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具体性の詩学ノート1 実物とコピー、および共通語について



 わたくしごとで恐縮だが、去年出した拙著の序に当たるところで、例えば職人などが修業するうえで欠かせない行程として「本物を見る(食べる、触る、聞く、嗅ぐ等)」ということがあり、それは写真やビデオ、再生機などの復元機械を介しては得られないものがある、芸術鑑賞にも似たようなところがあって、画集を眺めて絵を論じたり、レコードやCDを聴いて音楽を理解したりは(本当には)できないのではないか、と書いた。
 これには多くの方々から反論をいただいた。ちょっと言葉が足らなかったのかも知れない。私が言いたかったのは、画集の絵と元になった絵そのものは違うという単純なことなのだが、そしてそれに対する感受も当然のことながら異なってくるということだったのだが、論じたり理解したりはできないというところに批判の大半は集中したようだ。また、レコードにはレコードそのものの蓄積された文化と時間、すなわち特有の世界があるのだとか、経済的に余裕のない者に(例えばバイロイトに行く、とか)その論は酷だとか、何々はどこそこのどんな条件で聴く(見る)に限るという話をはじめたらきりがない、といった意見まで飛び出して、私が最初に考えていたことは何だったか、思い出すのに少々の努力が必要だった。
 話を簡単にするために音楽を例に取れば、実際にピアノならピアノを弾くことが常態になっている人間にとって、モーツァルトのソナタの何番は別の何番より作品として優れているかいないか、といった発想は通常はおこなわない。その作品からもたらされる感動は、ひとえにその作品の解釈、奏法、強弱、音質といった実際の「演奏」(performance)の有するフィジカルな同時的体験をみなもととしている。いわば一回ごとに異なる、同じものとてない「時間」を奏者と共有することを意味しているのである。これこそが、本来の、真の、基準たるべき、モーツァルトの何番であるというようなものは存在しないのである。いうなれば、その日その時、その場に顕現した音楽の具体的な現存と、その全面的な享受があるだけだ。音楽はその楽譜とは異なる、という言い方もできる。
 CDのたぐいは絶対的時間差のあるこれのコピーである、ということにあまり異論は出ないのではあるまいか。ただしそれは再生されたものであっても、「再現」されたものではあり得ない。おそらく画集についても同様のことが言えると思う。レコードや画集がすでに歴史的に持ってしまった「文化」の側面をこれで否定しているわけではないし、レコードをレコードとして、画集を画集として、蒐集し鑑賞することに異を唱えるわけでもない。ただしそれは当の音楽そのものではないし、当の絵じたいではないということだ。
 ちょっと屈折した見方をすれば、例えばダリ画集を本物のダリの絵よりも愛するという人間もいるに違いない。本物よりもコピーを愛するというこの立場は、しかし本物そのものはあり得るけれど、コピーそのものは本物の存在なしにはあり得ない、という事情によって、たぶんコピーの工程を介しておこなわれる本物の変質といったものを愛しているのだ。ここいらへん、込み入っているけれど、このときダリ画集を偏愛する者は、本物でも、その正確な再生をめざしたコピーでもない、変質したコピーという(彼あるいは彼女にとっての)ある種の「本物」に出会っているといえる。
 しかし、ダリの絵を愛する者は「ダリ」ではなく、実はカンバスに展開する具体的な線、陰影、激しい色やマチエールに接触することを通じてダリを愛好しているのだが、ダリのコピーを愛する者は多分、おのが意のままに手に取ることのできる、モニタ的ななにごとかの内で「ダリ」を愛している、という違いはあるだろう。レコード蒐集にも似たような事情があり、やはりこれらは代用品なのだなという感想を持たざるを得ない。そして、いわば「現実の」絵や音楽に背を向けて、これらそのものを自分は好むのだ、と断言する立場(そういう人はけっこういる)にはある神経の痩せとあやうさがほの見える気がする。
 これを言葉の場合で言うとなるとどうなるか。その著『物語理論講義』の中で、藤井貞和氏は次のように述べている。《『アコロイタク』(一九九四年)はアイヌ語を習うための教本で、なかをひらくと、十勝方言、沙流方言、旭川方言、千歳方言、静内方言、浦河方言というように、方言のみから成る。アイヌ語という〈国語〉はないのだということを主張したい。》藤井氏はこのくだりの「注」で《日本語と沖縄語との関係にしても、本土方言が日本国国籍者九十九パーセントの使用者からなり、琉球方言(沖縄語)が一パーセントの使用者からなるとして、方言としては対等の関係にある。》とも述べている。
 ここでわかってくることは、共通語(標準語)としての「国語」は、ある抽象的な想定のもとで初めて存在し得ること、しかしそれが共通語以外の「方言」と並べられるとき、つまり実在の言語使用の野においては、いわば「共通語的方言」とでも言うしかないありようで対等具体的に存在しているという事実だろう。以前グリーグの「遅い春に」という、ノルウェーの土着語であるブークモール語の詞で書かれた歌曲を聴いたことがある。「春が私の方へ 運んでくれたすべてのもの/そして 私が摘んだ花/それは 父祖の霊だと私は信じた」。こんな内容だが、「共通語」としての日本語や英語によっては、そのコトバに真に対応するものが何かは、実は窺い知れないという感が深い。そこに出てくる「笛」や「ウワミズザクラ」など、実際にはどんな感情を抱懐しているのか。共通語はそこを翻訳するけれど、顕示はしない。フィジカルな現実と一種の非現実である言葉との関係にそれは似ていて、この構造を一気に言挙げするものとして、詩が要請されているのだと思う。


《「COAL SACK」57号より。》


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