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二十世紀ヶ丘の家 ――山本聖子詩集『宇宙の舌』について



 この詩集の著者の山本聖子さんについて、ほんの少ししか存じ上げない。その作品も、人となりも。また、いままでものされてきた詩集ほかのご著書に関しても。といって、この詩集の作者にまったく無関心だったというわけではない。号を追うごとに浩瀚なものになってゆく本誌において、掲載された参加作品のすべてを毎号かならずしも読んでいるとは限らないけれど、目次に山本聖子の名があるときにはかならずその頁を繰って見逃さず読んできたし、いまもそうしている。確実に詩的感興を味わわせてくれる詩人なのだ。
 栞の鈴木比佐雄氏の要を得た解説により、この詩集以前の詩業の大まかなところを想像する、そのもといくらいは頂いた気がしている。単なるリアリズムに堕さない社会性、文明批評的な側面、鋭利なクリティシズム――。そういった色合いから、今度の詩集は大きく舳先を回して「私」的な側面に光を当てたものとなっている、ように見える。だが、あとがきに「(前略)半径の狭いところからの立ちあがりであるぶん、自由に拡散させたり、反射・逆転させてみたりと、さまざまな追いかたはできたと思う。卑近を借りていても、かなり遠いところまでの感触を得られるのではとも、これはわたしなりの科学的な帰納である」とあるように、その一種仮借ない眼光は題材を超えて変わることはない。「私」とは同時に世界であり他者でもあるのだ。
 一読、冷えて、抑圧的で、無関心という荒涼の拡がる「家」の世界がいちめんをおおう気がする。しかしよく見ると、そこにはいろいろな川筋や尾根や繁みのような、主題やエピソードによる変化があって、温もりや涙、息遣い、柔らかな体臭の気配も感じ取ることができる。
 作者の家は祖母・母・作者と「三代つづいて巳年の女が生まれた家」(「スネーク・ハウス」)であり、その作者にも娘があって、「娘は もうすぐ臨月となり/母はわたしの顔もわからない」(「女たちの午後」)という事情を抱えている。こういった女親と娘の関係は、私ども男には簡単には容喙しがたい部分があるけれど、主題としてはそれほど特異なものではない。葛藤も、解決も、あるいはそれが未解決なままだとしても。作者には息子もいるが、彼が登場する詩「脚力」と「足もと」は母子の親和的な対話を描いて、二篇を並べると双生児のようによく似ている。これは「カフカの棲む場所」「ほぼ 滝のように」などもふくめて、集中「母子物」ともいうべき主題で括れる。いっぽう、娘の登場する作品は一概に「母子物」とはいえない気がする。なぜなら、娘は作者の子供というより、めんめんと引き継がれる「女系」の流れのうちに、その存在を帰属させてしまっているからだ。作者にとって、息子だけがディアローグの成り立つ「他者」として、自分と親和的たりうる存在なのではないか。娘には自分や母やその母の面貌が重なってしまうのだ。
 それよりも作者に二重写しになる「わたし」にとってもっとも卑近にして喫緊のことは、「家」とそれを成り立たせている要素の持続不可能感とでも呼ぶべきものの到来の感じであろう。少なくとも作品集で描かれているのを見る限り、家を持続させてゆくためのいっぽうのパートナーたるべき「夫」との関係はうまくいっているようには見えない。バスに乗っていて出会ったキリスト教式葬儀の一団の「不吉」を、夫に「そっと吹きかけた」り(「友引」)、一種のおかしみも感じられる作品(「できもの」)における、夫と妻の関係は次のようなものだが、「できものには痛みも痒みもないが/それがあり薬をぬられることにより 男は/女の前に 後ろ向きに存在する/できものがあることに嬉しくも悲しくもないが/それがあり薬をぬることにより 女は/男の後ろに 前向きに存在するのだ//できもののことは 女にしか分からない」という構図で、夫婦のことが精確に巧みに喩えられる。これらは、冷えて、抑圧的で、無関心という「家」の荒涼の感じの原因が、どうやらこのあたりにあるらしいということを告げているのだが、それでも以前には「たがいに 血のしたたるような/切り口を見せあったことも」(「中落ち」)あり、しかしそれが亢進すると「夫婦の諍いが/お互いの育ちにまで及んでいく夜」(「家族deサーカス」)に至り、恐らく「わたし」の存在の奥底に相手が鋭い痛覚を撃ち込んだりもする。
 作者ご本人は千葉大学を卒業されたと略歴にあるように、秀才と言われるひとなのであろうが、あとがきの冒頭で「理科でつまずいてから、当然の結果として物理・化学で苦戦したので」と、理系大学卒業者らしからぬ言葉である。けれど、このことは作品面でもなかなか抜けられぬトラウマのように、ところどころ化石の破片さながらに露頭している。作品「過去未来」では「一位だった と言ったら/次もがんばれと喜ばれ/また走りたくなった」に始まる悪夢のようなドッグレースの果て「六位だった と言ったら/もう何も返ってこない//走らなかった とは/どうしても言えなくて」と立ち尽くす。「当然のように がんばれと/無理な課題を与えられ/気がつくともう曲がっている」(「アイス・アリーナ」)、というこれは、学齢期にある(あった)自分の子供たちにも当てはまることであろう。また、一九五三年生まれとあるから私と同級と知った次第だが、これもあとがきで「成績という呪縛を越えた今」と書かれているのを見て、そういう「今」がこの齢にして初めてあるものかと、少し驚いた。それほど、「今」は作者の前に「かくも長き不在」のよみがえりをまざまざと現成(げんじょう)させているのだ。
 そんな「今」はどんな形で「わたし」を訪れているのか。
 「〈わたしを連れていって〉/ひんやりと差し延べられたハーネスは/触れたとき初めて/自分が迷子だとわかる」「〈わたしをそっとしておいて〉/待たずにいれば/水の底にも/思いがけず香るものがある/闇の花 裂けて」(「『盲導犬*』からのシンメトリー」:*印は「唐十郎の戯曲」という注記あり)における、前者の連の「ハーネス」を差し延べる者は少なくとも夫ではありえないし、後者の連の五行は危険なまでに暗く、美しい。
 「ラクダを立たせるとき/足を蹴るのだという」に始まる「足を蹴る」において、ラクダの歩みを思わせるようなゆったりとしたリズムを持つ行から連を追って、次のスタンザに目が留まる。「蹴るものと蹴られるものとが/オアシスで同じ水を飲む/やせた木陰でそっと足は折りたたまれていき/つぎの痛みを 待つ かたちになる」。足を折りたたむことに、たとえば祈りの姿勢に通じるひめやかさがありはしないか、「一つ家」の譬喩を大きく超えたものとして。
 この「痛み」は物理的な痛みというより、心の痛みという側面で、福耳を持つ妹がモチーフの作品「雨期」に接続してゆくものであろう。「いじわるしても/ほそい手を/水鉄砲のかたちにして/邪気なく撃つ/まねをするだけ//やわらかい武器ほど あとが痛い/じわじわと効いて いまも痛い」。
 この邪気のなさは何でもかでもひとにやってしまう奇妙な「隣人D」のものでもある。「その家がどんどん身軽になり 小さくなり/ボンネットバスのように」なって、「何かをもらったひとが それを/少しでも重く感じたと知ると バスは/かすかに熱をおび ふいと姿をかくしてしまう/わたしの乗るあおいすりガラスのバスと/明け方 すれ違うことがある」(「隣人D」)というこれは、本来詩が因ってきたるところの貴い「自由」のありかを指し示すものだ。
 こういったひめやかさの影たちが集合する場所が「二十世紀ヶ丘戸山町一五〇番地」である。ある春の日にそこに行くことを「わたし」は想像する。「そんな日にそんな家を訪ねると/まだ父の名の表札の掛かった/掛かったままの門扉に触れた瞬間/果実のように待ちつづけていたものたちが/ほう と見かわすのがわかる」(「二十世紀ヶ丘戸山町一五〇番地」)。ここは「わたし」だけの桃花源であり、彼岸でもある場所だ。ここにあったはずの、「カフカの棲む場所」なんかではない「家」が、「わたし」におずおずと両手を広げる。この詩やここに挙げてきた四篇の詩の背後で、倍音のように鳴っている深い慟哭のひびきに、われわれもまた粛然と耳を傾けるべきなのではないか。
 その他に、表題詩と思しき「つめたい舌」のほか、さいごまで面白い寓話のような「The tongue」、まるで微分かゼノンの逆説みたいな「Gift」など、実に巧いものだという感想を付け加えたい。



                       

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