[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



人にはつげよ ――私の小倉百首から



  隠岐の国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかは
しける
わたのはら八十嶋かけて漕出ぬと人にはつげよあまのつりぶね   小野篁


 病を得て籠もっていた地方の町から、風に流れ出た柳の絮
みたいにふと再びこの横浜の町に戻ってきた。地方の町に流
れていった一人のときとはちがって、戻ってきた春は母と二
人だった。新横浜で新幹線から降り、その足でかつて暮らし
ていたなじみの私鉄駅前の不動産屋に当たって、二軒目でア
パートの部屋を決めて鍵をもらった。そうしないと今夜寝る
ところがなかったから。六畳と三畳と小さな台所のついた部
屋に、翌日からだんだん色んなものを買いそろえていった。
布団、食器、家具、家電製品、それから電話を引き、さいご
にねこを拾ってきて飼った。さいしょのうちはさみだれ式で、
貯えを食い潰さざるを得なかった仕事の依頼も、少しずつ少
しずつ増えてゆき、ときおりは商店街の鮨屋に母と鮨を食べ
に出かけるようにもなっていった。種子が産毛のような細い
根を生やしてゆくように、この寺のある小さな町に私たちは
わずかになじんでいったが、水鳥の騒ぐ公園の池や大銀杏の
あるロータリー、神社の裏手の崖際に危うく立っている飲み
屋の灯りなど、そこに疼痛のような平安と慰藉を感じなかっ
たといったら嘘になる。平屋の日本家屋から聞こえてくるア
ップライトピアノの音、ぜったいに洗濯物を外に干さない横
文字の表札ばかりならんでいるアパート、サンダルばきの散
歩で丘を越え、新横浜駅のバーでひっかけたドライシェリー、
それらは暗く抜けんばかりの濃密な晴天の時間とともにあっ
た。ある日は母と浅草へ出かけ、宝飾店など見てまわるうち
に、しげしげと母が眺めていた鼈甲の髪留めを、これなら買
えそうだと踏んで思いきって買ってやってひどく母を喜ばせ
た。いままでさんざ苦労してきたのだ。これくらいはしてや
ってもいいだろう。その浅草では分厚い木の表札を求めて、
木造賃貸アパートの貧相な戸口におおぎょうに掲げた。鼈甲
以外にも、どうやら母の所有する宝飾品はだんだん増えてい
ったようだったが。べつのある日、私が一人で家にいるとき
に電話がかかってきて、民生委員とかいう老女が、うちの家
族構成やら職業やらにつき、いきなりぞんざいな口調で訊問
してきたので、そのままの口調をお返ししてやった。あとか
ら母が色をなして怒る。民生委員のなんとかさんは私がひど
く無礼だったとお怒りである。どこの何とも知れないものの
世話をしようとひとが親切に訊いてやっているのに、あんた
んとこのせがれの態度は何だ、と言われてわたしは立つ瀬が
なかった。だいたいわたしは町の老人会にさえ入れやしない。
それというのもわたしたちがこんなぼろアパートに住んでい
るからだ。それだからひとから馬鹿にされるのだ。おねがい
だから、収入はあるのだから、もっとちゃんとしたところに
引っ越そうよ。もとより土地に深いえにしがあって住んでい
たわけではない。心のほんの少しの痛みのあとで、私もいと
もたやすく隣町のマンションへ移住を決めた。引っ越しの日
は晴れていて、ねこはもらってくれる人がいた。拾われてか
ら九年たち、大ねこになった四肢を抱いてその人に渡すとき、
はじめてえぐられるみたいな悲しみを胸に感じた。悲しみは
乾いた風のなかでたちまちにうすれ、私たちはまた春の大空
へ、うつろな絮のようにただよい出てゆく。笛一管も持たず。


(「tab」14号、2009・1月)



[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]