[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



神の名



 このあいだ、テレビでノー・カット版が放映されていたので、初めて『千と千尋の神隠し』を観た。宮崎駿の作品は、全部ではないがそれまでに何作か観ていて、みずからのイメージを実際に造形化するその手腕には舌を巻かされていたけれど、特に評判の高かった『もののけ姫』など、細部にわたる具体性に説話・神話に類するものとしてはやや恣な印象を受けたことは否めない。寓話なのか神話なのかメルヒェンであるのか、この三つは全部違うカテゴリーに括られるものであるけれども、これらがごっちゃになって混乱した印象を私は『もののけ姫』に感じたのである(斬られた自分の首を捜して山の神が執拗な追跡を試みるシーンなど)。まあ、表現の自由、ということはある。
 しかし今回の『千と千尋の神隠し』ではこうした錯綜をぜんぜん覚えなかった。しばしば宮崎作品で感じられる作品細部の常軌を逸したともいうべき驚くべき幻想の具体性は、例えば詩を読んだり書いたりする私などからすればまったく理解が及ぶと言っていい親近感と統一された感じを有するものだ。それを一言で言えば、それら細部は「夢」に出てきて近しい存在の数々であるからだ。巨大で暴力的な「坊」と書かれた赤い腹掛けをした赤ん坊が、たちまち鼠大の河馬に似た生き物に矮小化して足をばたばたさせたり、首だけの仁王が三つ、目をぎょろつかせて「おい!」「おい!」と言ってころげまわったり、一面の青い水のうえを二両連結の電車が走っていたり。これらのイメージは何かしら私たちの心というものの奥底を掻き揺らすものを持っている。無意識と言えばすべて説明がつく気になるのは大いに警戒すべきだが、無意識というものをこれほど心憎く表現した動画というのもあまり他に類例を見ない。ただ無意識と言ってもフロイトやユングの理論を厳密に当てはめて、というようなものではなく、例えばルイス・キャロルを読んでゆくときに現実だか夢だか判然としなくなる時間を過ごすという経験に、それは似ている。揺さぶられるのは理性であるよりも情動的な部分に関わる気がする。それらの無意識に触れると私は、心の底から笑いたくなったり泣きたくなったりするのである。そしてもうひとつ、そういった表現の数々がいったいにあらわす雰囲気が何となく倫理的なものであるということだ。この点が、(ルイス・キャロルもそれに含まれる)創作童話にせよメルヒェンにせよ、いわば小さな悪夢、小さな地獄へと赴きがちなそれら西欧的な物語とは似て非なる、日本の、アジアの精神世界に共通する性格であり、いわば無と接点をぎりぎりにするところの寛容さを示しているのだろう。
 それの最初の兆しが、千と名づけられた千尋が奉公することになった神々の湯屋で、「くされ神」とされる、悪臭をあげるどろどろの怪物が風呂を浴びに来るプロットだ。千が僥倖で手に入れた「薬湯チケット」で自由にすることができた薬湯により、さまざまな機械の形をした汚濁物をおびただしく吐き出して清浄になった、じつは「くされ神」ではない蒼古の神が、翁の面の相貌で「よきかな」とくぐもる声でことあげをするシーンは、われわれの奥底に眠っていたとてつもなく深い不在とそのリンケージの瞬間を思わせる。翁の面は神の実相であり、目の当たりにされたそれは、じつはわれわれが忘れ去って名づけることを得ない、神の名そのものを象徴するのではないのか。私たちは、神の名を忘れることで、それ自身ではみずからを、他者を、私を促しもせず、引き留めもせず、私たちに仇なすことも、祟ることもしない沈黙の様態でありつづける(一神教のそれではない)その神を、殺害してきた、少なくともその殺害を傍観しつづけてきたのだ。
 幼いころ、私は川崎と横浜のまだ緑がゆたかであった一帯で育った。多摩川では「赤岩」の淵やガス橋で食用の雷魚や草魚が釣られ、そこで川泳ぎをしていた子どもが溺れて死んだ話を聞いた。川の中州の野茨の枝に服の袖を引っかけながら雲雀の巣を探し、クチボソやメダカを追う毎日だったが、ある日川は突然立入禁止になり、工事が始まり、ゴルフ場が出現し、川の水が真っ黒になって悪臭が立ちのぼるようになったとき、向こう岸のセタガヤに直に行ける仮設橋がかかって、しばらくすると第三京浜が完成した。「東京」が近くなって私たち子どもは興奮し、田んぼが埋められてビルやマーケットが建つたびに明るい未来がやって来るような気がしていたが、クチボソを追って中州の藪に入ってゆくときのあの感覚の欠如にまつわる胸の疼きがなかったと言ったら嘘になるだろう。横浜に住むようになってこの空虚さはやや亢進し、学校が終わるとカバンを放り出して山の林や藪のなかをはいずり回ったが、かろうじて見つけた清冽な湧き水のある小さな谷には、当時でも驚くべきことに蛍が棲息していたのだけれど、だんだんその谷もどこの業者なのか、魚の内臓の捨て場のようになってゆき、ある夜そこを通りかかって蛍のわずかな光が腐敗した内臓に交じって鬼火のように見えたとき、慄然とした。
 千は千尋という自分のほんとうの名を忘れないでいることができた。神隠しの湯屋に千がやってきたとき、なぜか彼女にやさしい庇護者のように振る舞った若者は自分の名を思い出せないでいた。湯屋の奉公人からはそこを支配する魔女の手先として忌み嫌われていた若者は、やがて白い竜の姿で千尋に相対するのだけれども、彼も千尋もお互い過去のどこかで会っていたことを感じている。彼につけられた仮の名はハク。魔女は「あったことは忘れないさ、いつか思い出すんだよ」と言ったけれど、物語が導くまま、結局千尋によって魔法を解かれ、ほんとうの名を思い出したハクは彼女に、ついにみずからの本名を名乗るのだ。「私の名はニギハヤコハクヌシ」。彼は千尋が昔当たり前のように遊んだ「琥珀川」の神であり、その川は「マンション建設」のために消失したものだった。それゆえに神はみずからの名を忘れ去ったのである。ニギハヤヒ神とオオクニヌシ神とを合わせたようなこの神の名は、いずれも天孫降臨以前の神々をあらわしていることは少し注意すればわかる。それよりも、このアニメーション映画のさいごのあたりでこの名を耳にしたとき、私はまるではげしい疼痛のように、懐かしさと悲しさと恋しさとを胸に覚えたのである。



「メタ  6号 」(2004・12月)


[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]