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布村浩一の詩は、簡明どころではない



 布村浩一の第三詩集『大きな窓』(詩学社、2002.8.31)は、「船の上」という作品から始まっている。この詩集では、だいたいは制作順に作品が収録されているが、「船の上」はその後に収録された「雨」よりも制作時期が遅い。意図的に詩集のはじめに置かれたものと見える。適切な措置だと思う。
 生きることや「街」、ないしは「町」への(というのも、布村に「世界」というものはおそらくなく、「町」や「街」しかないはずだから)布村というひとの態度が、この作品にははっきりと出されている。作者はそれを承知で、このように、いわば〈方法〉を冒頭にさらしたのだろう。潔いとも思うし、勇敢でもあるし、読者への心づくしでもある。こういう〈方法〉でぼくは生きていて、街を見て、書いている、いやだったら、ここでやめてください、といった思いやりがある。
 〈方法〉といったが、詩人の方法は、もちろん、取捨選択できるたぐいの〈方法〉ではない。それはつねに、強いられている方法なのだ。肉にも、感性の癖にも、これまでの時間や空間のすべてにも絡まっていて、自分そのものではないのだが、かといって、取り除くわけにも取りかえるわけにもいかない。ありようとか、生きざまとでも言ったほうがおそらく近いが、これを自ら認識していなければ詩人ではないのだし、認識している以上、それはやはり〈外〉にあって、ならば、〈方法〉と呼んでしまってもよい。ただ、〈外〉にはありながら、他人から見たら、それはその人そのものとしか見えない〈外〉なのだ。もっとも、そんなふうに強いられていない〈方法〉など、人間の、いったいどの世界で、方法たり得るものだろうか。
 布村の〈方法〉はよくわかっていると思ってきたから、新たに驚いたり、訝ったり、ようするに発見への期待などなしに、いわば彼の調子の展開のさまを見直せばいいとも思ったのだが、「船の上」で次のような連にぶつかって、あまりの正確さに驚愕した。


   船から落とすもの 振りかえるといつも崖があって
   ぼくはまったく何も持っていないか
   持っているものはすべて崖の上のものかだった
   だから考えはじめると指がひろがってしまい
   落とした


 正確さ、というのは、自らの〈方法〉に対する布村の認識の正確さのことであり、それ以上に、この〈方法〉からの逃亡を、もはや意図的に拒否する決意の正確さである。さらにいえば、こうした認識や決意がじつに快く、私の中のなにごとかを、たったこれだけの連で解決し方向付けてくれることへの驚愕があった。
 すなわちは、詩。私はあまりに実用主義者であり、生のさなかであまりに思い悩んでい過ぎるので、このような作用をもたらしてくれるものだけを詩と呼んで求めることにしている。詩と呼びうるべき詩は、かならず役に立つものでなければならないはずではないか。真夏にわれわれの意識を開く鮮やかなヒマワリの色、夕暮れの色合いや、深夜ふと見上げた時に浮かんでいる月、あれら、地上でもっとも有用なものさながらに有用でなければならない。
 それにしても、なにか「持っている」かのように装って書かれる詩や、「崖の上のもの」がぜんぶ自分のものであるかのように装っている詩人が、いかに多いことか。布村の幸福は、「考えはじめる」と「ひろがってしま」う「指」を持って生まれた、という点にあり、また、「持っているもの」が「すべて崖の上のもの」にすぎない、とごくごくまっとうに認識できる正確な思考力に恵まれている、という点にある。いずれも今の社会では稀有のもので、それゆえに、相応の苦労や不遇を持ち主に約束するたぐいのミューズの恩寵ではある。
 とはいえ、さらに読み入っていこうとしてみれば、この節は、じつは奇妙な思考によって編まれていることに、すぐにも気づかされるだろう。考えてみれば、船に乗っている「ぼく」が「振りかえ」って見る「崖の上」に、自分が「持っているもの」が「すべて」あったりするわけはあるまい。ごく単純な表象のレベルで、ここには、夢の世界の論理のような、あきらかな矛盾がある。「崖の上」にあるならば持ってはいないはずであり、「持っている」ならば、「崖の上」にあるはずはない。そのうえ、どうして、「だから考えはじめると指がひろがってしまい」ということになるのか。
 矛盾やある種の思考の乱れを指摘して、つまらない批判をしたいというのではない。一見、読みやすくわかりやすい表現と見える布村の詩は、実際には、じゅうぶんな注意無しに読み進まれる際にはうっかり看過されかねない、このような異様な論理と秩序によって巧みに編まれている、ということに注意を促しておきたいのだ。布村浩一の詩は簡明どころではなく、ひとたびこうした異様な論理と秩序に気がついた瞬間から、読解はたちまち困難なものとなる。
 名品『夜のはじまる街』からも、一例を示しておきたい。


   明かりがきれいだと思う
   ビルの明かりが海のようだ
  レイン・ツリーの向こうの大通りにそって
   三つ並んでいる建物のすべての窓に明かりがついている
   「ながめる」
   といった姿勢でみている


急いで読み進んでしまえば、この部分など、分かり易すぎるといえるほどのものがある。いずれの表現も平易で、ふつうと違う凝った表現を紡ごうといった意図も見えない。が、表された光景のある種の快さにつられて立ち戻ると、ふいに、いくつかのわからなさに陥ることになる。なぜ「明かりがきれいだ」としないで、「と思う」と付け加えるのか。「『ながめる』といった姿勢でみている」とすれば、「ながめ」ているのとは違うということか。なぜ、「ながめる」だけで止めないのか。「『ながめる』といった姿勢でみている」という自己認識のしかたは、なるほど、「ながめる」という行為特有のくつろぎと余裕とに水を差し、その行為から距離を取っている様子を表現しうるだろうが、しかし、こうした自己認識がある以上、「みている」対象は、「明かり」でもなく、海のような「ビルの明かり」でもなく、「レイン・ツリーの向こうの大通りにそって/三つ並んでいる建物のすべての窓」についている「明かり」でもなく、むしろ、自己なのではないか。そもそも、「三つ並んでいる建物のすべての窓に明かりがついている」という完璧さは、いったいなんなのだろう。……こんな謎がたちどころにいくつも出現してきて、この個所を前に立ち止まり続けることになるのだ。
 布村の詩は、簡明どころではない。彼の見ているものとして彼が詩に取り入れる風景や光景のすべて、その概容ばかりか細部までもが、じつは、恐ろしいまでに彼の意識構造の支配下にあり、したがって、とりあえずの客観視を装うことはあっても、布村浩一において客観はまったく存在しないということさえわかれば、彼の詩が提示してくる困難さを分析して乗り越えていくことはできるのだが、そこまで実感にもとづいて読み込んでみないうちは、というより、その程度まで彼の詩の前に立ち止まってみていないうちは、布村浩一の詩は、とてもではないが、簡明どころではない。難解さやキテレツさを前面に出して、読み解きのむずかしさ、面倒くささを創出することに必死になっているごとき詩人たちが、はたして、布村のこの第三詩集をどのように扱うか、端から想像がつくのだが、「考えはじめる」と「ひろがってしま」う「指」を持って生きてきた者が、しかし、ペンや鉛筆だけはどうやら「落と」さずに書きつけたらしいものを、やはり、われわれは正当に恐れておいたほうがよいはずなのだ。
 布村浩一の詩は、まったく、簡明どころではない。
                              2002.9.5







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詩集『大きな窓』(2002年8月31日発行・詩学社刊)
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