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青空で鳴らされる鐘 ―堀川正美に捧ぐ2



夏は透明な川を越えてやって来る
地の果てに涌く針の尖ほどの水場から
ばら色の積乱雲は騰りかつ崩れまたほとばしりをくりかえす
老いることと若い日のふかくはげしいよろこびが
沈みゆく遭難信号のように華麗に明滅するのは
今か
きのうか
無いあさってか
巨大な電波塔が古い錆色のかなたに夕映え
かすかにすばしこい甲虫が走りまわる
ふくざつで膨大なシナプスの薄闇をはらんだまま
湾岸沿いの高層建築群の白銀ははてなしの山塊のように
八月の暑さに霞んでいる
目はみひらいて跳べ
絶対の暗黒をわたるとき
風にふるえる夏の花を耐えよ
強烈に蒸発するくさむらのようにいにしえが今を鋭敏にするとき
行け、行くな、はばたいてくずおれろ
羅針、帆柱、舳先が透明な垂線で繋がり
前方でしぶきをあげて逃げつづけるとんでもない嵐を追尾する
波のあわぢは夢と溶け
けっして到達したくなかったシテールの島影が見えてくる
ドリップを落ちるコーヒーのしずくに永遠をひもとき
わずかに血のかおりのするソーセージを嚥下する
水滴の浮くグラスと皿をことさらにていねいに拭きおわる朝
エジプトの税吏のように慇懃に
三千年を経過した面貌で小さな鏡に映るみずからの頬に
新鮮な霊気をたたえたカミソリの沈黙をあてる
それから
みづくろいをしてドアを開け
後ろ手に閉める
エレベーターで一階に降りて
あとも見ずに坂を下る
われわれの
まず鏡が消滅し
部屋が失せ
そして
このたくさんの家を容れた巨きな函[はこ]は残りなく消え失せている?
透明な川を越え
なにものかが下り去った丘の上には

青があるばかり、青空があるばかり、なんにもない
あたらしい秋のうつろがあるばかり!


「*「ゆぎょう」43号(2006・9月)より。」


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