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あらざらむ ――私の小倉百首から



  心ちれいならず侍ける比(ころ)、人のもとにつかはしける
あらざらむ此のよの外の思出(おもひで)に今ひとたびのあふ事もがな  和泉式部

 彼女の場合、奔放というよりはめちゃくちゃと言ったほう
がよかった。なによりも酒ぐせがわるかった。仕事仲間には
女もいたが、その誰とも犬猿の仲で、男と大勢で飲むことが
多かった。彼女のことをめちゃくちゃと言ったが、深夜など
に長時間のあいだ、根をつめておこなわれる稼ぎが心身をす
り減らすことは、なまなかの勤め人の比ではなかったので、
エネルギー保存の法則にしたがって、発散される酒席の一種
のもの凄さは男女ともに半端どころの話ではなかった。男女
ともに煙突のようにたばこを吸った。仕事のさいちゅうに飲
むことは決してなかったが、しょっちゅう二日酔いで出勤し
てくるやつは当たり前にいた。彼女など、出勤してから初め
てストッキングの片方が脱げていたのに気づくことがあった
ほどだという。いつもジーパン姿の彼女であったのが、どう
いう具合だったのか。みんなで行くどの店のランチにもけち
をつけた。クライアントの担当社員に何かを言うときには、
いつも紙でこしらえたお面のような切り口上だった。彼女は
結婚したこともあったが、相手とは死別して子もなく、自分
一人養う分を稼ぐだけでよかった。仕事で彼女と組むことも
しばしばだった。あるとき現場で使う用語用字集を、持って
いない彼女に貸したことがあって、貸したまま忘れていた。
同じ職場で仕事がはねたあと、みんなが集まる溜まり場へ彼
女が行こうというので行った。例によってグラスと罵声と嬌
声が飛び交う坩堝と化したのだが、そのとき突然彼女が脱ぎ
だした。たちまち裸になった上半身をあっけにとられて見た
のだけれど、痩せてうすい胸といたましい傷のようなあばら
骨の影がそこにあった。誰かがインスタントカメラでそれを
撮ったことから、急に潮の引くように座が冷めていった。気
がつくと、もう服を着た彼女がそっぽを向き、男のような苦
い顔をしてグラスを舐めている。このときのことは盛大な尾
ひれがついて武勲話のように鳴り響いた。意外にも女たちは
彼女を責めるより、そこにいた男たちを軽蔑のまなざしで見
た。私も例外ではない。それから何年もたち、私も職場を変
え、結婚もしてから風の噂に彼女のことを聞いた。郷里に帰
ったのだという。それは却って幸福なことではなかったか、
と思っていたら話にはその次があって、医者からの、病気の
養生は国元でしたら、との忠告に従ったのだという。またさ
くらが咲いたのだからそろそろ一年になると。あの溜まり場
のことがあってから、数か月後に彼女が返してくれた用語用
字集を取り出してみる。一葉の写真が挟まっていて、上半身
あかはだかの彼女がこちらを見ている。草紙の絵の奪衣婆に
衣をはぎとられた童女のような。細い川を、ここから先はひ
とりで渡る子どもみたいに、放心して。写真の中で鳥になっ
て彼女はうたうのだ。ねえ、なつかしいわ。ちゃんとわたし
のほうを見て。わたしはここにいたのよ。もっとわたしのこ
とを見て。わたしのことをわすれないで。おねがい、わたし
をわすれないで。



(「tab」13号より)

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