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幻の情景、記憶の情景



1.


聖地


N町のブナの自生地をたずねたことがある
町役場の青年に案内され きつい勾配の葛折の山道を
あえぎあえぎ車でのぼっていくと道のとだえたところに
ブナ林にかこまれた不思議な地があった
ところどころ芒の群生する草地があり
その草地をかこむように木が植わり
草地と草地は小道らしきものでつながっている
あれは人の住んでいた跡地
七世帯あったと青年はいうのである

ここから一番近い下の村まで徒歩で三時間
冬は雪深く 若者の去った村に老いた人だけがのこっていたが
厳しい環境にたえきれず 一世帯減り二世帯減りして
二十年前最後までのこっていた独り暮らしの老人が山をおりたあと
村人たちはそれぞれの家を壊し
屋敷跡には芒を 敷地のまわりには木を植え
そこに人の暮らしがあったことの証にしたのだという

空が青い
空気を吸うと肺のすみずみまで澄んだ酸素が
ゆきわたっていきそうな
山のなかである
熊も猿もでるという山の
家の敷地跡に群生する芒のみどり
人たちが笑い
夕餉の膳につき囲炉裏を囲んだ
そんな家があったことも

みあげると空を遮るように陽のひかりを浴びたブナの木が
枝をのばし 葉をのばし 天にむかっている
鶯のよびあう声が遠くに聞こえていたかとおもうとそれも途絶え
静寂(しじま)がわたしをつつむ
わたしは森になる
草になり
木になり
風になり
自然の一部になってほどけてゆく

かぎりなく彼(か)の地にちかいところがあるとすればそれはここなのかもしれない
深い森の奥でつつましやかに暮らしていた老いたひとたちの至福の時間が
ブナの葉陰に ただよい さんざめきあっている


 この詩は山口賀代子詩集『海市』(砂子屋書房)より転載させていただいた。
 いちどよむと豊かなイメージが湧いてきて余韻が後をひくような作品だと思う。私ははじめてしったが、廃村となった山深いちいさな村落の跡地をこんなふうに保存するのはよくあることなのだろうか。村で暮らしていた人たちの先祖が、いつか山林を開墾してすみついたのであろうその土地を立ち去ったとき、そこにすこしだけ人の住んだ痕跡をのこして自然にかえすというそのやりかたが、ちょうど人と自然のつきあいかたの微妙なおとしどころのような、みごとな采配というような感じをうける。この采配にはもちろん人間の側の意図が働いているが、二十年という歳月をへて現出したこの光景は、生長したブナの樹木や土地にしっかり根付いて群生した芒といった植物の側の生命力が、その意図にこたえる復元への意志のように実現させたものだ。

 ブナの林のなかに小道が続きいくつもの芒の群生する草地に続いている。この不思議な光景は、青年の説明によってその由来があかされるが、林に囲まれたそれぞれの芒の群生する草地という光景は、そこにかって家屋があったこと(そこに人の暮らしがあったことの証)だけを示しているわけではない。というより、そこに人の暮らしがあったことの証となるようにと残された風景は、歳月の力によってなにか別のものに変貌しているのだ。たとえば、かって家屋のあったところは空にひらけた芒の草地になり、家屋の周囲の庭や整地されていたであろう生活空間の部分は逆にブナの林に覆われている。有形の建造物のあった空間が空無と化し、空無であった空間に有形の樹木が林立している。この人工と自然の反転が、この不思議な風景の意味の奥行きをつくっている。もしこんなふうに人が手をかけなければ、この村落の跡地はぽっかりと開けた空き地としてのこり、雑草が生い茂り、周囲の山林から風や野鳥や獣によって運ばれた木の実が発芽してやがて長い年月をかけて少しずつ原生林が復元していくのかもしれない。そういういみでいうとこのブナの林の風景は植林によってつくられた人工的なものなのだ。けれどだからこそ、まるで緑に覆われた林のなかにひっそりとそれぞれの家屋があって、林のなかの細い道を伝って人々が行き来していたかのような、あるいみ人と自然が融和した仙境をみるような幻視にさそわれるところがあるのだと思われる。

 建物の跡地だという芒の群生に、かって囲炉裏を囲んで団欒していたであろう幻の家族の営みを思い浮かべる作者は、そんな光景と人の営みを同質のもののように隔てなくみている「自然」の側にいつか身をおいている。森になり、木になり、風になり、自然の一部となってほどけていく自分。そこではもう、風にゆれる芒であることも、人の姿をして生活を営んでいることにも、さだかな区別はない。こういう想像力、あるいみ人と植物との親和性にひかれる想像力というものは、人間中心主義がたてまえになっている現在でも人の無意識のなかで大きな普遍性をそなえているように思える。作者は、村人たちが「そこに人の暮らしがあったことの証に」するために残したという「ブナ林にかこまれた不思議な地」を訪れた印象から、豊かな想像力で「深い森の奥でつつましやかに暮らしていた老いたひとたちの至福の時間」のさざめく、天上的な「聖地」のイメージを汲み上げられている。「不思議な」と感じたところから、この想像力の劇は、跡地の痕跡を残した村人たちの意図をこえてすでにはじまっているが、この伸びやかな想念の劇を実感させる力を作品の言葉はそなえていて、私たちの無意識にしっくりと届いてくるように思われるのだった。


2.


時間の自由


由緒のありそうな旅館の一室 複雑な寄せ木細工のような空間の構成
狭い庭を重なり合う屋根が区切る その改装は和洋折衷
畳の間と段差のある板の間 細い廊下 灯りは直接間接照明のコンビネーション
隅々まで計算されつくした時間の流れ 美味な酒と料理 木の風呂 和布団

細い路地は 明治の風を吹き寄せ 文明開化の活気と戸惑いを暗示する
ここで人力車から降りようとする異人が躓いたか 悪漢に切りつけられたか
公の歴史書には 詳しいことはなにひとつ記録されていない
むしろ ここでは一切の事実が記録されないことが 暗黙の了解だったのだろう

番頭は 常に往来に目を配り 来客に気を配り 従業員を使いこなした
濡れ場や 怪しげなふるまいには さぐりをいれながらも 決してでしゃばりはしない
流血は拭い去り 泥の汚れは洗い去り 金のもつれは知らんふり
眠ったようなふりをしながら すべてを飲み込み 的確に差配する役割

ここは特別の物理学が適用される場所 主観的時間はシュールレアリスト
飴のように伸び縮み 過ぎ去ることもなく ただ広がり続ける 重要な事項が
比例的にサイズを決定する そうしてぽっかりと空いた隠れ穴蔵の中は 特別の法律が
適用される場所 殺しちゃいけないが 少々の修羅場や捨て台詞はお咎めがない

あれから何年経ったのか おれの中に生きているあの旅館 覗けば感極まる万華鏡
薄暗い和室で二つの重たそうな影がアクロバット体操に興じている 呻き声か
あるいは叫び声か嗚咽か歓喜か 客観的な時間が秩序正しく並ばせた出来事の連続体
一瞬目をつぶれば それらを滅多矢鱈にかき乱し無秩序に並べ替えてしまう

時間の自由



 この詩は南原充士詩集『花開くGENE』(洪水企画)より転載させていただいた。
 この作品は最初一連の旅館の間取りなどの細部の具体性と、最終連の一行目の実感を吐露したような表白の対照に惹かれるところがあった。そこから、なにか作者がかって訪れたことのある実在する旅館の鮮明な記憶をふりかえった作品のように思えたからだ。そういう読み方からすると、この「隠れ穴蔵」のような旅館の記憶から作者がひきだしているのは、一連の実景描写のような記載もさりながら、むしろその旅館の経営方針のかもしだす特異な雰囲気についての印象のように思える。まったくの空想でいうと、かなり伝統と格式のありそうなこういう治外法権のような旅館は実在していて、政財界の談合や裏取引などに常用されているのかもしれない。客にとってはすべて快適で洗練されているのだが、そこには客のふるまいについての秘密厳守ということが第一に含まれる。口コミでひろがったその長年の信用でひっそりと堅実に商売を続けているような旅館。そういう店をきりまわしている有能な番頭が登場するところなど、いかにもありそうな話で、そういう特殊ともいえる世界をかいまみることができるという意味でも興味をひく作品だが、作品の後半では、この旅館の経営方針のもつ一種の治外法権的な性格が、特権的な「主観的な時間」という概念になぞらえられることで、秩序正しく並んだ出来事の連続体としての「客観的時間」と対比させられている。作品はそのことの善し悪しの判断を下しているのではなく、むしろこの旅館の鮮明な記憶をあしがかりにして、「主観的な時間」の性格をいいあてようとしているように思える。「飴のように伸び縮み 過ぎ去ることもなく ただ広がり続ける 重要な事項が/比例的にサイズを決定する」。ある種の記憶はそのように「私」にあらわれてくるし、その記憶を「客観的な時間」のなかの出来事として、過去の時系列のなかにうめこもうとしても、そもそもそのようなコントロールができない(無意識をかかえた存在としての)わたしの意識がある。何年たっても薄れるということがなく、今ここにあるかのように現前化する(させることのできる)旅館の記憶は、内容的にもそうした「主観的時間」のもつ無秩序な自由さを象徴するのではないだろうか。作者はこの作品の後半で、そんなふうに自問のような問いを(それを問いとしてうけとるなら)なげかけているように思える。

 この後半部の考え方の背後には、時間とはなにか、という哲学的な難問がひかえているようで、ちょっと私の手におえないのだが、この「主観的時間」に与えられている治外法権的な性格、というより、客にとっては快適でサービス満点ながら、ある暗黙のルールをつくってそれを順守し、手際よく客に対応していく旅館の「番頭」という存在に、自由な「主観的時間」をコントロールする理想的な「主体」を作者はどこかで重ねあわせておられるのかもしれない、とは思ったことだった。それはもちろん、詩の作法ということと関連する事柄においてなのだが。


3.


立石


鳥越の丘の墓地から
真っすぐ巨大な花崗岩が見える
海底からどっしり空を支え
倉橋本浦の安全を守る
人々は 海の神々の宿る立石と呼ぶ

夕日に染まる立石の
岩肌の光りが
海の面を赫々と照らし
漁船が帯状のさざ波を伝い戻ってくる

ひとを待つ 夕暮れの墓場
樹の葉が小さく揺れる
グヮーと 鳥が鳴く
がさごそ虫が這い上がる
怖くても 怖くないと 背筋を伸ばす
立石の照り返しの光りの輪をくぐり
わたしの想いの中を
駆けてくる ひとがいる

覚えているだろうか
あの立石は
無心に 無欲に ゆいいつの思いに
沈黙を抱きしめて
倉橋島を出たわたしを

風雨にすすがれ 光る岩肌を
堰き止められない水が流れていく
わたしは 失うものは 何もない


 この詩は桜井さざえ詩集『海の伝説』(土曜美術社出版販売)より転載させていただいた。
 『海の伝説』は桜井さんの第五詩集で、作者の生まれ故郷倉橋島にまつわる思い出や出来事を題材にした作品がまとまった形で収録されているという意味で、第二詩集『倉橋島』を継ぐものになっている。この作品で、最初「立石」と呼ばれている巨大な花崗岩を、鳥越の丘にある墓地から眺めているのは、現在の「わたし」であり、正確にいえば東京に暮らす作者が近年故郷倉橋島に帰郷して当地を訪れた時の出来事だと考えられる。そのときは夕暮れ時で、夕日が「立石」を赤く染め、その照り返しに染まる海面を帰港する漁船がよぎっていくのが見えた。その夕映えの情景は三連目の同じ夕暮れ時の記憶に無理なくつながっていくが、ここからは回想の出来事が描かれている。同じ夕暮れ時、この墓地で若い頃に「わたし」はひと(ここでは恋人と解釈してみる)を待っていたことがあった。木々のざわめきや鳴く鳥の声におびやかされ、こころぼそく感じながら気をひきしめてそのひとを待っていた。そのときも今のように立石の夕日の照り返しがあって、そのまばゆい光につつまれながら、そのひとはやってきたのだった。。。次の連はさらに微妙に転調している。ここではそんなわたしの娘時代の出来事(恋人との墓地での逢瀬)を 見守っていたであろう立石が、島(故郷)を象徴する存在として擬人化され、ある決意をもって島をでていった「わたし」(無欲に、ひたむきに生きていた娘時代のわたし)のことを今でも覚えているだろうか、と問いかけられている。最終連では、一転して雨の情景になる。この変化はたぶんイメージのなかで起きていることで、作者の別の記憶のなかにある風雨にさらされた「立石」をみたときの鮮明な情景が呼び寄せられていると考えることができそうだ。もうすこし踏み込んでみると、この風雨の情景が(無意識から)呼び寄せられているのは、「立石」の岩肌を流れる水が、作者の回想の過去(娘時代)と現在をへだてる時の経過を象徴するものとしてであるようにいえそうだ。「わたし」はここで現在にたちかえって、再会した立石(故郷)にむきあうように、同じように風雨にさらされながらひたむきに生きてきた自らの人生と、そのはてにみいだされた境位を、立石の照り返しのように美しく吐露されているといっていいように思える。


4.


 これは別のところにもかいたことだが、昨年の暮れ、国立市にあった喫茶店「邪宗門」が閉店した、という話をひとづてに聞いた。老齢だったご店主が亡くなられたのがその理由という。十代の若い頃から何度も通い、たぶん私が今まで一番足繁く訪れた喫茶店で、いってみれば脳内の地図にしっかり書き込まれているような場所だったので、思うことは多かった。
 壁が骨董品の類でうめつくされているような店内のインテリアは、私が知ってから四十年ほども変わらなかったので、後年は行くたびに若い頃の記憶が薄暗い店内の空間のそこかしこに潜んでいるという感じだった。実際この外界の時間の経過から超絶したような店内にくつろいでいると、ベルの音をならして店を訪れる客や、せまいテーブル席で身を寄せ合っている客たちの顔がふいに若い頃の知友に変貌してもおかしくないような気にさせられた。そんな奇妙で懐かしいような夢もこの半世紀ちかい時間の流れのなかで何度みたことだろう。店が閉店して、あの空間がもうなくなってしまったのだ、という感覚は、だからかなり複雑なものだとはいえる。もうすでにして夢の一部として、あるいは心のなかに実在しているような店内の情景は、たぶん今までとおなじように、これからもそこなわれることがない。

 そういうことを漠然と考えていて、「あれから何年経ったのか おれの中に生きているあの旅館」という南原さんの詩の一行に反応した、ということはあるのかもしれない。またブナ林に囲まれた芒の群生する草地に「かぎりなく彼(か)の地にちかいところ」を幻視する山口さんの詩や、故郷の倉橋島にある「立石」にまつわる深い思いを綴った桜井さんの詩にも、ある特定の場所の記憶が永遠の相で幻のようにたちあがってくるという意味で通いあうところがあるのだと思う。こうした主観的時間や心に刻まれた記憶というテーマは書いても尽くせぬような奥行きとひろがりをもっているし、たぶん生きてあることの深い意味にも関わることで、私にとってこれからも変わらぬ関心事であり続けるようにおもう。

 白秋の処女詩集『邪宗門』(1909)が刊行されて今年で百年になるという。




ARCH

山口賀代子詩集『海市』(2008年10月25日発行・砂子屋書)

ARCH

南原充士詩集『花開くGENE』(2008年11月1日発行・洪水企画)

ARCH

桜井さざえ詩集『海の伝説』(2008年12月22日発行・土曜美術社出版販売)






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