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ARCH 56

                   駿河昌樹詩葉・2001年6月



あーべんとろーと、死ノ




カード占いをしながら死んだ、ド・ゴール……
十余年来のなじみの占いがぼくにもあり、休みの前夜、それに耽る。
カードも石も易も使う。告げられるのはいずれも、
コノ生ニ発展ハナイ、願望ノ成就ハナイ、ツギノ生ノ礎トノミ考エヨ、ということ。
おなじ結果を確かめるために、
今夜、また石を振る。

数ヶ月、遠クナイ死、が出続けている。
遠クナイ、死、
礎の生、の終り
そこまで死が来ているならば、いま、生きている、この感覚はなにか?
Ist dies etwa der Tod ?
死、ダロウカ、コレガ?
アイヘンドルフの詩句が戻る。リヒャルト・シュトラウスの
『四つの最後の歌』で馴染んだ歌、

     おゝ、この平穏、ひろびろと、静まりかえって!
  夕映えにこんなにも染まって。
  さすらいにも、ぼくら、疲れはてて―
  死、だろうか、これが?*

ドイツ語の「夕映え」はAbendrotという。
アーベントロート。人生の、残りをともにすべき、美しい、音ではないか。
あーべんとろーと、そこまで
死が来ているならば、いま、生きている、この感覚はなにか?
いま、生きている、
これは、生きている、ことか?

  苦しみ、よろこびのなか、手をとりあって
  ぼくらはいつも歩んできたものだ、
  さすらってきた足をとめて、いま、ふたり
  しずかな田園を見晴らす丘にやすらぐ。

時間の問題ではない。
時間ノ問題ダ、と、ぼくら生キテイル人間は言い続けてきただろう?
あれも、これも、時間ノ問題ダ、と。しかし、
死が近づけば、時間ノ問題は消える。時間ノ、終わり
を超えて為すべきこと、
はなにか、考えるべきこと
はなにか、神やたましいのこと
でさえない、のでは      ……ないか?

  こっちへおいで、ひばりのさえずるにまかせて、
  眠りの時も、もう、じきだから。
  ふたりきりのこのさびしさ、
  はぐれないようにしようね、ぼくら。

あーべんとろーと、はぐれないように
…すべきは、だれと、か?
ことばも
映像も、いいです、もう。
はぐれないように
…すべきは、だれと、か?
ハグレナイヨウニ
…スベキハ、          ダレト、カ?

(……しかし空しいひろがりがあるように、空しい深さもある。また、
多様を集合させる力をもたないで、
有限な多様のなかに流れ出て行ってしまう実体のひろがりが在るように、
ひろがりをもたないで、ただの力として在り続けるような、実質のない深度もある。)**

いや、そうではなく、

(つぼみは、花が咲くと消えてしまう。そこで、つぼみは花によって否定される
と言うこともできよう。(…)しかし、これらの形式は、
流動的な性質をもっているため、同時に有機的統一の契機となり、この統一にあっては
形式は互いに対抗しないばかりか、一方は他方と同じように必然的である。
この等しい必然性があって初めて、全体という生命が成り立つのである。)***

ワタシはワタシの死、「有機的統一の契機」、によって、否定されるノカ?
ワタシの「全体という生命」とはダレだろう?
「流動的な性質」、……

ことば、考え、こころさえも、ほんとうはいらない……
ハグレナイヨウニ
スベキハ、ダレト、カ? いいえ、
はぐれても、いい、……ワタシハ死トトモニ
アルダロウ、死ハ
ワタシノ花、
ワタシハ死ノつぼみ、
死ノ
ワタシハ  つぼみ、

死ノ




*Joseph von Eichendorff : Im Abendrot、拙訳。
**G・W・ヘーゲル『精神現象学』序論、樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー版(1997)。
ここの叙述に、ヘーゲルは否定的な意味合いを持たせている。
***同右。








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