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Moonshine 2


月 悪魔 感謝によって発するエネルギー


 人類史上でも最大の奇書のひとつ『ベルゼバブの孫への話』の中で、グルジェフは確かに、人間は月の食料であると書いていた。「人は未だに寝ている(…)また生まれてきて作用反作用の法則に縛られた人生を繰り返し、ひたすら『月』への食料を提供する家畜のままである」とグルジェフは言っている。
 伊勢白山道の著書*に、グルジェフのこの発言をほぼ肯定する箇所があった。ただし、彼の言うには、月は人間の「怒り、嘆き、不安、欲望、我良し欲、攻撃心などのエネルギー」を食べるのであって、これらが増していくよう、人間を地上に「放牧」している。さらに正確に言えば、月はこれらの念の貯蔵庫であって、これらを食べにいくのは別の何者かであるのだという。月という貯蔵庫にこれらの念を食べに来る何者かは、人間がますます多量にこれらの念を作り出すように、様々な出来事を地上に起こし続けるのだともいう。
 この何者かについて知ろうとする場合、「悪魔」にまつわる書誌的ないし伝承的知識を用いつつ考察を進めてしまいがちになるのは、体験知を多く伴わない者たちが等しく陥りがちになるところだろう。しかし、「悪魔」という言葉を用いつつ考察するのは、故意にあらゆるコンパスを放棄して未知の土地を進むのに似る。「悪魔」という言葉を使わせ、その語の背後に隠れるものはなにかを考えなければならない。この言葉は、時にはまったく同じ意味を持つ「異常」や「例外的」などの語で置き換えられるが、これらの語の背後に隠れようとするものについても同様である。
 しかし、「悪魔」という言葉においては、それを使う場合のみならず、それを使わないようにとの意志の働く場合にこそ、認識上のいっそうの困難の渦巻く場が発生しているものだ。「悪魔」に限らず、もとより言葉は、ある表象や概念についての指示と隠蔽と溶解を同時に発生させる。この点についての適切な操作術は、詩歌と呼ばれる領域の十分な経験者たちのみに可能であるとともに、この操作術なしにはいかなる有意義な思索も行うことはできない。言語を使用しようとする限りにおいては、なにを措いても先ず「詩人」でなければならない。さもなければ、誤る。この数千年を通じて、このあたりの事情は変わっていない。
「月」の話に戻れば、伊勢白山道が、満月時の「月の装置」の全開について言及しているのは興味深い。これによって人間の感情は頂点と底の両端のあいだを揺れ動きやすく、この落差から発生するエネルギーを「月」は収穫するのだという。満月が、「月」を利用した魔術においても重要なのは言うまでもないが、「月」に願望祈願をした場合、成就の暁には、かならず交換条件として大切なものを失うことになるという。ある種の強力な霊力を持つ神社や稲荷には決して現世利益を祈ってはならないとはよく云われるが、「月」がこれらに通じる性質を持っているというのは極めて興味深い。
 ちなみに、「月」がもっとも嫌うのは、人間が感謝によって発するエネルギーであるという。人間が放出するエネルギーのうち、感謝の念だけは「月」に吸い取られることがない。


*伊勢白山道『内在神への道』(ナチュラルスピリット、2008)

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