[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



蕪村南画



 与謝蕪村と伊藤若冲が、ほぼ同年の生まれであるという事実は面白い。後生の眼か
らすれば、あくまで印象であるが、この両者、なんとなく由縁が薄いように思えるか
らだ。だがいっぽうは浪花は淀川沿い・毛馬の出、かたや京・錦小路の大店の跡取り
息子、とその環境地誌は意外に近いものがある。かたいっぽうは俳諧師と絵師の二足
の草鞋、もうかたほうは若いころからの画事の習得怠りなきの限度を越えて、四十と
いう歳には青物屋の家督を弟に譲ってしまう酔狂さ、というように、いわゆる狩野派
土佐派の画業一本槍の常識的な絵のセンセイたちとはその質を異にしているといわざ
るを得ない。
 これはそのころどの分野いずれもシロウトが幅を利かせていた証拠、というより
は、絵と言語、あるいは趣味と専門の閾が或る高さのうちに融通し合う、学際的とさ
えいえる時代の空気の中でこそ可能だった事実を指し示しているのではないか。同時
代の京には円山応挙などもいたが、応挙も若冲も蕪村も、世界的な博物学的関心の高
まりの中で、ともに長崎に将来された沈南蘋(しんなんぴん)、いわゆる南蘋派の画
法をかなり深く学んでいるのである。写真その他の複写ツールのなかった時代、採集
された生物非生物の視覚的な記録として写実画は欠かせないものであり、そんな一大
思潮のうちに精密刻薄な着色画法の南蘋風は、進取の気に富んだ絵を志す者の多くが
学ぶ画風であったらしい。
 ここからは蕪村一人の話になってゆく。若冲は宋元画を学んで臨模すること千本に
及んだというが、蕪村もいま述べた南蘋風を始め、南宋元画、北宋の米?(べいふ
つ)や王淑明の山水図、仏画、芥子園画伝ほか、あらゆる画法を学び試みている。絵
師としてはこれらを研鑽刻苦することは当然のたしなみであろうが、遺されたエ
チュードというにはあまりに気魄のこもったあれらの作群において、蕪村は他に擢ん
でてひたすらに貪欲といえる。 蕪村の修業時代が終わると見られるのは、晩いよう
ではあるが、俳諧のほうで夜半亭二世を継いだ五十五の年がひとつの区切りと、私は
判断する。若いころの十五年以上に及んだ関東遊歴、京を拠点に、四十歳前後の丹後
時代と五十代初めの二年間の讃岐時代が、象嵌された時間のように間に挟まり、そう
したこもごもののちに、京は四条烏丸東入ル町に居を定めた晩年の大成時代がやって
来るのである。蕪村書簡のそれぞれの文頭近くに「拙老無為相過候」とか「拙老無異
罷有候」「愚老無障加馬齢候」といったような文言のうち続く、明和から安永にいた
る駘蕩とした京師の日々がそこには見える。
 この駘蕩たる日々の感じは、俳諧師としての蕪村にいちじるしい特徴と言えるので
はないか。次に引く吟にその俤を見ることができる。


遅き日のつもりて遠きむかしかな
橋なくて日暮んとする春の水
夏山や京尽し飛鷺ひとつ
雨と成恋はしらじな雲の峯
月天心貧しき町を通りけり
瀬田降て志賀の夕日や江鮭(あめのうを)
なには女や京を寒がる御忌詣
うづみ火や終には煮る鍋のもの


 俳人蕪村の全身からいえばほんの爪の先ほどにも当らないような僅かな量の作例に
過ぎないが、それでも彼がどんな町に暮らし、季節のいかなる空気を感じていたか、
特有の柔軟な視線でありありと描き出してみせていることが分かる。
 ところで、画人蕪村が池大雅と競作した「十便十宜帖」は、「十宜帖」のほうを蕪
村が担当しているけれど、後生の田能村竹田はここで大雅と蕪村について「大雅は正
にして譎(けつ)ならず、春星は譎にして正ならず」と評したという。考えるに、正
とは理に適い本道を行くもの、譎とは奇異にして枝道を行くもの、というほどの意味
であろう。ついでに言うが、竹田はここで蕪村のことを難じているわけではない。ま
た、彼は蕪村画について「戦筆」という形容をもちいている。文字どおりに取れば、
まさにおののく筆致ということになろうか。俳諧における洛人蕪村とは随分色合いが
ことなるようである。
 蕪村の画の世界に入るにさいし、それこそいささか「譎」なるおもむきをまぬかれ
ないが、蕪村六十五歳、安永九年(一七八〇)の作に「寒山拾得図・閭大使図」、翌
天明元年(一七八一)の六十六歳時の作に、同じような主題でまたひとつの「寒山拾
得図」がある。両者ともに共通する、遠近感がふと狂うような構図の取り方、膚や衣
服の皺に見る執拗な描法、寒山拾得らの面貌の奇怪さ、醜さなど、彼らの大笑する表
情とも相俟って、夢に出てくるような一種の狂気を感じさせる。「武陵桃源図」にお
ける、漁夫や小国寡民たちを描く視線にも共通するものがあるが、これこそ竹田の言
う「戦筆」によるところのものにほかならない。これらの一方で美しいカラリングに
よる軽妙な俳画を多数制しているというのも不思議なはなしだが、これらのクリエー
ションが同じく晩年に属する時期である点が注目される。よくよく思うにこの晩年の
「戦筆」には、一種幽邃かつ玄妙なものがあるようだ。
 だがこれに類したことで言えば、蕪村と限らぬ日本の南画、いや、いわゆる唐土よ
り伝来した中古以来の人物画を考えてみると、むろん美人図や高貴な人物の肖像頂相
は数多かれども、許由・巣父、樵夫・猟夫、羅漢図、達磨・慧可ほか禅僧のポート
レート群、布袋や寿老人など、いわゆる「美しくない」肖像は引きも切らず、枚挙す
るにいとまがない。特に羅漢や禅僧のそれなど、聖性や、さらにいえば霊性は、いち
どこの「醜」の界面をくぐらなければかちえないと言わんばかりの気配さえあるよう
だ。当然他の日本の画家でもそれは引き継がれているわけで、雪舟や雪村、等伯や狩
野家の代々、極端に言えば岩佐又兵衛などにまで、綿々とつづいた一本の系をなして
いる。蕪村の同時代人としては、曽我蕭白にそのもっとも先鋭な表現が見られるであ
ろう。
 この、いわば「狂」の精神は、舶載された精神的中国のうちでも、なかんずく老荘
に通じる思想であり、日本における南画の展開に深く関わっているところの、一面
「遊」の精神としても現象している。奇怪な相貌にも峨々たる山塊にも、桃の花びら
の流れる瀬を跋渉する遊子にも、あるいは闇夜に舟を出してわずかな火の明かりです
などりをする漁夫の営みにも、バッソ・コンティヌオのように絶えず通奏されてひび
く精神と言えよう。蕪村の他の、必ずしも戦筆とはいえないような、伸びやかで繊細
な描線による作物にもこの狂と遊のこころは殷々と鳴っていて、私たちは却ってここ
から文人蕪村のものする俳句の、ある見方の変更を迫られることになるような気さえ
する。ひたすら繊細華麗なだけではないのだ。
 蕪村絵画に分け入ってゆくと、いくつもの層、いくつもの系が複雑多岐に絡まり
合ってなかなか整理することがむつかしいが、やはり時系列で追ってゆくとおのずと
現れてくるコンテクストの綾を認めざるを得ない。
 そのもっとも初期に属する作物に、「陶淵明・山水図」「俳仙群会図」「静舞図」
「漁夫図」などが挙げられる。狩野派土佐派のまねびもうかがえるこれらのなかで、
「陶淵明・山水図」と「漁夫図」が、蕪村二十代終わりの結城・下館時代の作で最初
期のものであることが判っており、「俳仙群会図」は蕪村みずから元文年間(蕪村二
十二、三歳)に成ると称するも存疑とされ、「静舞図」と同じ四十歳前後の丹後時代
の作に擬せられている(私は丹後時代も晩成型の蕪村にして未だ初期に属するものと
考えている)。これらはいずれも蕪村の描法、その伸びやかさもおののきも、完成期
の確定された描き方とは当然に異なって、若書きの域をいくらも出ていない弱さがあ
るが、いっぽうで「静舞図」における画中の人物の装束、とくに袴の鋭角的な皺の表
現や、「漁夫図」における漁夫が背負った笠の神経質なほど緻密な編み目、また中国
風の服のこれまた鋭角的な衣紋線の克明さに、後年の戦筆の秘密を見ぬわけにゆかな
い。まじめに励んでいるのだが、その一見野暮ったいまでの集中に連続してまぼろし
のように、不意に異貌や深淵を覗かせてしまう、そんな怖さが若い蕪村に透けて見え
ると言ったらいいのか。これらは「四明」号時代。
 次に挙げられるのは、壮年期の四十代から五十代にかけて、中国の精神、思想、文
化を貪欲に追求、吸収、表現していった折の作物で、これ以降からは一口で代表させ
ることがむつかしいが、「野馬図屏風」「蘇鉄図屏風」「闇夜漁舟図」「草廬三顧・
蕭何追韓信図」……、けれどここから「十宜帖」やいくつか制作された「四季山水
図」を加えるようになってゆくと、もうすでに南画家蕪村は本格である。先にも触れ
た「十便十宜帖」では、「譎」ならざる大雅と「正」ならざる蕪村の画を見比べる
に、確かに「十便図」の大雅は、南画という概念を前にしたわれわれがイメージする
とおりの飄逸さとしなやかさを有するのに対し、(実物は小さく、また作品保護のた
めに照明を暗くしてあったので、拡大されたものをよく見たうえでのことだが)「十
宜帖」における蕪村は、樹木の葉のひとつひとつの動きや、屋根とか石垣の稠密な表
現など、飄逸ながらもそこにすでにして不穏におののくものがあるのが認められる。
 このいっぽう、中国絵画の先行作品研究もそろそろ完成期に近づいていた時期でも
ある。安永三年(一七七四)、蕪村五十八歳時の作品で、いくつか存在する「四季山
水図」のうちの一つにつき、こんな証言もある。「春景の桜は院体山水風であり、夏
景の岩の粗放な皴(しゅん)は浙派的であり、秋景の山々、樹木は文徴明風である。
これらの諸要素を繊細な感覚で統御し、その上春景・夏景の人物に見られるような俳
画風の洒脱さを加えている所に、彼の才能の湧出を感じさせる」(昭和五十八年『没
後二百年――与謝蕪村展』図録解説より)。中国絵画の研究期はすなわち模倣期と考
えることもできるが、その完成はいっそうの沈潜・深化の契機とも見なせるわけで、
先の解説子もつづけて「先行諸絵画を研究、消化し、来たるべき謝寅(しゃいん)時
代を迎える階梯とも言うべき作品であろう」とも書いている。これらはおもに「春
星」を号していた時代である。
 蕪村六十歳代にかかる、いわば前・晩年期は、彩色作品が「傑作の森」を成すかの
ようだ。このころから「謝寅」号であるが、重文にも指定されている「四季山水図」
(明和九年本)をはじめ、「寒林孤亭図」「寒林野行図」「柳下渡渓図」「春塘午景
図」「田家春景図」「武陵桃源図」「牧人帯月図」「漁夫帰雨図」など、峻険なまで
に克明、典雅、陰翳深く彫り出された世界は、それだけでひとつのメタフィジックの
分出たるにふさわしい形象と言える。たとえばそこに出てくる人物たちの面貌に、い
わゆる美しいとされる要素はひとつもなく、背後の草むらの無数の葉はふるえ、山塊
はうねるように立ち上がっていて、すべてに或る強い歪力がはたらいているようで
あっても、何かしら犯しがたく高いものの漲りが感じられるのだ。あるいはそれは、
紙本墨画淡彩の「鳶鴉図」の峻烈な青墨に見られる一種の非人間的な、それゆえの高
さに通ずるものかも知れない。言うなれば先にも述べた、羅漢や禅僧たちの狂や聖性
にも通じ、隠逸につながる陶潜(蕪村画中の詩は袁中郎)の遊や老子荘子の綺想、そ
れからさらに遡行して、孔丘の思想などのはるかな淵源もそこにあるとされる(白川
静氏による)、巫祝の霊性にまで至り着くものではないか。そう私はひそかに考えて
いる。研究者によっては道教の影響を見る向きもあるようだけれども。
 蕪村の一筋縄で行かないところはここで終わりではないということである。彼には
さらにもう一つ、「竹渓訪隠図」「竹林茅屋・柳蔭騎路図屏風」「秋景山水図」「山
野行楽図屏風」などの、明るくやわらかい光に満ちた奥行きを持つ作物があり、画中
の人物は装束髪型等からいって中国のそれにほかならないけれど、これは明らかに和
様の四季山水、たとえば洛北の風景のようなものに通うのではないのか。そこで描か
れている人物ひとつをとっても、前述のたとえば「田家春景図」の農夫の姿と、たと
えば「竹渓訪隠図」とでは、輪郭線や衣紋線のしだいに略され、減じられてゆくかた
むきが認められるし、顔の表情も後者ではほとんど一筆書きに近い簡略さになってく
る。洛北の風景と言ったが、これは中国という理想型が日本の洛北の風景に食い込ん
できているという意味で、画を前にして私たちは、ここがどこなのか、中国か日本な
のか、にわかには判じがたくなっている自分に気づくはずである(思えば明和から安
永、天明に至る江戸の一時期、前回も言ったが、京・大坂ではたしかに一種の仏国が
成立していたのだ)。
 これを竿頭一歩あゆましめると、おそらくは蕪村六十代後半の、後・晩年期におけ
る陸続とした「傑作の森」に至る。蕪村南画の大成たる「王子猷訪戴安道図」「叡嶽
図」「峨眉露頂図巻」「夜色楼台図」*「富嶽列松図」などである。ここに「鳶鴉
図」を含めることもできるだろう。ここに見られる減筆の傾向は、「減筆」が自体中
国画法上の語であるとおり、一概に和様に流れたものとも言いきれない。しかし減筆
とは言い条、本家の梁楷などにおける院体流の鋭いまでの洗練とは掛け違って、その
あくまでも圭角のない流線は(「圭角のない」こと自体を窮理的にまで追求した梁楷
などと異なり)、先に引いた俳諧発句の、いかにも蕪村風の駘蕩につながるような気
がする。しかし私がここに、単に日本的なという形容を冠したくないのは、描かれて
いる線や面や筆致を背後から搏動させているものに、前・晩年期とはまた違った冷え
びえと奥深いメタフィジックを感じるからだ。
 「富嶽列松図」以外はすべて夜か闇の世界であるこれらは、そこで使用されている
墨という素材のせいでもあるようだが、全部が水気に充ち、水の匂いがする。露岩
も、霏々として降る雪や雨も、河も月も月光に積んだ雪も、またそれらに慣れた目に
は鮮烈なばかりの富士と松の緑の晴天にも、水の気配と水の匂いがする。いかにも謝
寅様であり蕪村画を代表するこれらは、太い輪郭線でためらいの迹など微塵も見せる
ことなく描き延ばされ、描き広げられてゆくうちに、どこかで中国というイデーと日
本という現実が巴形に一つになってしまっている。どちらがどちらであるとも言えな
いのだ。これは蕪村自身にも自覚されていたことのようで、著名なものだが、このあ
たりに触れた彼の書簡を引用する。


白せん子画御さいそくのよし、則(すなはち)左之通遣(つかはし)申候。
  かけ物七枚
  よせ張物十枚
右いづれも尋常の物にては無之(これなく)候。はいかい物之草画、凡(およそ)海
内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候。下値(げじき)に御ひさぎ被下候(くだされそうろ
う)儀は御容赦可被下(ごようしゃくださるべく)候。他人には申さぬ事に候。貴子
ゆへ内意かくさず候。
                         (安永五年八月十一日付几董 宛)


 この場合の「はいかい物之草画」とは、彼の俳画を指すが、この書簡はそれまで刻
苦してきた正統の南画の精神が晩年のある一時期、ある一点から大挙して俳画になだ
れ込み、連続してゆくものとして現前してきた事情を、却ってよくうかがわせる史料
だと言える。また、「はいかい物之草画、凡海内に並ぶ者覚無之候」とは、自負をあ
らわしている言葉であると同時に、じぶんが実に奇妙な、世界のどこでもないような
場所に踏み出してしまったことへの、恍惚とほとんど表裏の不安の表明とも読める。
だからいっそう安値で売ってもらっては困る、と画の仲介をしたらしい弟子の几董に
注文をつけているのである。ほかならぬあなただからこんなことを言うのだけれど
ね、と。
 蕪村の晩年、大量、と言ってよいほどものされた俳画の数々の、いちいちの「句
意」とも呼ぶべきものは、分かるものもあるし、判じがたいものも多くある。だが蕪
村の艶麗駘蕩とした発句「だけ」の世界に比して、画と句と、それから外せない要素
としての書、これらが高速で交錯する俳画には、彼の敬慕する芭蕉に匹敵する高さが
あるのではないか。
 たとえば「紫陽花にほととぎす図」などは、構図上は左下隅の比較的粗く描かれた
紫陽花の塊と、右上隅の比較的精しく描かれた時鳥が対角線状に対峙していて、大き
く取られた空間に飛ぶ時鳥の少し下あたりに「岩くらの狂女恋せよほとゝぎ寸」と、
三行に分ち書きされた句と署名落款が認められる。句について言うと、京の岩倉はそ
この大雲寺の滝が往古から気のふれた人の治療場として有名で、そういう気を持つ女
と、声のみがほんの時たま聴かれるだけの、幻鳥としての時鳥との凄艶な取り合わせ
といえる。が、気のふれた女ともうひとつ、徒然草の筋(第百七段)も覗くのではな
いか。すなわち、宮中の青女房たちが男の評定をしていて、時鳥の声を聴いたことが
あるかと聞かれて「数ならぬ身には聞いたこともございません」と答えた男は駄目
で、「岩倉のあたりでたしか聴いた覚えがあるような」と答えた殿方に軍配が上が
る、というもの。いずれにしても句の裏には恋の筋と一種のほの暗がりが感じられ
る。こうして読み筋はいろいろだが、これが俳画になってくると、狂女の姿は能のよ
うにひとむらの紫陽花に隠れ、声だけの時鳥は俳画の中でのみ姿を現すのを許されて
暗夜を飛翔する。時鳥は狂女かも知れぬ。イデーは一挙に紙幅の中に実現するのだ。
かくて俳画では、略すこととイデーの実現とは切り離せない。
 さいごに、彼の俳画に「壬生狂言図」「盆踊図」「万歳図」などがあるが、これは
南画における松柏や梅の瑞祥的表現に同じく、非人間的な崇高さを持つ予祝の性格が
あって、後の鉄斎などにその集中的な開花を見ることができることを付け加えておき
たい。


*「夜色楼台図」は最近国宝の指定を受けた。


   (佐藤幹夫個人編集誌「飢餓陣営」34号 2009・March)



[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]