[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



忘らるゝ ――私の小倉百首から


  忘れられてしまう私の身のことは、何とも思いません。ただあれほど神前に
  お誓いになったあなたのお命が、いかがかと惜しまれてならないのです。
忘らるゝ身をば思はずちかひてし人のいのちのをしくもあるかな  右近


 オオヌキ君と知り合ったのは小学校の二年のときだった。
学校を休みがちだった彼がようやくまいにち登校してくるよ
うになったころだったと思う。彼はほかの誰も履かないよう
なりっぱな革靴で学校に来ていて、それほど裕福でもなさそ
うな彼の家のようすとそれが妙にそぐわなかったことは、お
さな心にもなんとなく感じられたが、そのうちにその革靴が、
彼がすこしびっこを引いてあるくのと関係しているらしいこ
とがわかった。ほかにも、体育の時間に集合場所の運動場へ
彼とふたりで急いでいたとき、彼がふいに泡を吹いて倒れた
ことがあった。痙攣しつつ硬直している彼の躯を引きずって
集合場所までたどり着いたが、小さくて細いその躯でも、こ
ういうときには世界に挟まった異物のようなくろぐろとした
存在感を示すものだと感じた。そんなことがあってもまいに
ち一緒に登校し、下校した。まえに休みがちだったので、オ
オヌキ君はときどき授業についてこれないことがあった。同
級生や上級生の誰彼となく、そんなオオヌキ君を見くだした
りからかったりすることもあったが、私たちふたりはちっと
も気にしなかった。勉強なんかできなくったって、やる気さ
えあれば学級委員をやったってかまわないんだよと、私が下
校時の校門のところで力をこめて言ったのを、また上級生が
聞きつけてあざけりの声をあげたのは、明けてゆく街の遠い
とどろきのようなものであったか。オオヌキ君とはあんまり
遊んじゃいけないと、親にも言われた。彼が足を引いてある
くのはショーニマヒという病気のせいで、あれはうつること
もあるんだからね。そう言われてもかまわずにいっしょに遊
んだ。田んぼや森やひくい丘で、彼がうごきまわれる範囲の
場所で。あるとき小さな神社の境内に迷いこんだ。オオヌキ
君はすこし疲れているようだった。ここでちょっと休んでゆ
こうと、社殿の木のきざはしに腰かけた。もううちに帰るか
いと聞いたら、うんと答えた。送ってってあげようかと言う
と、ううん、だいじょぶと首をふった。私はなんだかかみそ
りの細刃で切られたようなかなしみを覚え、オオヌキ君、き
みのことはぼくがぜったい守るからね、安心してね、と言っ
た。それからしばらくして私の家がにわかに引っ越すことに
なった。となりの市だが電車で行くにはずいぶんまわり道を
しなくてはならない。地元にはすぐ慣れた。新しく通うこと
になった学校から帰ると、まえにいた土地でやっていたよう
に玄関にランドセルを放り出し、新しい野山で夢中で遊んだ。
夏になってある日外から帰ると家には誰もいない。六畳間に
は客用の座卓が出ていて、飲みかけのカルピスの入ったコッ
プが一つ、置かれてあった。やがて母が戻ってきて、私を待
ちくたびれて帰っていったという客の名をつたえた。彼だっ
た。私から完全にその存在の影が消えていた、オオヌキ君が
やって来たのだ。誓約の履行をせまるため、夏のなかをさま
よって。びっこを引く神のように。



(「tab」12号初出 2008・9月)

[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]