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臨海電車



 この世ならぬものを見てしまったような色のアジサイの、
無数のひとみに送られて、電車は錆びて痩せこけた鉄骨を組
み上げた乗り換えホームを出発する。圧倒的な空のもとの、
地上の部分はほんのわずか、厳めしい氷山みたいな大油槽群
をふくざつに浮かべるどこまでも青い海。鉄条網に典雅にか
らまるヒルガオの寂しい永遠。電車は次第に速度を上げはじ
める。カーブを曲がると突然の夏空の襲来である。工場の波
形トタンの隙間から、不意に通り過ぎていった楽隊の音(ね)みた
いな拍子で華麗な積乱雲のはしっこが溢れる。涙滴の積もる
冷酷な沖からやって来て、運河をつたいわれわれに届く湾の
臭いは、同時にわれわれの宿痾と悦びの匂いだ。片眼の猫、
病気の猫、三本脚の猫たちが、午刻の揚げ物屋のくらがりに
あつまる。ここから秋の死までのながいながい昼下がりの光
に、ちびたペンキの牛乳箱の陰に、かれらは歌のように美し
く溶けているだろう。運河を渉り、車輛は反対側にカーブす
る。乗客は、立っている者はきまじめに吊革につかまり、座
っている者は両手をきちんと揃え膝の上に置いている。女は、
青空の反照で伏し目がちになり、頬がしろく浮いて若やいで
見え、やきとり屋に寄ってきた男連れの声高な声も、永劫の
相の下にあるみたいに孤独に聞こえる。さらに速度が上がる。
暮れだした市松模様を描く埋立地の、エンゼルマークも潰れ
かけた魚屋も、さびれたドックヤードもガスタンクも金魚屋
も、すみやかにすみやかに車窓を走ってゆき、そこには風景
が流れているのだかわれわれの過去が流れているのだか判然
としない。何もかもがそこに留まったまま、もう夕ぐれなの
だ。さいごにいちど、がくんと車体を揺すらせてから電車は
弓なりに撓んで、われわれの帰る家、ふるえる水のむこうに
ある深い森をめざす。ウミ・シバウラという、海に突き出て
いる、下車することのできない終着駅のむこうにある?








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