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人形に関する抜き書き集



 ミニチュアの情景画像に配するためにサイズのあった人形を買い求めたのがきっかけで、わりに意識的に人形全般に関心を持ち始めてからまだ4年ほどだが、以来書物を読んでいて、思いがけないところで人形についての記述に出会うたびに気持ちが動く、というようになった。これは車好きのひとが車の描写に、植物好きの人が植物の描写に注意を促される、というのと同じようなことだろう。そういう時、興がのると該当個所をテキストファイルに書き写す、ということを時々やってきた。習慣にしていたわけではないので、さほど分量があるわけでもないのだが、今回はばらばらだったテキストファイルの整理と備忘をかねてまとめて並記してみた。内容は、あらかじめ書物のタイトルや予備知識から、人形について書かれた書物だとわかっていて読んだ本から転記したものや、小説の主要なストーリーとは無関係に装飾のように人形が話題にでてくるものなど、さまざまで、以下に未整理のまま並べてある。
 ただ並べてみただけでもあれこれ空想できて自分としては満足なのだが、それではあんまりなので、以下にそれぞれの引用文について、とりとめのない註をつけてみた。

※※

「新しい自動人形たちは、ぶざまとしか形容しようがない。すなわち古典的な人形の何よりの特徴である動きの滑らかさの代わりに、そこにあるのは、素人の作ったからくり人形のぎくしゃくとした唐突な動きである。その結果、新しい人形たちは、人間の動きをごく大雑把な形でしか模倣できない。優美さも欠いていて、古典的な自動人形芸術のあらゆるルールから見て不細工かつ醜悪である。彼らはどう見ても人間には見えない。実際、これらの新しい自動人形たちは、何よりもまず自動人形に見える。これこそが、いまや新自動人形と呼ばれるに至ったものの根本的特徴にほかならない。」

「ところが、グラウムの新しい自動人形たちは、苦しみ、あがく。これまでの自動人形に劣らず、魂を持っているように見える。ただし持っているのは人間の魂ではない。ぜんまい仕掛けの生き物、自己意識が芽生えたぜんまい仕掛けの生き物の魂なのだ。古典的な自動人形師は、私たちにミニチュアの人々を与える。ハインリッヒ・グラウムは新しい種族を創造した。彼らは自動人形の種族、カラクリの一族である。創造主グラウムの精神によって宇宙に挿入された新しい存在である。彼らは私たちの生と並行した、だが私たちの生と混同してはならない生を生きている。彼らのあがきはからくりのあがきであり、彼らの苦悩は自動人形の苦悩である。」

   スティーヴン・ミルハウザー「新自動人形劇場」(『ナイフ投げ師』(白水社)所収)より


メモ) ミルハウザーは、この小説のなかで人形(自動人形)の与えてくれる快楽の本質には二種類あるとしている。ひとつは模倣の快楽、類似の快楽である、「完璧に達成された見せかけが与えてくれる快楽」。またこの快楽が依存するもの(あるいは相対立するもの)として、第二の快楽がある、という。「似ていないことの快楽」「ひそかな悦びとともに、私たちは見せかけが物それ自体ではないことただの見せかけでしかないことをさまざまな面から見てとる。見せかけ自体が真に迫れば迫るほど、この快楽も増してくる。」

註)この個所を抜き書きして、メモまで付したのは、人形(自動人形)のもつ魅力について、著者のかなり踏み込んだ見解が披瀝されていることに興味をひかれたからのようだ。ミルハウザーは、小説のなかで、この架空の自動人形たちの世界をあるいみ理想化しているが、その理想とは、自動人形の動きからみいだされる意味が、けして「擬人化」された面白さに尽きるものではない、というところにあるように思う。このことは、たぶん著者の仮構性の高い小説表現についての姿勢に重なっている。




 ロボットは下半身だけの構造の高さ20センチくらいだが、フレームだけで骸骨のような構造 だった。
 祐介が質問した。
「このロボット、何に使うんだ」
「リカちゃんを歩かせる」
 フーテンは、そう言うと、どこから拾ってきたかわからない頭部のないリカちゃん人形を下半 身だけのロボットに差しこんだ。
「ほら、リカちゃんが歩く」
 リカちゃんは、散歩ロボットの動きに合わせて歩き、重心を狂わせてすぐに転がった。
「失敗だ」

   梶尾真治『悲しき人形つかい』(光文社)より


註)リカちゃん人形をロボットの骨組みにのせて歩かせてみる。人形やロボット玩具の好きな若い人が考えそうなことだが、この自動人形、「首のない」ところが不気味でもある。首のないリカちゃん人形は、リカちゃん人形と呼べるのだろうか。首をつけさえすればそれはリカちゃんであることは間違いないが、たとえば、くまの首をつければ、くまの人形だと主張することもできる。この首のないロボットが「リカちゃん」とあたりまえのように呼ばれているところに、自分がそう呼ぶからそうなのだ、という、人形に対する微妙な心理があるようにも思える。




「新崎さん、球体関節人形とか好きですか? 一緒に仕事を始めたばかりの頃、笑わないで微笑まないでと執拗に指示を出す新崎さんに、軽い嫌味のつもりで聞いた。すぐに、その言葉に籠められた意味を感じ取ったらしく、新崎さんは苦笑しながら人形は趣味じゃないと否定した。最初から感情の抜け落ちているものでは表現出来ないものを撮っているんだと、新崎さんは付け足した。彼が撮りたいのは、人が人の要素を失っていく過程なのだと、何となく思った。纏足とか去勢みたいな、そういう魅力を求めているのだと。」

   金原ひとみ 『ハイドラ』(新潮社)より


註)ここでいわれていることは、笑わない微笑まないと被写体である「私」に注文をつける写真家である新崎さんの関心が、あくまで人間の側(感情を喪失していく過程を撮影すること)にあるということだが、皮肉めいた「軽い嫌み」として、ただの人形一般でなく、かなり趣味性が高くて一部に根強いファンのいる現代的な「球体関節人形」への好みが、ひきあいにだされているのが面白い。人形の世界の独自性ということからいえば、新崎さんの関心はミルハウザーとは別の次元にあって、人形への興味というものを擬人化の延長でとらえていて、それゆえの限界にあきたりなさを感じている、といえそうだ。ただすこし注意深く読むと、新崎さんは「最初から感情の抜け落ちているものでは表現できないものを撮っている」といっているだけで、彼が纏足や去勢のように、人が人の要素を失っていく過程をとりたいのではないか、というちょっと異様な解釈は「私」のものだ。この空想はむしろ(球体人形への趣味ではあきたらない・自分や人の身体にむけられている)「私」の欲望をしめしていて、表現に奥行きをつくりあげているとはいえそうに思う。



「、、、無機物のはずの人形に生が乗り移り、その人形が人間の死のドラマを演じて見せる不思議さと不気味さが文楽にはあり、それを見ていると、わたしたち「本物の人間」にとっての死と生の境も自明のものでなくなってしまう。しかも、それは悲劇性に酔いしれて死ぬような死ではなく、作り物の滑稽さをさらけ出して死ぬ死である。文楽で首吊り自殺の場面が出ると、人形には胴がないので、ぶらさがったところがなんとも滑稽に見える、という一節が「触れる袖」にあるが、悲劇を見せ、しかも同時に、悲劇が作られた劇であるゆえに滑稽でもあることもまざまざと見せてしまう二重構造には文楽ならではのしたたかさがある。

「富岡文学の造りが時に文楽と似て見えるのは、人形が生き物だと嘘をつくのではなく、人形使いの姿も観客に見せ、物語を語る声が人形とは別のところから出ていることを秘密にしたりもしない、舞台性への自覚のためだろう。」

   多和田葉子「舞台のある小説」(『かたことのうわごと』(青土社)所収)


註)文中の「触れる袖」は富岡多恵子の小説。ここでは、富岡多恵子の小説と文楽の表現の類似性がいわれている。人形と操る人を同時にさらしてみせる文楽の舞台とおなじように、小説世界がつくりものであることを時にかくそうとしない「舞台性への自覚」が、冨岡文学のひとつの特徴だ、というようなことになるだろうか。人形に即していえば、著者は文楽の舞台から、ちょうどミルハウザーが架空の自動人形の劇の解説でいおうとしたのと同じような感興をみてとっているように思える。人形の劇では、現実に似ていることの快楽、つくりものであることの快楽、このめまぐるしい転換が、独自な感興を呼び起こす、というように。



「防腐処理人にはお宝があった。操り人形の蒐集品で、これは莫(モー)の手放しの賞賛の的になる。繻子や色鮮やかな絹の衣裳を悠然とまとった小さな人物を見ると、その魅力に心を奪われそうになった。龍が刺繍された衣を着る皇帝、宝石で飾られた女帝、扇子を持った文官、剣と槍で身を固めた将軍、物乞いなど......。」、、、「跪いたままの莫(モー)の前、その熱のこもった手のもとで操り人形たちは身を震わせる。左右に体を揺らし、よろめき、長い袖をしとやかに持ち上げ、冠や山高帽子をかぶった頭を上下させて、恍惚としているたったひとりの観客に挨拶をする。莫(モー)のメガネのレンズは曇っており、目の前には色とりどりの斑点が見えるだけ。それらは踊り、溶け合い、幾千の星、立ちのぼる炎、そして無数の蛍となって、この刺激的な夜に舞う。」

ダイ・シージェ『フロイトの弟子と旅する長椅子』(早川書房)より


註)ここでは魅力あふれる操り人形たちが登場する。きらびやかな操り人形の動きに幻惑される楽しさが、一種の酩酊状態のように再現されるとき、「莫(モー)のメガネのレンズは曇っており」というさりげない一節がとても効果的だ。



「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、人形って辞書で引くじゃない。す
ると、人の形を模して作った物、かたしろ----でも富永くんのテディベア、子供客の
前で私は無意識に『この熊のお人形』なんて云ってる。このあいだシュタイフのリア
ルな白熊の縫いぐるみを見たのね、これを私は人形とは呼ばない、と思った。布でで
きた模型だ、と。無意識に線引きしているの。でもその基準がなんなのか、自分でも
よくわからない。」(澪)

「、、、、、、人形か否かって話でいえば、まずしっかりと擬人化されてるかどうか
でしょう。鳥で考えるとわかりやすいかも。カーヴィングの小鳥やデコイを人形と呼
ぶ人はいないでしょう。でもビッグバードやウッドストックだったら、たとえ渋い木
彫でも人形と認識できる。」(富永)

「人形の定義といったら、僕はむしろ彫刻やロボットとの境で混乱しちゃう。現代作
家のを集めた人形展なんて観にいくと、金属製の、どう見ても彫刻でしょうって作品
が置いてあったりする。僕の目には、上野公園の西郷さんや早稲田大学の大隈さんの
仲間にしか見えません。彼らは人形ですか? あるいは----そう、劇場アニメーショ
ンで、人形たちが襲いかかってくるって触れ込みのを観にいったことがあります。た
しかに市松人形が成長したみたいなのが、次々と主人公たちに襲いかかる。でもがん
ってやられると、中にはメカがぎっしりと詰まってるんです。なんだロボットじゃん
と思うや観続ける気がしなくなって、途中で出てきてしまった。」(富永)

「、、、、、、云えるのは、人形ってきっと、彫刻やロボットや縫いぐるみみたいに
実務的じゃない、物質性とは一線を画した、抽象度の高い概念なんですよ。じゃなか
ったら鉄腕アトムやマジンガーZの人形なんて成立しえないでしょう----人型ロボッ
トの人形----人間の形をした物の形をした愛玩物だなんて。アトム人形は、鉄腕アト
ムが人間ではないという事実を忘れ去ったところに成立している。あの中身が空っぽ
でも誰もがっかりしないのは、それが、しょせん身近には置きえない存在の、かたし
ろに過ぎないって本能的にわかっているからです」(富永)

「、、、、、だから人形という確固たる物体でありながら、まるで手が届かないよう
で、見てると切なくなる。その向こうにあるものを、みな思い出そうとする。心の底
の原風景のようなもの。ゆえにそれが勝手に動きだすホラーは怖い。自分の無意識が
顕在化したかのような、自分で自分を制御できない----ひらたく云えば自分が狂って
しまったような感覚におちいるんです。」(富永)

「、、、、、、、、、、、、、彫刻家は耳を量感で捉える。ゆえに彫刻に耳の穴はな
い。自分は耳を生身に似せる。そのために耳の穴まで作る----作らずには気が済まな
い、だあから自分の作品は間違いなく人形である、と。」(師村)

「、、、西欧と東洋では、すこし人形の概念が違うかもしれません。たとえば文楽の
人形ですね、あれはかしらと手足と肩板だけで、着物で隠れる部分にはなにも無い。
女役に至っては足さえ無くて、足遣いが裾を動かしているだけです。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、そのうえ主遣い(おもづかい)は今は黒子
ではなく、顔を出してあやつります。つまり最初から種も見せている。人形浄瑠璃で
我々が現実に観ているのは、三人がかりで一つの木偶をあやつっているかのような、
ふりなんです。彼らの中心には空気しかない。しかし観客はそこに自在に動く人形の
質感を見、さらには血の通った人間の姿を錯覚する。息づかいを感じる。アトム人形
が空っぽだというお話で、私が思い出したのはそんなことです。」(師村)

   津原泰水「ガブ」(『たまさか人形堂』(文藝春秋)所収)より


註)これは小説のなかの登場人物たちの会話(括弧内は発言者)だが、彼らの人形談義をとりわけ興味深く感じた個所。引用個所の最後の部分で中身が空っぽな文楽人形といわれている以下の発言は、言い方は違うが、たぶんミルハウザーや、多和田葉子の文章にも共通する人形(劇)について私たちが覚える感興の核心をついている。人形と、ぬいぐるみや彫刻やロボットとの違い、という話も面白い。



「俗に京人形と呼ばれておりますけれど、実は浮き世人形とやらいうものなのだそうで、身のたけ三尺あまり、十歳ばかりの小児の大きさで、手足も完全にでき、頭には昔ふうの島田を結い、昔染めの大柄友染(ゆうぜん)が着せてあるのでございます。」
「これものちに伺ったのですけれど、それが立木という人形師の作風なのだそうで、そんな昔のできにもかかわらず、そのおなご人形は、不思議と、近代的な顔をしているのでございます。」
「まっかに充血して何かを求めているような、厚みのあるくちびる、くちびるの両わきで二段になった豊頬(ほうきょう)、物いいたげにパッチリ開いたふたえまぶた、そのうえにおうようにほほえんでいる濃いまゆ、そして何よりも不思議なのは、羽二重で紅綿を包んだように、ほんのりと色づいている、微妙な耳の魅力でございました。
 そのはなやかな、情欲的な顔が、時代のためにいくぶん色あせて、くちびるのほかは妙に青ざめ、手あかがついたものか、なめらかな膚がヌメヌメと汗ばんで、それゆえに、いっそう悩ましく、なまめかしく見えるのでございます。
 薄暗く、しょうのう臭い土蔵の中で、その人形を見ましたときには、ふっくらと格好よくふくらんだ乳のあたりが、息をして、いまにもくちびるがほころびそうで、そのあまりのなまなましさに、わたしはハッと身震いを感じたほどでありました。」

「あなたはもし、博物館の片すみなぞで、ふと古めかしい人形に出あって、そのあまりのなやまさしさに、なんとも知れぬせんりつをば感じなすったことはないでしょうか。それがもしおなご人形やちご人形であったときには、それの持つ、この世のほかの夢のような魅力に、びっくりなすったことはないでしょうか。」

   江戸川乱歩「人でなしの恋」(創元推理文庫)より


註)擬人化された人形の魅力、ということが臨場感豊かに語られている。擬人化ということだけをとっても、ほりさげれば、魅入られる者の感応する感情というのは底知れないものがあるようだ。



「紫の君はもう雛(ひな)を出して遊びに夢中であった、三尺の据棚(すえだな)二つにいろいろな小道具を置いて、またそのほかに小さく作った家などを幾つも源氏が与えてあったのを、それらを座敷じゅうに並べて遊んでいるのである。
「儺追(なやら)いをするといって犬君(いぬき)がこれをこわしましたから、私よくしていますの」
と姫君は言って、一所懸命になって小さい家を繕おうとしている。
「ほんとうにそそっかしい人ですね。すぐ直させてあげますよ。今日は縁起を祝う日ですからね。泣いてはいけませんよ」
言い残して出て行く源氏の春の新装を女房たちは縁に近く出て見送っていた。紫の君も同じように見に立ってから、雛人形の中の源氏の君をきれいに装束させて真似(まね)の参内をさせたりしているのだった」

    与謝野晶子訳『源氏物語』紅葉賀より。


註)これは、中世の人形遊びに関する貴重な記述。紫の君が座敷中にジオラマの町をつくって着せ替え人形で遊んでいるのは現代っ子とかわらない。



「今は昔のこと、高陽(かや)の親王(みこ)といわれた人があった。某(なにがし)の天皇の御子である。世に並びなく細工物を作ることがじょうずだった。京極寺という寺があるが、この寺は親王の建立し給うた寺である。寺の前の河原にある田んぼは、この寺の領有である。
 たまたまひどい旱(ひでり)の年があって、天下の田という田はすっかり乾ききってしまい、いたるところ大騒ぎになった。この京極寺の田んぼは、賀茂川の水を引いて作ったものだが、かんじんの川の水が絶えてしまったので、まるで庭と変わらず、苗という苗が赤茶けて今にも枯れそうな有様。  高陽の親王はその対策に、丈の高さ四尺ばかりの子供が、左右の手に器を持って立っている人形を作り、田んぼの中に立てた。手にした器に人が水をそそぐと、いっぱいになったところで、その水を自分の顔に流しかけるというしくみである。
 見物人が器に水をそそぐと、なるほど人形の手が動いて自分の顔に流しかけるから、ふしぎな人形だという噂が噂を生み、都じゅうの人が黒山のように集まり、水をそそいではおもしろがって騒ぐ。そのあいだに、水は自然に流れていって、田んぼの中がすっかり潤った。そこで人形を引っこめた。田んぼがまた乾くと、人形を取りだして田んぼの中に立てた。すると前と同じく人が集まって、水をそそいだから、田んぼに水が満ちた。こういう仕掛けで、京極寺の田んぼだけは、旱に焼けるということがなかった。
 なんとうまい考えだろう。これも親王の、細工のじょうず、腕のよさだと、ほめない者はなかった、という話である。」

    福永武彦訳『今昔物語』(巻二四第二話)(河出書房新社『日本古典文庫11』所収)より


註)これは中世のからくり人形の貴重な記述。こういう細工ものへの興味が発展してロボットが考案されるに至ったと考えると楽しい。




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