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碧空



 極貧人のこの私から、あろうことか借金をして一万円を巻
き上げ、まわりの友人たちをはるかに驚倒せしめた男の専攻
は中国語だった。夜な夜な彼のいる学生寮に通って、飴色の
二級ウイスキーを舐めながら詩のことを談じた。私の書いた
ものを彼はなかなかに辛辣、客観的に評したが、自分の書い
た作品をようやく開示したのはそのあと暫くたってから。処
女の如く恥じらって差し出されたノートに見たのはある種格
調の高い抒情詩だったけれど、詩行の中に象眼されたみたい
にはさまった、仁慈、とか、群山、とか、撃発、とかいった
言葉が少し目についた。確かに国語辞書には載っている文字
だが、そのことで彼が傷つかないような褒め言葉を発明する
のにはちょっと骨がいった。彼は文学者になろうと本気で考
えていて、彼が受講していたゼミの教官に真剣な相談を持ち
かけた。のちにそこの教授職を擲って俳諧師になってしまっ
た先生は彼に、生半可な勉強では不可能なこと、それを可能
にする資力と時間の条件が彼に欠けていること、また、この
世界特有の性格などを挙げて、諦めるよう諄々と説いたとい
う。夜の地下生活者みたいな彼がにわかに世界に対し積極的
になっていったのはそのあたりからだ。授業に出なくなり、
袖触れ合ったあらゆる知り合いから借金をした。上州の強い
訛りで人生上のすべてのアポリアは取るに足りないと豪語し、
革のジャケットをはおり始め、寮生の妹の痩せておどおどし
た娘を恋人にして連れ歩いたあげくに彼女を捨て、自殺未遂
をさせる。彼が金を借りるため私に指定した場所は新宿の要
通りで、金を渡すだけというのもあんまりなので安い店に彼
を誘った。飲みながら彼に、随分忙しそうだけど人生は楽し
いかと訊いたら、ああ楽しいねと私の眼をまっすぐ覗き込み
ながら答えたが、その瞳には深い碧空みたいな恐怖が揺れて
いた。もちろん金が返ってくることはない。彼はゴーストラ
イターとして実業家や芸能人の本を数本書き、結婚して子ど
もができたころ大病して胃を半分取った。そのライターも辞
めて東京の北のほうの区で、奥さんの作る手弁当を提げて鉄
工所に通う日々だという話を聞いたのは、いつのことだった
か。彼の住む小さな家のうえには、みんなと同じ恐ろしいほ
ど深い碧空が口を開けているに違いない。そこを綱渡りしつ
つ行くまぶしい服を着た道化たち。ラヴィアンボー(人生は美しく)。

 ああ、誰かどこかで、「水調」の曲を歌っている。
 明るい月光は、揚州のまちに満ちあふれんばかり。
 すばらしい駿馬は、気ままな遊びに出るのにふさわしく、
 ありあまる大金は、人目を避けて楽しむのに都合がいい。
 まちなかの喧騒しさは、若者たちを酔わせ、
 赤味を帯びた豪奢な皮衣もはだけて、ほとんど脱げ落ちんばかり。
    (「揚州のうた」杜牧、松浦友久・植木久行訳)


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