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詩、憑依、道徳   ―佐々本果歩詩集『姉妹』について



 このたび由縁あって、佐々本果歩さんの詩集『姉妹』を手にすることになった。ノンブルも目次もない、奥付も「『姉妹』 2007夏 佐々本果歩」とあるだけの、十五篇からなる手作りの詩集だ。
 なぜ「姉妹」なのか、タイトルポエムらしきものも、それを解くキーらしきものも、ざっと見渡すかぎりではなんにもない。ただ、詩集の扉に、手書きで、「姉様、ことりが ことりが にげんとしている」とあって、「姉妹」というテーマがこの詩集にいわば物語外的にかかわる因子であるらしきことが想像される。いうなれば詩集内の語り手(一人称とはかぎらない)、さまよったり傷ついたり戦ったり平らぎを得たりする語り手を「妹」、詩集外にいてそれを俯瞰している(この詩集の頁をめくっていたりする)、絶対的に語らないマイナス人称ともいうべき存在を「姉」、としてもいい。「妹」から見て「姉」は超越者みたいな頭上に感じられていると思う。
 と、まあ、こんなふうに書くと、とんだお門違いだと果歩さんから笑われるかもしれないが、こうでも書かないと話が前に進まないので、がまんしていただく。
 ところでこの詩集の内容を閲するに、ひとりがおこなう精神的な運動量という意味から言って、相当なものがあると思わざるを得ない。文字のボリュームが多いとか表現が激しいとかいうことではない。知性的なところと感覚的なところの、いまはやりの言葉で言えば、脳の総量がもみほぐされるという感じ。ある意味で、私たちは憑依というものがけっして混乱や非・知的なものではないことを知ることになるのである。以下を見られたい。

赤い明かりがとても目障りだといってドアをたたく
かわうそがかわうそのドアをたたき、其の音を聞いてまたかわうそが来て、かわうそがまた別のかわうそのドアをたたき、其の音を聞きつけてまたかわうそがやって来た。赤い明かりをともしているのはどうしてなのか、赤い明かりをともしている者は、それで一体楽しいのかとかわうそとかわうそとかわうそとかわうそとかわうそとかわうそは、話し合った。でもこんな楽しくないことを話しても全然楽しくないからやめようと言って全部のかわうそは家へ帰っていった。
(「かわうそとかわうそとかわうそのはなし」)

 そう、いま憑依と言った。あるいは巫女的な、とは軽々に言うべきではないが(現在、この形容を須(もち)いられ、また自身でもそれを意識しておられる女性詩人はけっこう多いようだが)、巫女的というより神話的な骨格をこの繰り返しの漸増・転回のうちに私などは感じてしまう。ここに見られる、しだいに急迫してゆく感じはあるトランス状態に進入してゆくありさまを示しているが、たんなる感情の放出ではなくひとつの統御された感じをともなっている。つまり韻律的なのである。次に引くのは古事記にみえる歌謡だが、可成り共通する性格があるのではないか。

八千矛(やちほこ)の 神の命は、
八島国 妻求(ま)ぎかねて、
遠遠し 高志(こし)の国に、
賢し女(め)を ありと聞かして、
麗(くは)し女を ありと聞こして、
さ婚(よば)ひに あり立たし、
婚ひに あり通はせ、
大刀が緒も いまだ解かずて、
襲(おすひ)をも いまだ解かね、
嬢子(をとめ)の 寝(な)すや板戸を、
押そぶらひ 吾が立たせれば、
引こづらひ 吾が立たせれば、
青山に 鵺(ぬえ)は鳴きぬ。
さ野つ鳥 雉子(きぎし)は響(とよ)む。
庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く。
うれたくも 鳴くなる鳥か。
この鳥も うち止(や)めこせね。
いしたふや 天馳使(あまはせづかひ)、
事の 語りごとも こをば。
             (歌謡番号二)

 古事記の歌謡は「事の 語りごとも こをば」(ことの次第はこのとおりです)とあるように、貴人の走り使いをする部族、天馳使に託した伝送の形をとっていて、ずいぶん迂遠な表現みたいに見えるが、ほんとうのところは「かわうそとかわうそとかわうそのはなし」における反復と急迫とに同じ構造を有して、あるトランス状態の訪れとともに、語られたか、歌われたかしたものだと考えられる。それが韻律的なのだ。
 あるいはこうも言える。果歩作品の神話性は夢の世界の構造をくぐりぬけてゆくものでもあると。この種の作品は「かわうそ」の詩のほか、「車庫の奥のかみさまの象の夢」「毒のある魚の皮をなめしてつくった反物で一等賞になった女のはなし」「わたしはあのヘアピンカーブのさきっちょの坂ののぼりぐちのところのバス停で待つ」あたりが代表格で、少し異質だが夢の性格が濃厚なものに「剥き目裂き目」「鳥覗き」「右の船 左の船」がある。
 これらはある脈絡というかりそめのかたちをとってはいるが、じつは色んなところから持ってきた「材料」を寄せ集めて出来た「物語」の印象がある。私たち読み手はじつに断絶的にある脈絡から別の脈絡へ連れてゆかれ、引き回され、唐突な終わりをみる。
 「車庫の奥のかみさまの象の夢」で言えば、「わたし」は車庫のところを寝床に貸してもらっているが、そこは危険になってきたのでいられなくなり、「奥に奥にながぼそい」マンションの一室を紹介してもらい、金髪のカナダ人の少年と友達になったりしたが、「仕事を一日やすんだら」かつておなじみであった悪霊に取り憑かれて、白いベッドのうえで点滴で身動きがとれなくなってしまい、少年とも別れなくてはならなくなった。以前に寝床にしていた車庫の奥のところは、「わたし」がいるあいだ、来なかった「悪いおじさん業者」がまた黒い油を捨てに来るようになって、その近くには「死んだ猫たちがつみかさなった」「ネコボタ山」があることがわかった。それから「いろいろなことから逃げる経路として」車庫の奥の細くて暗い道を抜けると、「オレンジのまる電球のあかりできれいな」象の部屋がある。「象がそこにはいて、どんないけないことでもなおしてくれたり/なおせないときには、お話をただふんふんと聞いてくださったりする」。
 これはどんなに支離滅裂に見えようと、深い存在の危機からの救抜の物語なのである。昨今のテレビゲームのイメージもあるが、テレビゲームに収まってしまうメタファーではなく、テレビゲームのイメージを借りた、さらに割れていって世界の岩盤を覗かせるようにひらかれるメタファーとでも言えばよいか。ここから色んな寓意や象徴を読むことができるが、まず言えることは、「象」は当然「かみさま」ではあるが、追放され、さまよい、病気にまでなってしまう「わたし」もまた一柱の、追放され、流浪し、病み傷つく「神」であるということだ。本当に怖ろしいのは、こうした「神」が病み傷つくことによって拡がる心の疫癘だ。人が詩人であるとは、本当はこういう自覚と予知をともなうものなのだ。
 ここで立ち止まって果歩作品を眺めれば、いわばふたつの傾向、流れが見てとれる。ひとつはいままでに引いた作品もそれに含まれる「叙事・神話」性がいちじるしい流れ。もうひとつは、これは「抒情」性とはかぎらないが叙事・神話「以外」の性格を持つ流れ。「あとおとふ」「Blumen」「黄花信仰」「これもまたいつかみた景色」などがそれにあたる。
 このなかで、それが夢の体験のようにどんなに恣(ほしいまま)なものに見えたにせよ、ある構造的な骨格を感知させるのはむろん「叙事・神話」群だが、そのコアの部分のあまやかな果肉は、叙事・神話「以外」の流れ、「抒情」詩とはかぎらないが、いわば「歌謡」のような作品により顕著にみてとれる。
 「書くと悲しみが増すので/書くよりもさりげなく口にするほうがよりよい」「ひらがなはひとを守るためにある」(以上「あとおとふ」)とか、「ひとがするべきことは、ほんとうにあるのか/ひとはしなくてもいいことばかりしていて/するべきことが本当は、なにもないことを知らず/焦りつづけてきた結果/自分自身を追い詰めたの」(「Blumen」)などがその端的な詩句だろう。ここにみられるある種の厳粛な感じはなんだろうか。それは「叙事・神話」的な作品を動機づけるものでもあるけれど、この両者を深い本質としてつらぬく厳粛であまやかな部分をひとことで言い表せば、それは彼女の持つ「道徳」性なのだと私は思う。
 さっき「さまよったり傷ついたり戦ったり平らぎを得たりする語り手」とか「追放され、さまよい、病気にまでなってしまう『わたし』」と書いたが、そこでの勝ち負けや傷つくことや負の時間に投げ込まれることに対して語り手は恐怖するのではない。彼女が真に恐れるのは、深い道徳の無視や欠如、その腐食がもたらすものだ。私たちは、目立たないかたちながら、「従順」という言葉が二か所で記されているのをみとめることができる(「黄花信仰」「これもまたいつかみた景色」)。また、ある作品の末尾に「やくそくやけつえんというもののある世界に戻れないことが/取り返しのつかない、ざいあくのようにおもっています」(「内へ」)という詩行が唐突に置かれているのを見る。
 やや性急に言えば、神話とはこのような喪失感が却って反照させるようにさししめすもの、およびその喪失からの恢復の手立てと密接な関係にある。そういう意味でも、この詩集は「神話」的なのである。また、逆に、「神話」とはたんなる荒唐無稽さとは全く違った、その荒唐無稽さの彼方に、人を律するものを「構造的に」持ったものなのだともいえる。この詩集において「神話」にもとめられているのは、たぶん深い「道徳」性のたてなおし、なのだと思う。それを取り巻く現実は、たとえばこんな感情をともなっているにしても。

揺れるのはそとがわだけではない
揺れるのは存在しているかどうか分からない、そのようなものではない
揺れるのは確かに存在している、内視鏡で見える部分
静かなこととおそろしいこととおだやかなことと残酷なこと
となりの部屋どおしで聞き耳をたてている
いつだってとなりあうことで存在している
         (「野薔薇とアスチルベ」)

こどものころなきながらめをさましても
わたしはひとりやみのなかにいた
あなたがわたしのなまえをそのやさしいこえでよんだとき
いきていてもいいとおもった
じゅうねんごろしのようにわたしのくびをまわたでしめるように
手をはなしてしまってからはいまがたえるとき
             (「Milchigtraum」)

 この喪失感、恐怖感、寂寥感と、ある種の諦念には、私たちの世代として、胸を突かれるものがある。彼女や彼ら、私たちの姪甥にあたるこの世代以下に訪れているかくのごとき現実。世界は、いつの間にこんなふうになってしまったのか。このとき、書物の奥付から物語外的に逃げようとしている大切な小鳥の影がある。佐々本果歩詩集『姉妹』の中の語り手は、巫覡(かんなぎ)の威儀を正し、厳粛な託宣としてそのことを告げんとするかのようである。 


(初出「tab」7号 2007・11・15 )

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