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Moonshine 3


「時間くんと言葉くん」


時間くんと言葉くんがカフェのテラスでおしゃべりだ。

こんないい天気の日には詩なんかにでも使われたくなるね、と言葉くん。

うん、そんな使われ方なら、ぼくもいいね、と時間くん。

時間くん、さらに、続けて、
詩ってのはさ、勝手きままに書いてるとか、だれも見ないとか、売れないとか、いいことはぜんぜん言われないけど、実際に目の前にしてみると、ありゃあ、いいもんだよね。だって、書く人が好きで書いてるものね。いやいやながら、とか、仕事でしかたなくなんてのは、ふつうにいう詩ではありえないわけだ。ありゃあ、いい眺めだよ、あんなふうにきみが並んでるのは。あんなふうにきみが並んでいくのにつきあうぼくも、気持ちいいもんだ。

うなずいて、言葉くん、
そうだよね。それにくらべると、小説に使われる時は窮屈なもんだよ。ぼくは一語一語、いろんな意味あいも響きも持ってるんだけど、それをぜんぶ縛られてね、一語がたったひとつの意味しか出しちゃいけなくなるんだ。全体主義の最たるもんだよね。
でも、さらにひどいのは、書く人が、だれも好き勝手に書いてないってことだ。小説は商品でしかない。売れるものを、小説家は書くんだ。売れないで、好き勝手書いていると、おまえは詩人か?なんて、オホメの言葉を賜るらしいよ。本屋にいってごらん。わたしを買って、わたしを買って、って、小説たちが、うるさいったらない。女郎屋みたいだよね。奇妙な世界だと思う。ただの空想ものを、時間くんを費やして、作者の生涯をすり減らして、あんなにたくさんのぼくを使って書き上げるんだよ。それが出版された時は出版社が必死で宣伝するからちやほやされるが、たいていはフェイドアウトしていく。こう書かなきゃいけない、こう書けば売れるかな、と、そんな気持ちにじりじり焼かれて並べられていくのは、正直言って、ぼくの人品が下がる感じがする。

でも、カフカくんとか、宮澤賢治くんみたいに、楽しんでいたかどうかはともかく、売らんかな精神ばっかりではなくてきみを並べてた人もいたんだよね?、と時間くん。

またうなずいて、言葉くん、
そうね、あの人たちの場合はよかったな。真剣だったからね、あの人たちは。あの手に並べられていくのは、ちょっとよかったな、スリリングで。でも、言ってみれば、詩だよね、彼らのは。すぐにドカンと売れるものを書かなきゃ、っていう思いがない書きものって、どんな長文でも詩だと思う。そういうのが詩だよね。

ところでさ、と時間くん、
ほら、評論とか批評とか、ああいうのはどうなの?きみ、どんな気持ち?あれらに使われるのって?

うーん、どうだろう、と言葉くん。
使われ方は小説と同じだよね。でも、評論や批評って、ほとんど残らないんだよ。生きてるうちが花、っていうけど、死んだ評論家の本って、死とともにパタッと消えていくものが多いよね。あれってけっきょくジャーナリズムだから、数ヶ月時間が経っただけでも、もう古新聞みたいなもの。以前、死後も残っている評論家や批評家がどれくらいありうるものかと数えてみたら、ほとんどいないんで、驚いたよ。小林秀雄みたいに、随筆家の領域に入り込めた人はいいけれど、それ以外はダメだね。ほんとに、パタッと、って感じ。あれはすごいね、残酷だよね。だいたい、小林秀雄にしたって、もう文学部の大学生がほとんど知らない。「無常ということ」とか「様々なる意匠」とか言ったって、はぁ?って首を捻っている。高校の教科書に、ほら、出てたでしょ?って聞くと、どうやら今は載せるのをやめちゃったようで、お見事なぐらい誰も知らないんだよ。文学者の知名度なんて、教科書掲載か否かだけで保たれているようなものだから、ああいうトンデモ論理の文人にとっては、こりゃあキツイわな。
それに、書いている人たちが、好きで好きで好き勝手に書いているっていう場合が、やっぱり少ない。最初は好きで書いてるんだろうけど、だんだんと仕方なしに書いてるようになっていくね。それに、ほとんど売れないんだから、お金にはならない。でも、こまかい調べや考察をしないといけないというわけで、世界悲惨物語のひとつだよ、あれに使われるのは。

でも、それを言うなら、と時間くん。
大学の論文ってのが、あるじゃない。あれこそすごいよね。書かれた瞬間から、だれにも読まれない。いちおう、何冊か大学の図書館なんかに保管されるけど、それだけ。それだけのために、多量の紙と経費を使って出し続けているんだ。

あれって、でも、経費を使い切るためにやってるんでしょ?、と言葉くん。

まぁ、そういうとこもあるけどね。でも、大学のセンセが、大学の中だけで偉ぶるためのちょっとした衣裳みたいなもんだよ。偉ぶると地位も上がって、お金も増える仕組みなんだよ。
と、時間くん。

そうだよね。でも、ぼく、あれに使われる時ほど壮絶にわびしいことってないよ。だいたい、文章を書くっていう能力のない人たちが大学のセンセでしょ、たいてい。気位ばっか高くてね。大学の枠から出たことない連中が多いから、ほんと、なんにも知らないし、礼儀もないし、常識もないしね。だからね、まぁ、まいっちゃう。下手な翻訳の下訳の下訳みたいな文の中にごつごつと並べられて、表現は無駄ばっかりだし、まわり道ばっかりだし、それでたいしたことをいうのかと思うと、「…と考えることも可能でなくはないと思われる」とか、「…との推測も可能ではないかと記すことで、ここはとりあえず結語としておきたい」とか、ようするになにも言わないで済ますんだよね。
と、言葉くん。

芸だよね、と時間くん。

芸だよね、と言葉くん。

でさ、けっきょく、どうなっていくかとなると、大学のセンセほど、退職後、パタッと消え去るものはないよね。
と、時間くん。

そうだね。それまでは、いろいろと出版社から頼まれて本を出したり、世評には上らなくても、いろいろと頼まれたりはするんだよね。
と、言葉くん。

そうそう、でもさ、出版社って、その人に頼んでいるんではなくって、けっきょく、「大学」に頼んでるんだよね。「大学」にくっ付いているっていうことを頼みにしている。だから、大学から離れたら、要らないわけだ。他の人でいい。「大学」にくっ付いている人ならば。
と、時間くん。

そう。だから、大学のセンセっていうのは、評論家や批評家と違って、生きてるうちに消える。学生や世の中の側から見れば、単位とか「大学」権威があったから、しかたなく大学のセンセにも目配りしてただけで、それがなくなれば、もうどうでもいいものね。もともと、人に読ませる文体も確立できなかった人たちだし、教養ったって、入門書の引き写しみたいなのが多いしね、けっこう流行に乗ってるだけだし、人間的にはおもしろくないし、社会では通用しないし、人格的にも低いのが多いし。
と、言葉くん。

教授たちなんて、あれ、現代の貴族階級でしょ。週に五つも六つも授業があったら、多過ぎて死んじゃうなんて言っているよ。週に三日も出勤したら、もう働き過ぎっていうんだ。それでいて、年収は一千万以上なんだから。非常勤講師たちなんて、どうなるんだろうね。週六日出勤したって、ようやく月三十万に届くかどうか、というところだ。実際にはそんなに授業は貰えないから、ほとんどの講師は月二十万程度の収入で死を待つだけだ。詩でも能天気なふりして書きながらね。この前も、どこかの大学の非常勤講師が言っていたな。人権問題専門の教授がいたので、非正規被雇用者の最たる例である非常勤講師問題の改善を少しは手伝ってくれと言ったそうだ。そうしたら、自分は外国の差別問題以外は興味ない、って即答されたって。大学の「人権」研究者ってそんなもんだ。実地の役には立たない点を必死に追求するんだよね。
と、時間くん。

ははは。「人権」研究者っていう表現の意味をよく理解もしないで、ヘンな期待を持っちゃったんだろうね、その非常勤講師さんは。なんたって、言葉であるぼくがそれも演じているんだから、まずぼくに聞いてくれればよかったのになぁ。端的に言っておくと、ぼくには、これと決まった意味なんてありません。意味くんは、なにかというとぼくにストーカーしてくるんだけど、まったくの別人格なんで。「人権」という言葉を繰り出す時も、ぼくなりに曖昧に無限の意味を紡ぎ出せるようにと、いつも頑張ってるんだよ。あらゆる言葉は多義の荒野を目指す、ってとこかな。結論から言えば、その「人権」研究者さんは、なかなかの詩人だったってことだろうね。差別問題も人権問題も、異国の地にしか求めないなんて、けっこうロマンチックじゃない?どうやらその研究者さんに、一本取られたってことじゃないでしょうかね?
と、言葉くん。

なあるほど。さすがは言葉くん、意味にとらわれずに、あっちこっちと翻りますわな。ま、そろそろお時間ということで、今回はこのあたりで。
と、時間くん。

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