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或る巫性への手紙――福島敦子詩集『永遠さん』について



だいぶ遅くなりましたが、きょう一気にお詩集『永遠さん』を読み切りました。装丁
上はツカの薄い仕上がりですが、文字量はけっこうボリュームがあり、内容とも相
俟って読み応えがありました。
 一読、作者はいわば「永遠を病んでいる」とも言えます。何につけても、いまこの
一瞬の「現在」がその有限性を失い、無限の空の青(これは繰り返されるイマージュ
です)のほうへ集束し、あるいは発散して留まるところを知らない。華厳経の世界の
ように、一瞬のうちに永遠を見、その永遠とは針の先の一点のような瞬間のほかでは
ない。
 よく耐えてこられたと思います。ふつうこのような世界に落下すれば、精神に大き
な断裂が走るところまで行くでしょう。それをまぬかれているのは、この永遠病がひ
とつの統御を受けた別の半面を持っているからだと思います。
 詩集の一作品のタイトルに「永遠狂い」というのがありますが、作者はこれを病と
見ているかのようです。しかし、この「狂う」という発現にはもうひとつ、たとえば
謡曲「隅田川」における女物狂いが、「面白う狂うて見せよ」と渡し守の男に言われ
るがごとき、神おろしや芸能の側面も存在するのは確かです。福島さんはそういう素
質を持っていて、またそのことを明瞭に自覚もされている。
 この詩集の中では小品に属しますが、「婚姻」という詩があって、そこでこんなこ
とが語られています。「あなたとも自分自身とも/婚姻しそこなったわたしは漂うば
かりだ/空の下を/草になったり/流木になったり/貝になったり/猫になったり/
建物になったり/なんでもいい/何にでもなれる/どこにでもわたしがいる」(全
行)。この「何にでもなれる」というのは、あらゆる区別というもの、空間や時間の
細胞膜が溶解してしまう、またひとつの「永遠」性と言っていいものです。
 そしてこれの別の発現の形として、ランボーの初期のソネット作品「母音」のよう
な世界が出現する。以下は「カガヤククラゲ」から。「ち、ち、ち、と野鳥が鳴くと
黄色いリボンが空中に浮かぶ」「紫色を見るとキウイフルーツの味がしてきて/黄緑
色を見るとバナナの味がした」「Wの音楽を聴いていると/眼を閉じているのに眩し
くて虹が架かってゆく」。これらを共感覚と言えば分かったようなことになってしま
いますが、この圧倒的な現前には目を瞠るものがあります。
 これが単なる知覚に留まるなら話はおだやかですが、これが「輪っか/たぽん」の
ような現れになると、どうであるか。二部構成になっているこの作品の前者「輪っ
か」では、「あなたの口からこぼれていた/金色の輪っか」が忘れられないという。
その輪っかは「わたし」を包み、金や虹色に輝き、「わたし」を守護していてその中
でじぶんは安心していられる。いっぽう後者「たぽん」ではこんな具合です。「あな
たが何を言ったのかは覚えていない/聞いたひとつひとつの言葉や その響き より
も/忘れられないのはあなたの口からこぼれていた/真っ黒なすす」。つまり、観念
や意味や理解がそのまま知覚となって、作者を襲うかのようです。
 おそらく、福島さんは無意識のうちにでも、これらの感覚や訪れを統御するすべを
身につけざるを得なかったのではないかと思います。いままで挙げた作品は比較的
しっかりとした形象をともないますが、詩集のさいごのほうになってくると、すでに
形象には拘らなくなったような傾きが見られます。
「わたしは石でした、木でした、風でありましたん/(でも香りではなかったよな気
がする、だから今度はね/おひさまの暖かい香り土の沸き上がる香り森のむせる香り
潮の切ない香りオレン/ジのはじけ飛ぶ香り何でもいいや何にでもなってみるウツツ
であってもマボロシであってももう飽きちゃったんだ見つめることに//ムカシ い
い香りのほうに反応したよ眼も耳もなかった頃/言葉なんてなかったずっとずっと
前」(「悲鳴の先の」)。
 いみじくも福島さんは自分のこの資質を「巫性」と呼んでいますが、現代詩よりも
深いところにある地層から発して、さらに遠く高いところを目指すこの志向性にとっ
て、詩=形象は現世における仮の姿にすぎないような気もします。信仰なきこの時
代、この「巫性」は日常生活を送るうえで「もてあましもの」となっている嫌いがあ
りますが、福島さんに期待したいことはこの「巫性」が鍛えられて、さらに高い霊性
を持つところまで行ってほしいということ。そこからの報告は、いまを暮らすわれわ
れにとって、ひとつの希望の形に連なるものだと確信しています。


(ミッドナイトプレスSNS「なにぬねの?」にアップ)



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