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ともだち



 透明な塵の交じったような、どこか硬質な春の風とともに
彼はやって来た。私たちがよく遊びに行くその学生寮の一室
に、ちがう学校の学生である彼がいつのまにか居着いた、と
いうかたちだ。音楽をやる仲間がいて、彼はベースなんだと
言っていた。その顔の印象はあるけれど、その顔の記憶はな
い。なにかしきりに冷たい雨と無残なまでに美しい花が降り
つづいていたような感じがある。彼が夜の公園で楽器の練習
をしているという贋の記憶。じぶんは国文科なのだと言って、
私に分厚い本をくれた。八代集抄という題が箔押しされたそ
れはたいそう立派だったが、披いてみると中がタバコの箱二
個分ほどくりぬかれている。歌さえ読めればいいと思って貰
っておいたが、めくってもめくっても読むことのできるのは
頁の両端の四首ほどで、そこにあるはずで見事に欠落してい
る中央の二、三首ずつがすごく気にかかった。それは両端の
四首よりも、もっと華麗で、豊かで、香り高い空間みたいな
心ばえさえしてくるのだった。本にうがたれた空洞には現金
を隠していたのだと言っていた。秘すれば花を実地で教えて
くれた彼と一度、音楽をやる仲間とその綺麗な恋人も交え、
歌舞伎町のひどく安い店で飲んだことがある。アルマイトの
平鍋のショッツルをつつきながら、やっぱり話題は音楽で、
ジャズの話のあとにはなぜか必ずそこにテーマが流れて行く
演歌の話になり、当時全盛のイツキヒロシをどう思うかと不
意に訊かれた。面食らいながら私が、イツキにおいて演歌は
自己崩壊しているとでたらめを言ったら、彼は身体を二つに
折ってくるおしいほど笑った。春が終わるころ、彼が自室で
死んでいるのが見つかった。スイッチが入ったままのヘアド
ライヤーを握り締めていたという。春の公園の水銀灯の下で、
彼は永遠にステージに上がらないベースの練習をしている。
くりぬかれた本の中には薬物を隠していたのだという噂をそ
のあと聞いた。ほんとうに学生であったのかどうか、誰も知
らない。彼がベースを弾いているところを、私は見たことが
ない。

 勧 君 金 屈 巵
 コノサカヅキヲ受ケテクレ
 満 酌 不 須 辞
 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 花 発 多 風 雨
 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 人 生 足 別 離
 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
         (「勧酒」于武陵、井伏鱒二訳)  


初出「『現代詩図鑑』2月号 」


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