、「気分」というものをもたない。「死人の気分になった」というのは、あくまでも生者の側の気分を「死人になったような気分」と喩えていっているわけで、だからこそ死人の「振り」ができるだけだ。そこにやってきて見上げる小鳥についても、おもしろい劇化がされている。小鳥は「小鳥が/死人を見上げる筈がないのである。/ならば何かが小鳥に乗り移って/私を見上げているのである。」というふうに説明されているのだが、事は単純で、小鳥は死人を見上げる筈がない。生きていて「死人の振り」をしている者だからこそ、その「がっくり項垂れ/動かず」にいる状態を不審に感じて、近づいて見上げたということではないのだろうか。だから起きていることは、そういう事実があったとすれば、なにかの事情で、「私」が鬱屈しているときに、偶然「私」が動かずにじっとしていたので小鳥がよってきて飛び去っていったということだけで、たぶんその小鳥の印象に、慰められたというような体験が、作品のさわりになっているのだと思う。

 この慰められた、という気分は、「小鳥にかまわれるなど/まったく嬉しい限りだが」といった自嘲とユーモアともとれるような屈折した言い方で語られているのと、「しかしいったい/なにがいまさら」という、この自己劇を踏み破るような肉声ににた言葉で語られているところが、とても目をひくところだ。この後者の言葉は、そのまえの、「何かが小鳥に乗り移って/私を見上げているのである。」を受けている。つまりこの小鳥には、過去の(だれか・なにかの)象徴としての小鳥、としての想像的な意味をあたえられているから、この自己劇のなかでは、死者のいいぶんとして一見滑稽さをふくんで、すんなりくるように書かれている。しかし、ちょっと考えてみると、「なにをいまさら」というのは、むしろ過去への執着のからんだとても強い言葉(深い嘆きの言葉)のように思える。とても小鳥に見上げられたくらいで、でてくる言葉ではないような気がするのだ。とするとこの言葉は、「何かが小鳥に乗り移って/私を見上げているのである。」と書いた(劇化した)自分自身の心の動きそのものに向けて書かれているのではないか、という解釈が成り立ちそうに思える。このように否定的に動く心の倫理的な意味はあかされていない。けれどそんなふうによむと、後段の過去を過ぎ去る風景のようにみなしたい、あるいは、現在もまた風景のように過ぎていくばかりという、「死者」のような超然さを装った言葉の独特の含みが、ある種のつやを帯びて伝わってくる。最終連で、「私」は現実にたちかえっている。つまり死者にはあるまじく「日が暮れる」のを気にしている。この部分は小鳥が去っていたことを悔やむわけではなく、案の定風景のように去っていったではないか(「なるほど」)と納得してうけとめながら、また「死人の振り」をしているとやってくるかもしれない、という期待をとかしこむことで、ちょっとほっとするような現実感覚のなかに作品をたちもどらせて終わっている。「死人の気分になった」とは、「死にたい気分になった」ことの、密かないいかえなのかもしれないのだ。





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小川三郎『流砂による終身刑』(2008年7月5日発行・思潮社)






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