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ARCH 5

         アカミトリ、にっぽん語の思い出と、赫々たる道楽文芸のために、
          二〇〇五年十一月



黒糖論 一二八首



黒糖のかたまりのあるポケットに水野優子の髪の毛のすこし

娶るとはあやふき遊びゆらゆらと人なき舟の立てゐる波紋

陶器抱え日ざかりを歩む偶然も必然にせむとや激しき噴水

おほかたは詩歌放擲したる友の晴れやかにして明るき賀状

一分を成すまでの針の回転か ダンディズムとは秒針に過ぎぬ

人々の自己愛は臭ふものなれば即座に捨つる書簡などあり

椎茸の蔕(へた)切り捨てればヒト科よりやや巨きなる女族の唇

温かき緑の呼気の少年の若き谷なればペルソナも脱ぐ

籠もるべき苫屋探してしばらくの桜吹雪のからだの静か

息を吐くわづかの空の薄青の映る頬なればあたたかく吸ふ

しどけなき姿などなき初雪のしばらくはとけぬ葦のからまり

蜜の色したる肌(はだへ)のわき腹に硬質ガラスケースごと「愛」

炎のごと曇りゆらめき立つままにただ森にわれを向かはすガラス

戦(いくさ)の報また婚礼の数々の報 インスタントの味噌汁の湯量

愛ならぬ数々の手のまた足の動きの末のショスタコーヴィチ

ゆきずりの香ばしき体ふるふると例へばパン・ド・カンパーニュして

皺の寄りし指の宝玉冷たきを倫理の薄き箍(たが)と思ひつ

カシオペイアならざればわれもペルセウスにあらぬ夕べの焼酎を酌む

男には女、と添える考えのさびしく皇居のみどり迂回す

柘榴、百合 まだ見ぬしぐさ想像する青さ失ひしまま携えて

まつろはぬ者なれば歌の韻律も遠き祭りの音として聞く

  春雨の気配さえせぬはじまりに似つかわし鋏(はさみ)研ぎゐたること

夜ふかくイギリスのバター濃き菓子を噛みくだくのみの自我もあるべし

おそらくは再会せぬまま別々の棺へと向かふからだ幾つか

動物のいくつかの種に惹かれたる心かと気づき直せば壮年

相田みつを常勝にして一癖も二癖もある友のトイレにも読む

イエーツもキーツも縁のなき人の御歌を褒めねばならぬ日もある

  かたまりにせぬまま持ちてゐる雪を守るでもなく捨てるでもなく

愛も孤独も詩歌に読むを好まねば模造銃撫でて宥(なだ)める詩心

所詮世間所詮日本の価値観と思へども旨き寿司で饗せよ

とんかつの無性に喰ひたき元旦のどこも休みのとんかつ屋ども

  食のはなしでわづかに繋がる人多く食友といつか呼びはじめをり

遠ければ被害は文字と映像の乱舞に過ぎず青し 野沢菜

ただ眼(まなこ)逸らすばかりとバルト言ふ批評はなべて音もなき雪

幼児対象性犯罪のデータ載る紙面の向かふはありてよし 窓外に

ちまちまとしたる選歌といふべきを 善良なるシミンこぞりて澱む

残り雪踏む音ほどの手ごたへのなき人らよりの年賀数百

  年頭に思ふことなし十数年読み続けたる書のページ繰る

蘇我屠りし記念のごとき名を持てる屠蘇飲むべきや飲まざるべきや

しらしらと小枝より氷降りやまず別れ告げしはひとりならずを

死に遅るてふ感慨は無縁なれど生き遅るとは日々のつぶやき

待ちゐたる蝕甚(しよくじん)の時つまびらかに名知らぬ草をもう折り取らず

しかすがに暗きままなる在りやうを化粧するべく宴に宴

いつはりて過ぎ越して来し時期やあるなければこその肉林もあり

  肉の匂ひやうやくにして嗅ぎ分ける成熟得たれば無視す女群は

父なほも不在のままにパパら即位 もとより家族虚構とはいへ

こころざしに違ふことのみ満ち満ちてしかすがに偉大なる月の宵

天命を知るべき頃の桃の園為さざるも為すもよき命を持ち

歌にむかふ心には山河あかるくて冬枯れの原をそのままに見る

病院のうら並ぶ木々のほそぼそと枯葉落とさぬままの生きざま

仏教美術ためつすがめつ見て居れば断想をつなぐばかりの我よ

後鳥羽院綸旨の筆の跡を追ひ追ひてその後のわれも生くるべし

ファーストキッチンしかない時と場もありて飲食煌々たる十余分

遠く鳴る潮にも似たる無理解の聞こえる日なり聞き続けゐる

年明けぬうちに花咲く白梅の香の圏域にも留まりゐたし

流れ去るものにあらざる時間ありて切り過ぎぬやうに盛り付ける豆腐

黒纏ふこと減りゆくは老いにして花盛りなる森のひと花

後日談ロレンスにさへ索漠とありてひとりの狂咲きやまず

なに成して恙無(つつがな)き爾(じ)後(ご)に進めとや詰め将棋果ててロンメルも死す

殺すべき者われは持つ靡(なび)き得ぬ風のなか凍り立つ葦として

ただひとり賢明たらむは狂愚なりとラ・ロシュフーコー言ひけり されど

無駄死にをするべく生るる者多く大き箒のごときか戦乱

未聞なることなき調べ 新曲といはれアドリア海まだ聞かず

遠海におそらくは死して戻りしのち柿の元にも人麻呂を読む

わづかわづか酒量猛れば刈り残せし蘭の茂みといふべき心

自爆者のてのひらの写真ただならぬただのてのひらただならずあり

新車新車新車ばかりの数分をテレビはなぜに溶け崩れざる

瞼(まぶた)とは薄肌にしてみづうみのその薄肌の上すべりゆく

どこにいても我あるゆゑの我にして松虫の音の降りに降るなり

泉水のふとゆつくりと見えてをり波立つ水の透けたるどろどろ

出て行けと言はねばならぬ夜なのにコカコーラ・ライト一本当り

見ぬ滝のまだ聞かぬ音に混じりたるながながと落下してゆく香り

ただ触れてみたき肌あり触れしのちをおもへば全山立ち枯れの杉

オレンジの薔薇の束抱へ笑み浮かべ撮られし日なりその後は余生

行く川の流れのいつか絶えるべく澱みはじめる淵にふたり来

生はただ牢獄という思想良しかならず広き娑婆のあるゆゑ

なにはともあれうぐひすのひと鳴きを聞きたるのちはふた鳴きを待つ

胡瓜(きうり)の芽まなこのごとくまろく出(い)でなにか知らねど楽しこいつら

ミニトマト茎ごとにざつと?(も)ぎとりて行きしは小鴉七つ子の一

殺された人びとに声のあるはずもなければ桃もざつくりと吸ふ

たつぷりと鰻を喰ひて呆けたる顔してをれば茂吉さんかや

はつなつは言葉響きもひらがなの彩も美し はつなつ、はつなつ

心とは日ごと日ごとに死に変わるものにて花のなき瓶も華

殺されるための命の運ばれる家畜車(くるま) 多少は汚れてもゐよ

疲れとは花花花のしだれ咲く真下に愛を告げしそののち

恋映画見に行くつもりになるまでの気持ちの底のコスモスを刈る

闇中にわづかに深き闇の居て化け物なるや心やすしよ

糠(ぬか)床(どこ)の桶のまはりの静まりを記憶の祖母はなほ守りをり

をかとらのを連綿と続く野の道を泣いてゆく子とそれを追ふ子と

固有名詞少なく使ひ話しつつ醤油だれ濃き料理待ちをり

霜月になほ花咲かすあさがほを刈れずに柿の葉を庭に焚く

槿(むくげ)ふと想ひ出したくなりて想ひ描いてみれば想ひ描けず

漢字多きラヴレター来て鮎寿司を喰ひかねてゐる若くもないのに

六月といふ和菓子屋の皐月てふ娘の指のなべて愛しき

ざわざわと音する夢に心の尾ひかれたままで披露宴まで

飲み差しの珈琲取らむと伸ばす指 哀れ指、わが指に終はるを

一流品ならぬコートに風受けて駆け下りしこともスガヌマユウコ

塵労の後なればPAUL AUSTERもポーラ・ウスターと見える国際空港

羽衣ならぬティアラ置かれてゐる部屋を閉めきらぬままに薔薇の刻々

枯れ花のいくつかを選ぶゆつくりと 恋果てたれば砂の寝室

アジアより来(きた)る小籠(こかご)のかはゆさを告げたくて遠くゆく墓参なり

降り出した雪のはろはろ ひとことの言ひ過ちの夕べに入りぬ

ストーブの音のわづかに強まれば決意となりて意はひとり立つ

管つなぐ仕事のひとの腕ひかる 物質のなにを知りおほせしや

仕舞ひ忘れ師走の風にさへ吹かす風鈴の音の鉄をこそ聞く

誰の目にか斯くまで見捨てられてをり 味深き煙草痛切に欲し

失速に失速を重ね滑り落ちてゆきし無残といへど 青春

膾(なます)吹く性も尊ぶこととなり老人は緩く箸運び居り

不遇続き猶続き猶も猶も続く一個の生を任されてゐる

めくるめく百鬼夜行の続くごときなりはひの隙の忘れ井戸澄む

一枚の湯葉となりゆく表面のまだ成り切らぬ靄の刻々

チューリップの咲き爛けて倒れ猶咲くを愛する妻の目を恐れ初む

白桃の汁の残りにむしろ立つ香に揺るがされただ坐り居り

グラッパの透きたる小瓶さ揺らせば充実といふまぼろしの音

城壁に遠立つ像のししむらの誰をひそめて向かふ大洋

はだれ雪いくらも行かぬ苑闇に色もかたちも失ふはよき

空馬の数頭ひかれゆく大路ほろびの迫る音などなきを

噂さへしづかに吸はれ坪庭に見るべきものの無ければこそ見る

しぐれ過ぐる昼のさがりの廊下冷えぺたぺたと音立てて渡れる

ポップコーンにはかに音を募らせてものの盛りとものの終はりと

名をなさぬてふこと臓腑のごとくありてふんだんに喰ふしらこの料理

一杯のグラスのわれもうつくしく許されてゐて明るきテラス

シーサイドレストランてふ文字を読むあひだの遠き窓の静もり

シルバーのフォークをとれば幸せもシルバーハピネス?、後はもういい

薀蓄を聞くを好まずされどされど何処に逃げると親指には訊く

プラスチック好めばなにか近く置き冬の夕べのくづれを拒む

バーンスタイン指揮ブラームス一番二楽章 湯煎の蜜の夜さへも更ける

からませて乾きしままに解(ほぐ)したる指にしつとり冷えたる茗荷






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