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かくとだに ――私の小倉百首から



  女に始て遣しける
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじなもゆる思ひを  藤原実方


 卒業生会館に立て籠っていたぼくらは、一個小隊ほどの警
官隊によってあっけなく強制排除された。ハンストしていた
連中も、学園の校門のところで座り込みをしていた男女生徒
も、みんないとも簡単にごぼう抜きにされた。皮肉な友人に
言わせれば、あれが機動隊じゃない点が、かわいいものなん
だ、俺たちは、だそうだ。皮肉というよりこれは自嘲という
べきだが。当然、天網の恢々として漏らすところなく、その
ことに関わったすべての者になんらかの仕置が下され、何人
かが学校をやめた。この春に入学したぼくとぼくの同級生の
彼女もそんな退学仲間だった。入学したてのころからすぐ彼
女は上級生と恋仲になり、それも一人二人ではなく、上級生
はおもしろいほどころころと彼女の誘惑にひっかかり、虜に
なった。たしかに童顔で可愛かったけれど、躰はまだ成長途
中を思わせる中学生のそれを越えていない。また尋常でない
おしゃべりで、支離滅裂で、ぼくにはとても魅力的なむすめ
には映らなかったが、上級生としてはそこにある種の嗜好を
感じたらしい。いずれにせよ学校をやめたのだから、上級生
というよりは、今の言葉でいうのなら、彼、といったところ
だろう。ぼくとはまったくうまが合うはずもなく、顔をつき
あわせればいがみあっていた。あるときはぼくの敬愛する先
輩の恋人となっていた彼女によって、その先輩が、見るもむ
ざんに頽れてゆくのを目の当たりにして、がまんできない気
持ちになった。彼女と先輩の下宿で同席し、ののしりあいに
なった結果、決然と席を立って下宿を出ると、彼女は駅まで
ついてきてまたののしりあいとなり、ついには平手打ちの応
酬にまでなった。そのあとすぐ、ぼくが彼女に横恋慕してふ
られたという噂を彼女自身によって立てられた。それまでの
地が割れて轟くような大騒動ののち、退学のみならず、親と
もうまくゆかなくなって家出をしたぼくは、彼女に毀された
先輩のそのまた先輩のいる学生寮を頼って身を寄せたが、し
ばらくすると同じように家出をしてきた彼女がその学生寮に
やって来た。自由を求めて、だという。その筋ではけっこう
大物らしい彼女の母親がそれを聞きつけて、学生寮を機動隊
で包囲し、捜索の手を入れさせようとしたから大騒ぎになっ
た。高校と大学では中に警察を入れることの意味が違う。彼
女の息づかいを最後に聴いたのは、学園騒擾も遠い思い出と
なった、ある秋のこと。彼女は今までと別の元上級生の恋人
になっていた。その彼とぼくとはときたま飲む間柄で、部屋
に泊まらせてもらうこともあった。そのころ彼女とつきあっ
ていたことは知らないではなかったが、ある真夜中、終電を
逃して彼の部屋の戸をノックした。明らかに部屋には人がい
る。何度かノックしてドアに誰かが近づいた気配がしたとき、
だめ! 開けちゃだめ! 絶対に! と息を殺して囁いたの
は、あれは彼女だったのか。ぼくにはぼくに向かって発せら
れた恐ろしい精霊の声に聞こえた。そののち彼の子どもを産
んでからふっと消息が絶えた。彼女はあの日の奇妙に明るい
空の下で、どこまでもおしゃべりで、限度を越えていて、耳
をふさぎたくなるほどやかましかった。それを、恋する乙女
のように誰に向けて訴えつづけていたのか、ぼくには痛いほ
どわかるけれど、でも、彼女とぼくがうまくやってゆけるわ
けがないではないか。



(「tab」11号初出 2008・7月)

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