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こひしかるべき ――私の小倉百首から



  例ならずおはしまして位などさらむとおぼしめしける比(ころ)、
  月のあかゝりけるを御覧じて
心にもあらで此世にながらへばこひしかるべきよはの月かな   三条院


 あのときもアパートの部屋の前の廊下に立っていた。昨日
も、またその前の日も、というぐあいに、父は立ちつづけて
いた。中に入れるなと言っていたのはぼくだったのか、そう
は言わなかったのかはよく判らないが、アパートのドアはか
たくなに閉ざされた。母とぼくが父と別れてここに来てから
二年ほど過ぎていた。それまで一家で住んでいた借家を出て、
横浜の外れの町に父もアパートを借りたらしいことまでは知
っていた。何をするともなく、映画館の内に一日中いたこと
なども。あのとき、窓の外に映っていた影がふいに沈み、大
きな音がした。扉を開けたら、父が倒れていた。数日間、飲
み食いをしていなかったようだが、酒飲みで恐ろしかった父
がこんなにも簡単に毀れてしまうものだとは、思ってもみな
かった。母は家政婦の仕事で外に働きに出ていたので、学校
をやめ家にこもって詩などを書いていたぼくが、そのときか
ら父に対して絶対的権力をふるうことになった。まず酒たば
こはいっさい禁止。二十歳になるやならずのぼくは就寝前に
ウイスキーなど舐め、たばこを吸う習慣があったし、母も弱
いながら寝る前に焼酎を生(き)で飲んでいたりしていたけれど。
それから、火は、ひとりではけっして使ってはならない。隠
れたばこをするな。ぼくの手の空いていないとき、飼ってい
る猫のチーチャンの飯をつくれ。もうめざしは焼いてあるか
ら、こうやって細かくほぐし飯に混ぜてやれ。用事から帰っ
てきて猫の飯を見ると、白飯の上にめざしが一本そのままの
っかっているだけである。ぼくはかっとなって、こうこうと
ちゃんと言ったはずじゃないか、なぜやらない、やれないな
ら、じゃあ、以後こういうことは決していたしませんと誓約
書を書け、と、詩を書くレポート用紙の一枚を破って、サイ
ンペンと印鑑といっしょに父の前に突き出した。口舌はもう
うまく廻らなくなっていた父は、何も言わず少し目を剥いて
ぼくの顔を見、それからふっと横を向いた。そこに微かな嘲
笑の影を見たような気がしたぼくに怒気が上がり、平手で父
の頬を打ちすえた。そのときになにを感じたのか、一方的に
なるのが厭だったのか、ぼくは自分の頬を指し、ここを打て
と言った。父は容赦なく打ってくる。ぼくも思いきり打ち返
した。際限もなく繰り返すうち、双方苦痛が耐えがたいもの
になってゆく。ぼくはこのあたりでお互いを許し合い、涙を
流しというようなことを想像していたのだが、実際少量の血
の泡が混じる父の顔に見たのは、恐怖と嫌悪以外のものでは
なかった。それから数日のあいだ、家に包丁や剃刀、金槌が
置いてあるのが気になって仕方なかった。それで父から襲わ
れたらどうしようか、寝ている間なら防ぎようもない、隠そ
うか、というところまで思いつめたとき、そんな自分をふと
顧みて、初めて深い懼れと悲しみの心が降りてきた。父はそ
の後、譫妄的な症状があらわれてはるか武蔵の果ての草深い
病院に移って死んだ。父は父自身のことをどんなふうに思っ
ていたのだろうか。いまでも父は夢に出る姿で唇に血を滲ま
せている。かぎりなく美しく、さびしい月明の下、ぼくだけ
に庇護されて。幽かに音を立てる、虻となり、早蕨となって。


(「tab」14号、2009・1月)



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