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日月陽秋きらゝかにして――ひさご序文註釈



 元禄三年(一六九〇)六月、膳所(ぜぜ)芭蕉一門による俳諧集『ひさご』の序文を依頼された越智越人(おちえつじん)は、そこで次のように書いている。以下全文。

江南の珍碩(ちんせき)我にひさごを送レり。これは是水漿をもり酒をたしなむ器にもあらず、或は大樽に造りて江湖をわたれといへるふくべにも異(こと)なり。吾また後の恵子(けいし)にして用(もちゐ)ることをしらず。つらつらそのほとりに睡り、あやまりて此うちに陥る。醒てみるに、日月陽秋きらゝかにして、雪のあけぼの闇の郭公もかけたることなく、なを吾知人ども見えきたりて、皆風雅の藻思をいへり。しらず、是はいづれのところにして、乾坤の外なることを。出てそのことを云て、毎日此内にをどり入(いる)。

 一読して美しい文章であるが、いろんなコンテクストが論理の綾や伏線みたいに交錯し見え隠れする、ちょっと強かなところもある文だとも言える。
 まず江南の語義だが、これは直接には湖の南、すなわち琵琶湖の南に位置する膳所(大津市内)を意味する。貞享元年(一六八四)秋の『野ざらし紀行』の旅を終えた途次、尾張俳壇で(後生から見て)強烈なデビューを果たした芭蕉は、以来名古屋の衆と緊密な関係になる。『笈の小文』『おくのほそ道』の旅を経、やや転じて芭蕉は膳所の地に杖を留め、旺盛な創作活動に入るが、越人は名古屋の人であり、珍碩が膳所における若手のホープであることを背景に置いて一文を見てみると、また違った文脈が浮いてくる。
 端的に言って珍碩は越人に、じっさいに「ひさご」を贈物として送ったのではないか。芭蕉七部集第二の、尾張の衆を中心とした『阿羅野』のなかで越人は芭蕉と両吟を巻いている。あまりに名高い「きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉」「かぜひきたまふ声のうつくし 越人」の運びを含むこのひと巻きは越人一代の誉れであると言っていい。そのなかに「瓢箪の大きさ五石ばかり也 越」「風にふかれて帰る市人 蕉」の付け合いもある酒好きだったらしい越人に、珍碩が送ったこのひさごには現実の酒が入っていたとも考えられる。酒は現金などとは異なり、どこかしらうつつならざる象徴めいたところがあるもので、旧地の名古屋に対し、新地の膳所の衆を中心とした俳諧集序文の任を仰せつかったことは、芭蕉から贈られたちょっとした幻想の(「五石ばかり」の)酒のようなものではなかったか。だいいち、この俳諧集の名前そのものが『ひさご』ではないか。もちろん越人はこれを「水漿をもり酒をたしなむ器」でない、無用物であるとは言うのだけれども、根っからの「瓢箪好き」(酒の連想を伴う)である彼の密かな舌なめずりのようなものを、私はそこに却って感じてしまう。また却って無用物であるがゆえにこそ、詞華集にまつわる贈答には相応しい。昔の日本人はこうしたほんの風の先触れのようなささやかな贈答を介して、時季の、人事の、挨拶というものをよく交わしていたようである。
 またいっぽう、江南の語を用いることは、すぐそのあとに出てくる「後の恵子」の語義とも関わって、越人みずからの俳号に関係してくるようにも思う。彼の名・越人は、その出自が日本海側の北越(新潟)であることを示すとともに、中国は江南の地にあった「越国の人」でもあるといった自負を暗示するように思うのは僻事だろうか。いわば彼の中国志向、老荘趣味である。越の名に、あるいは異族の風も籠めているか。
 恵子については『荘子』の逍遙遊篇に出てくる人物の名で、荘子と二人、篇中でディアローグを為している。彼は荘子に語って言う。魏王からひさごの種をもらったが、それを植えて育てたところ五石を成す実がついた。けれど馬鹿でっか過ぎてそれにどんな加工を施しても何の役にも立たない。と、暗に荘子の思想を大げさだと揶揄する。荘子は反論して、(江南の地・呉越の戦いの知略を例に引いたうえで)器や柄杓といったこまごまとしたものに加工しようとするからどうにもならないわけで、「いまあなたに五石も入るひさごがあるのなら、それをくりぬいて大樽の舟にしたて、[それに乗って]大川や海に浮か[んで自由な天地を楽しめ]ばよいものを」(岩波文庫版『荘子』金谷治訳注)と言ったという話である。ここでも「五石の瓢箪」が出てきて、越人の一貫した荘子好きがうかがわれるが、序文中の「後の恵子」とは、じぶんもまた物わかりの悪い後世の恵子ともいうべき凡俗にすぎないので「その用ることをしら」ないという謙遜を示す。
 そして「つらつらそのほとりに睡り」あたりから終りまでは、『荘子』からこんどは『後漢書』方術伝下における費長房・壺中の天の逸話へと文脈はスリップしてゆく。後漢の御代、汝南の町に費長房という役人がいたが、その勤める市場に一人の薬売りの老人がいて、夕方市場の仕事を終えると、たくさんある薬壺のひとつにひらりと身を翻して跳び入ってしまうのを目撃する。老人は壺公といったが、ただものでないと見たこの老人に費はよく尽くし、壺公に誠意を認められた費は一緒に壺のなかに躍り入ることを許される。なかは楼閣や門、長廊下などがある仙境で、費は美酒佳肴をたらふく楽しんだ揚句に、また壺の外に戻ったという。いわゆる壺中天、一壺天の由来であり、壺中の天とはまた酒を飲んで俗世を忘れる義がある。
 「江南の人」珍碩から送られた用いることを知らない無用のひさごの内側は、「日月陽秋きらゝかにして、雪のあけぼの闇の郭公(ホトトギス)もかけたることなく」、また身近にいる者ばかりでない、遠方の、慕わしい、あるいは亡友たちをも含んだ「吾知人(ワガシリビト、と読みたい)ども見えきたりて、皆風雅の藻思を」言うミクロコスモスでもあるのだ。これも一種の醒めて見る永遠のごときものであろう。「風雅の藻思」をささやきあうきららかな陽秋のもとでは、存在はほんらい無瑕のものであるはずである。雪のあけぼのや暗夜にほの啼くホトトギスが絶え間なく現象している、「乾坤の外」ならぬ「外なる乾坤」に酌む宴では、酒好きにはわかると確信するが、酔いの深浅も、時間の長短も、あるいは時間そのものさえ、存在しない。越人は後に芭蕉の不興を買って疎遠になっていったのだけれど、そしてその最期をつまびらかにしないのだけれども、「後の恵子」たる私たちもまたいつでも立ち帰って、『ひさご』を、七部集をひもとくおり、きららかな光と影にみたされて香る瓢箪のごときもののうちに毎度「をどり入」ことになるのである。

 かげろふの抱つけばわがころも哉 越人



「メタ  7号 」(2004・12月)


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