[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



蕉句二つ



 芭蕉の句にこんなのがある。元禄六年(1693)、死の前年の吟だが、死の匂いなど微塵も思わせない。

菜根を喫して終日(ひねもす)丈夫に談話ス
ものゝふの大根苦き(別に、からき)はなし哉

 あるいはさかのぼって貞享五年(1688)にはこんな句がある。芝居の舞台で役者を見、翌日にその訃報を聞いた折の作。

  俗士にさそはれて、さ月四日吉岡求馬(もとめ)を見ル。五日はや死ス。仍而(よつて)追善。 
花あやめ一夜にかれし求馬哉

 両者を読んで気がつくのは、二句とも同じ表現構造の文であることだ。必ずしも修飾・被修飾というのではない。上から読んでいって対象的な世界の積み重ねと判断できる叙述のすえに、卒然としてそれらが譬喩であったことを明かされる。ものゝふの句で言えば「苦き(からき)」、花あやめで言えば「かれし」が蝶番のように反転して、それ以前の叙述をいきなり譬喩にしている。まるで、メビウスの環をくぐりぬけるように。
 芭蕉の作の中ではあまり多くはないこういった構文は、しかしそれ以前の勅撰和歌集や私家集、歌物語において数限りなく作られてきたものなのだ。ここで後生のようなたくらみのいちばん少ない万葉集の作例を見てみる。

1 秋の田の穂の上(へ)に霧らふ朝がすみいづへの方にわが恋ひやまむ 磐姫(いわのひめ)皇后
2 秋山の樹(こ)の下がくりゆく水の吾こそ益さめ御念(おもほす)よりは 鏡王女(かがみのおおきみ)
3 見渡せば明石の浦に焼(た)ける火の秀(ほ)にぞ出でぬる妹に恋ふらく 門部王(かどべのおおきみ)
4 阿倍の島鵜の住む石(いは)に寄する波間(ま)なくこのころ大和し思ほゆ 山部赤人

 芭蕉句の「苦き」や「かれし」のような句は、たとえば1では「いづへの方に」であるし、2では「水の…益さめ」、3では「秀にぞ出でぬる」、4は「寄する波…間なく」だといえるだろう。それまで景物や現象のあいだをさまよっていた叙述が、それらの一句をもって突然心の可視的状態になったことがわかってくる。いや、対象を持たない心と、心の裏付けのない対象とが、下の句の終わりに至って一挙に結び付く、と言ったらいいか。もっとも、心の裏付けのない、とは言っても、積み重ねられてゆく対象的な叙述は心の周りをぐるぐる回っているのだ。3の明石の浦や夜に漁夫の焚く火、4の大和から遠く離れたじぶんにはよそよそしい阿倍の島の鵜など、心に関係のありそうな景物や現象をしだいしだいに引き寄せている。そうしたうえで、キーとなる句をギアのように入れて心をいっぱいに開放させるのだ。
 古く、和歌や歌謡がどんなに客観的な叙述に終始しているように見えても、何かしらの諷喩であったり、同じことだが、神意を伝えるものであったりしたことと、これは関係している。客体としての歌というのは考えられない。それがどんなものであれ、歌の裏側には心がぴったりと張りついている。まるで、沈黙が張りついているように。あたかも、「神」の受容体のように。和歌の始めであるとされる「やくもたついづもやへがきつまごみにやへがきつくるそのやへがきを」の歌が、なぜ意味もよくはわからないのに、かくも長い間尊重され伝承されてきたのか、そこにある人々が感じた託宣という側面も無視できないのではないか。われわれは「歌」を前にするとき・読むとき、歌へ指向する何らかの「心の状態」ではいるのだ。
 この心と景物はやがて二つの方向に分かれてゆく。ひとつは、景物が一首の全体を覆うもので、「恋ひやまむ」や「思ほゆ」等で心を開放させることなく、景物自体が心と同義となったもの。言うなれば、心は景物のうちに密封されることになる。たとえば次のような歌が考えられる。

5 もののふの八十(やそ)宇治河の網代木にいさよふ波の行方知らずも 柿本人麻呂
6 四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫の島こぎかくる棚無し小舟(をぶね) 高市黒人
7 縄の海ゆ背向(そがひ)に見ゆる沖つ島こぎ廻(み)る舟は釣をすらしも 山部赤人

 これらの歌の末尾に「恋ひし」とか「悲しも」とかを接続して心を開放させると、たちどころに一首の全景物は心の譬喩になるだろう。ただしそうしなければ、いつか「やくもたつ」のような託宣の味わいを、これらの歌は持つに至るような気がする。いや、歌というものはすべて、心と意味をつかむ術が痩せれば、託宣のような形をとって残存するものなのかも知れない。他方、はるか後のはなしになるが、近代的な叙景歌や写生句なども、その秘密を、ここいらへんにまで辿ることができるのではないだろうか。
 もうひとつは景物をほとんど振り捨てて、心のみを述べる形が考えられる。景物が無くてどうして歌が成り立つのか。じつは、心は自分自身を対象として、歌を成り立たせるようになるのである。心は当の心自体を景物のように扱うことで歌を成り立たせる。以下の作例にその形が見られる。

8 生者(いけるもの)つひにも死ぬるものにあれば今ある間(ほど)は楽しくをあらな 大伴旅人
9 ゆふ畳(だたみ)手に取り持ちてかくだにも吾は祈(こ)ひなむ君にあはじかも 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)
10 遠長く仕へむものと思へりし君いまさねば心神(こころど)もなし 作者不明
11 夕さればもの思(も)ひ益る見し人の言問(ことど)ふすがた面影にして 笠女郎(かさのいらつめ)

 このなかで8が最も後世的というか近代的な形で、万葉集のうちではまず例外的な作例(の一群)なのではないか。残り三つは、9は一族の刀自である郎女の重要な為事である神事に関する歌であり、10は8の作者の大伴旅人の薨去に際しての挽歌群の一、11は恋歌である。いずれもいわば「魂(たま)のありか」をめぐって一首が成立していることが注意されていい点だ。これが古今集からこっちになってくると、さきほど述べた蝶番の句の使い方が違ってくる。

12 昨日といひけふとくらしてあすか川流れて速き月日なりけり はるみちのつらき
13 世の中はなにか常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる 読人しらず

 あすか川がこの場合の蝶番だが、あすか川を挟んで、前と後ろとで何かディメンションが決定的に変わったという印象がない。下の句にしても素直な心の放出ではなく、二重にも三重にもその奥にたたまれたペルソナを感じるのである。しかし、しゃれてはいるとはいえ、咒言とまったく無縁でもない。もっと行けばいわゆる「誹諧歌」となるものだ。こういう言い方を進めるなら、そう、あすか川は現代のわれわれの言う駄洒落なのだ。言を左右にするみたいだが、もっと言わせてもらうなら、木や鳥に神意を見たり、はるばると広がる峠越しの海景に家郷を思ったり、山の隠れ水や田の上の朝霧にもの思いすること、それらを譬喩とすること、駄洒落の淵源はそこに求められる。じっさい、神話作用の中ではコトバはほとんど同音・同義の触手でもって動くと言っていい。以下の折口信夫の述べるところに(現代の評価がどうであれ)、われわれはもっと驚いていいのではないか。

「なつき」は、狩猟時代の食用のなごりで、脳味噌の名として残つてゐる。「かみなつき」に対してゐ、「しもなつき」が略せられてしも月となり、みなつきも、かうしてなり立つたといふ考へも出来る。すると、なつきは、収穫前に、神の為に山幸を献る式及び占ひともとれる。神に供へる為の山獣の頭がなつきで、 その時期がなつきからなつになつた(と)すれば、五月の猟の原義も辿れる。「なつきの田のいながらに……」の大歌を見ても、さうした式場が、田であつた事が思はれよう。第一回のなつき祭り、即御頭(トウ)祭りが十月頃で、第二回の分が、後専ら行はれたさつきに近いみなつきで、みは敬語、なつがなつき祭りの略だ、と知れる。(「霜及び霜月」全集第十五巻198ページ)

 こんなものを読むにつけ、ちょっと考えつくだけでも、御霊(ごりよう)思想などというものがほんとうはどんなところからやって来たのか知らないが、菅原道真にもっとも関係が深いはずのこの御霊が、ゴリャウとゴラウの音の違いを易々と乗り越えて、片眼の武将・鎌倉権五郎景政のゴロウに引き寄せられたり、曽我兄弟の五郎時致(ときむね)、また佐倉の義民・惣五郎のゴロウに引き寄せられたりと、コトバは思わぬ動き方をするものだとつくづく思う。折口の論は、ふだんわれわれが信じていると思しきことどもがいかに儚くひっくり返るものであるかを、緻密に、まざまざと見せつける。おそらく、いままで作例を挙げた「蝶番」による脱臼的な感覚は、あるいはこんなところに理由を持っているのかも知れない。
 心が自らを求めて対象の周りをぐるぐる回る形から、心を景物に密封した形、心自身を景物にして詠まれた魂にほど近い歌を経て、あすか川のソフィスティケイテッドされた形に至る道筋は、中世にたどり着き、ある部分は地下歌(じげうた)のほうから自らの身を割ってゆく。連歌、そして俳諧へ。
 私の印象に過ぎないが、芭蕉の二句にはその中にミニチュアみたいな姿で、「歌」がかりそめの再生を果たすような姿で保存されている気がする。その、内なる「脱臼」は重厚でたけ高い。歌と異なるのは、歌がまがりなりにも自分自身の心の放出を伴うとすれば、芭蕉句はどんな場合にでも、自らの心でさえ、「底意(そこい)」をもって見つめられている点であろう。いわば俗諦に対する真諦という意味での底意だが、それは芭蕉においてこんなふうな捉えられ方をしている。元禄三年、加生(凡兆)が考えた俳文について、それをほめ、ついては自分にそのアイデアを譲ってはくれまいか、と、まあ今ではとても考えられない、しかしいかにも伝統的な俳諧者らしい持ちかけをしている、その書簡から引く。

憎烏之文(からすをにくむのぶん)御見せ、感吟いたし候(そうろう)。乍去(さりながら)、文章くだくだ敷(しき)所御座候而(て)、しまりかね候様(よう)に相見え候間(あいだ)、先々他見被成(まずまずたけんなさる)まじく候。殊外(ことのほか)よろしき趣向にて御座候間、拙者文(せつしやのぶん)に可致(いたすべく)候。もし又是然(非)と思召(おぼしめし)候はゞ、拙者文御覧被成(ごらんなされ)候而、其上にて又御改可被成(おんあらためなさるべく)候。文の落付所(おちつきどころ)、何を底意に書(かき)たると申事無御座(もうすことござなく)候ては、お(を)どり・くどき・早物語の類に御座候。古人の文章に御心可被付(つけらるべく)候。此文にては烏の伝記に成申(なりもうし)候間、能々(よくよく)御工夫御尤(ごもつとも)に存(ぞんじ)候。(元禄三年九月十三日付『芭蕉書簡集』岩波文庫版)

 ここで言われている「おどり・くどき・早物語」のたぐいに神がいないというわけではない。そのことを、柳田国男や折口を経巡ってきたわれわれはよく知っていると思う。だが少なくとも神とともにいた歌は、俳諧となって神を失い、代わりに底意というメタフィジックを得たのだ。誹諧歌の系譜を引くともいえる初期俳諧の、すさまじいばかりの地口・駄洒落の世界をどう考えたらよいのか。私の見るところ芭蕉は、しかしそれに反し、神とも何とも言いがたい超越的な領域を、鋭敏に検知する器官を確かに具えていた感じだが。


(初出「tab」6号 2007・9・15 )

[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]