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Moonshine 7


サブプライム後の政策 ケインズ主義の復活 憲法違反の解雇


 サブプライム危機後のいま、小手先の調整でなしに、政府がどのような政策を本格的に採ることになるのか、採り得るのかに興味がある。経済学にもとづく政策選択は、現在、本当の意味での正念場にあるといえるだろう。
 ソヴィエト崩壊がマルクス主義経済学にもとづく政策の破綻を露呈したのだとすれば、今回の金融危機は新古典派経済学にもとづく政策の破綻を意味しているとみて悪いはずもない。そうなると、政府が今後採りうる経済政策としては、大筋としてはケインズ派経済学にもとづくものしかない。マルクス主義経済学の採用は資本主義国の現状においては論外だろうし、イノベーションによる「創造的破壊」によって動的不均衡を生み出し続けるのが資本主義の本質であるとみるシュンペーター理論は、高度に発達した資本主義下ではすでに常識化している。金融当局による通貨供給量を人為的に抑えるだけの通貨政策をよしとし、それ以外はレッセ・フェールを建前とするフリードマンのマネタリズム政策は、いうまでもなく、今回の金融危機で瓦解し去ったかにみえる政策である。

 終戦後に日本経済を指導したアメリカのエコノミストには、ケインジアンが多かった。そのため、世界でも類を見ないほどの大胆さで、日本でケインズ派政策が実施された。アメリカでも、ルーズベルトのニューディール政策はもちろん、一九六一年からのケネディ大統領時代にもケインズ経済学が政府の正式な政策決定理論として採用されている。しかし、「消費は美徳」との認識のもとに、現象としてはバラ撒き福祉を特徴としたケインズ主義の有効性は徐々にほころび始め、資源の有限性を強く世界に認識させた一九七三年の石油ショック後、その無効化は決定的となった。反ケインズ派の急先鋒だったフリードマンなどからは、政府の民間部門への介入や福祉国家づくり優先のケインズ派政策は、勤労者の労働意欲を削ぎ、経営者を不満にさせ、けっきょく無責任社会を招くだけだと批判された。
 ケインズ派と古典派経済学のうちの供給サイド重視派、いわゆる新古典派経済学とのあいだの違いには、貯蓄概念についての解釈の違いが大きく作用している。ケインズ派の考え方では、生産活動の結果としての賃金や利潤は財貨購買にすべてはまわらず、一部は貯蓄にまわることになるため、購買力が減少して需要不足が起きると考える。だからこそ、福祉を充実させて、需要不足を起こさないように政府が働かなければいけない。おのずと大きな政府が必要とされることになる。その際にはもちろん税金が使われるので、税負担も重くなる。これに対して、新古典派経済学では、貯蓄は自動的に投資に向かうことになると考え、供給は需要と合致するとみなす。新古典派は、生産し貯蓄する主体として人間を見、「貯蓄は美徳」と謳う。貯蓄がそのまま民間設備投資に向かうと考えるので、貯蓄増加をもたらす減税は最大の政策となる。人間の経済行動は税率に依存するという認識である。減税がそのまま貯蓄から民間投資への移行を引き起こすはずなのだから、政府も仕事を縮小することができる。ここから、小さな政府化と市場原理強化を柱としたレーガノミックスが生まれてくることになった。

   貯蓄がそのまま民間投資や消費に向かうと考えるからこそ、麻生内閣の定額給付金という政策も出てくるわけだが、そもそもケインズ派と新古典派のあいだに存在する貯蓄概念の差異は、貯蓄概念にもともと内在する複数の異なった性質のどれを強調するかによって生じてきている。どの性質が顕著に現われるかは状況によるわけで、この点においては、ケインズ派と新古典派を総合した新たな経済政策論が今後早急に構想されて然るべきだろう。本来、反ケインズを主導したフリードマンの理論は、ケインズ理論の詳細な読解にもとづいて対抗理論として練り上げられたものだった。さらに遡れば、ケインズ自身も、先行する主流の経済理論だったフランスの経済学者ジャン・バティスト・セイの理論を批判することで出発している。思考の基底となっているパラダイムはこれらの理論間では通底しているわけで、これらの理論の統合は理念上は不可能であるはずはない。政府の役割制限をつよく主張したフリードマンにしても、法の支配や金融政策や貧困緩和などは政府の役割と見なしているのだし、政府介入を強調するケインズにしても、民間で可能なことは民間で行うべきだとの見解を示している。ケインズは、貯蓄と投資の不一致に経済変動と不況の可能性を見たからこそ政府介入による是正の必要を説いたが、フリードマンのほうでも不況を政府の経済政策運営の失敗と言っているのをみると、このふたりの理論的な差というのは、戦略論ではなく戦術論的なものに過ぎないのではないかとも思わされる。

   先行する経済学が完全雇用状態だけを扱った特殊理論であったとの批判に立って、ケインズは不完全雇用状態をも含めた一般理論の樹立を試みた。不況と失業期のための経済学理論であるケインズ理論が、これから多くの国によって再考され採用されていくのは論を待たないし、各国政府による財政支援出動によって、すでに二〇〇八年後半には世界的にケインズ派政策への横滑りが起こってしまっているともいえる。
 需要、すなわち消費の大きさこそが資本主義経済の命運を握るとするケインズ派政策では、均衡財政主義の放棄と所得再分配のふたつが大きな柱となる。不況時には公債を発行して有効需要を増やし、大規模公共事業を起こして失業者を救済し、賃金水準は断じて引き下げずに維持すべしという考え方と、高所得者に累進課税制を課して社会保障制度を充実させる考え方ということになるが、この政策が通貨増発を不可避的にもたらし、物価上昇を招いてインフレーションを発生させる欠点を持っていることはケインズ派政策への批判の常識である。それを措いても、現時点で考えると、すでに厖大な赤字を抱えて身動きができなくなっている国家にどの程度の財政出動を望み得るのか、環境問題によって生産・消費縮小の方向を強いられている現代において、それを実行した場合にどれだけ長期の広範囲な負債を未来に残していくことになるのか、適切に考えようとしてもなかなか容易ではない。高額所得者に多額の納税を課すことについても、日本の再分配後所得で見た場合の先進国内での貧困率が世界ワースト2位にまで落ち込んでいる現状を考えれば、政策的にはもちろん妥当であり急務というべきだが、これを下手に実施すれば高額所得者を海外へ大量に逃がすことにもなりかねない。現代がケインズの時代と様変わりしてしまっている以上、ケインズ経済学による政策にはかなりの修正が必要とされることになるのだ。
 新古典派経済学が破綻し、ケインズ経済学にもそのままでは戻れないとなれば、社会主義経済学も加えた上での新たな経済理論が練り上げられる他ない。政策理論の上では、今、そういう地点にいることになる。

   もちろん、否応もなく経済の現実の中にいて揺さぶられる側からすれば、新たな経済理論の構築を待つなど、悠長この上ない話である。解雇対象となる労働者に対し、とりあえず最低限の健康的生活を確実に保証する緊急政策を政府は次々打ち出してもらわなければ困る。解雇により住居を急に失ったり、衣食に窮することになるのがはっきりしている場合、日本国憲法違反として当該解雇を禁じる政府見解を出したり、解雇された労働者を保護する臨時政策を出すぐらいのことはしてもよいだろう。生存権や国の生存権保障義務を定めた第二十五条には「1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあり、労働の権利・義務を定めた第二十七条の1には「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」とある。 国家がこの「勤労の権利」を実効保証しないのは憲法違反以外のなにものでもない以上、年末年始の炊き出しや厚生労働省の設備を臨時寝泊まり所として貸し与えるだけで済まされるものではない。
 こうした臨時政策を打ち出しながら、本来なら、各企業の経営陣の所得の徹底的な削減を同時に早急に行うべきでもあろう。サブプライム危機は突然に起こったのではないのだ。すでに何年も前から危機は予想されていたのだし、さまざまな警鐘が鳴らされていた。大企業の経営陣にはあらゆる事態に応じた経営上の見通しを立てる義務があり、現にそれを実行していると誇ってもおり、そのための組織も作って、予算も計上している。とすれば、大量解雇を突然に行うに至るような事態は、経営責任上、重大な過失にあたるといわねばならない。彼ら経営陣を大量解雇するよりも、いまのところ現状打破にあたらせるほうが実際的というものだろうが、しかし、もともと高額報酬を受けてきているのだから、お家の一大事にあたって給料は数年にわたってゼロにすべきだろう。非正規の被雇用者が六畳一間や四畳半ほどのアパートで寝起きしながら生活してきていたのなら、無能力な経営陣がその程度のアパート暮らしをして経営再建に没入してもかまわないはずだ。経営陣は、一般労働者以上の使用可能予算を持つべきだし移動能力も持つべきだが、それは会社に準備しておけばよいので、個人資産を維持し続けさせる理由にはならない。
 こうした点は、早いうちになんらかの手を打っておかないと、今後、帝政ロシアの皇帝家族のような運命を辿る企業家たちが続出することになるかもしれないし、それを望むところまで心理的に追い詰められている人々はすでに極めて多い。第二次大戦における日本の、あの不条理な暴力の爆発を見たからこそ幾重にも抑えられてきた暴力への傾斜は、いまや急坂となって日本社会の其処此処に口を開けていることに、よくよく注意しておいたほうがいい。もともと大した能力差によるものでもない所得格差や、資産的に恵まれた家に生まれたか否かで生じた生活格差、すなわち、社会的にさほど存在理由もなければ説得力もない無用の既得権益者たちを、暴力の一撃で排除して消滅させる現象が今後は発生して来かねないと見ておくべきだろう。なんらかの促進力を持つような政治方針の創設や宗教的ないしは擬似宗教的誘導などによってそうした現象を統合する者たちが現われれば、かなりの短時間で事態は深化しうる。現在、大企業の経営陣や政府関係者よりもはるかに知力において秀でた人間たちが、たんに関心を他に向けていられたからというだけの理由で低所得者としての生活に甘んじているのを忘れない方がよい。彼らの忍耐が限度を超える時、これまでの既得権益者を一掃するような政策構築と組織的暴力とで大きな改変が起こる。あと幾つかの歯車がかみ合いさえすれば、というところにすでに来ているのだ。抑えの効かない暴発が起こるはずであるし、潜在的にも意識的にも、起こしたがっている「魂」たちが社会に充満している。

   政治や行政側のやり方次第では、しかし、如何ようにもコントロールできる情勢なのではある。所得の高低にかかわらず全国民に、一日あたり一定以上のカロリー摂取と必須栄養量摂取を保証する措置を採り、日常の天候変動に十分耐えうるに必要な国民服を望む者には無料配布し、一定以上の適正温度と湿度の保たれた夜間宿泊施設を常備する程度のことをすれば、最悪の国家破壊計画や社会熔解は防げるだろう。いわば、災害発生における緊急措置のようなものを日本中に発令するべきなのだ。自然災害ではないものの、いま起きているのは経済災害ではないか。どちらも人命に関わる点では同じであり、これを放っておくのは基本的人権の無視にあたる。
 こうした応急措置をしながら時間を稼いで、産業重心の移動を進める必要がある。たとえば、環境への配慮を考えれば、これまでのかたちでの自動車など明らかに時代遅れなのだから、別の動力による新たな発想による自動車や移動機関を何十年も前から実現すべきだったはずだが、これに国家予算を組むことで早期の成果を目指す。同様のことは水と食料にもいえる。特に農業だが、旧来の農業法を早急に改正して株式会社経営による農業を可能にし、知識や技術の伝承を会社のかたちで行えるようにしていく。こうした配慮の必要性は第一次産業のすべてについていえることで、漁業や林業などについても適切な措置が採られるべきだろう。ケインズ経済学による政策では、仮に無用の長物であっても巨大な公共事業を行うことで有効需要を増やすことを目指したが、いまの日本で行われるべき公共事業は、無用どころかこの上なく必要な第一次産業の復興であるというべきだろう。
 多くの意見がほぼ一致しやすいと思われるこうしたマクロな方向性に向けて、目下の状況下において、どのように緊急政策を繋ぎながら対処していくかは、政府と行政のプロフェッショナルに委ねるしかない。ここで失策や遅延を重ねれば、すでに触れたような面倒な情勢に突入していくことになるだろう。

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