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Moonshine 23


―競売にかけられるフランス王家の直筆書簡―




 あのサブプライム・ショック、ふつうなら経済的な心配と無縁でいられるような世界中のトップレベルの富裕層にも、じつはかなり深い損失と動揺を与えたのだと聞く。そのためかどうか、普段ならあまり売りに出されないような歴史的資料が、かなり目につく頻度で競売に出されるようになった。
 今日六月十七日、パリのサザビーズで売りに出される三四五通にのぼるブルボン家、オルレアン家、パンティエーヴル家の貴顕たちの直筆書簡もそのひとつ。手紙を書く場合、フランス王家の人々は秘書に口述することが多く直筆書簡そのものが稀少なのだが、それがこれだけ多く出てきたとなると、内容的には重要でないにしても、おのずと相応の歴史的価値を持つことになる。誤りのある頼りなげな綴りで「ぼくはぼくのインクつぼがすきで、やさしいはくしゃくふじんがすっごくすき」と、伯母のトゥールーズ伯爵夫人への親愛の情を書き記す四歳のルイ・ド・フランス(ルイ十五世の息子でルイ十六世の父。王位につかずに三十六歳で死んだ)の筆跡などを見ていると、歴史的価値というより、一時期の歴史を体現させられた人間の生の心持ちや息づかいが感じられ、独特の抗しがたい魅力を覚える。
 ルイ十四世の私生児メーヌ公爵がラテン語で書いた一六九八年の熱烈な恋文から始まり、ルイ十五世が従弟で親友だったパンティエーヴル公爵に書いた二十八通の手紙や、革命期から十九世紀にわたるオルレアン家の資料までを含むこれらの遺物は、王政復古期にマリ・アデライドによって収集され、ふたつの古い箱に納められたまま今日まで眠り続けてきたという。マリ・アデライドはルイ十四世の曾孫にあたり、オルレアン家のフィリップ・エガリテ(フィリップ平等公)の妻にして、後のルイ・フィリップの母。ちなみにフィリップ・エガリテは、フランス革命の際、従弟であるルイ十六世の地位を奪おうとして国王の処刑に賛同する署名をした人物である。ルイ十六世の処刑後、王国簒奪を企んだ罪により、同じ年に彼もギロチン台に送られることになった。
これらの遺物は、一九四八年の二月革命の際、ルイ・フィリップ亡命とともにその母マリ・アデライドが持ち去ったらしいともいうが、確証はない。これらが今年になって競売の場に現われることになった背後には、興味津々というべき秘話があったはずだろう。目端のきく欧米のサスペンス作家なら、見逃せないエピソードとして作品に織り込みたくもなるに違いない。
 アンリ四世がまだアンリ・ド・ナヴァールだった一五八四年にカトリーヌ・ド・メディシスに書き送った手紙(これまで十四通が発見されていたが、今回のものは十五通目にあたる)や、近いところではサン・テグジュペリの『人間の土地』の主要な章の手稿も売りに出されるという。捨てたり整理したりばかりが持てはやされる昨今だが、けっして捨てない人々がどこかにいてくれることの重要さも、やはり忘れるべきではないということなのだろう。捨てられずに残ったものは、数百年後には歴史を変える。少なくとも歴史の肌ざわりを変え、歴史を舞台として展開される空想のあり方をがらりと変えてしまうのは疑う余地がない。

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