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ふいに海までの径がたしかに伸びている。



(  ……ほんとうのことを言えばひとは離れる。
   きみ、
   きみの時代は死後に来る。いまは見えない海を見つめていたまえ…………

だれかがしあわせならばふしあわせは不可視の山すそをなしているだろう。
きみはそれでもどうにかきょうの米を蓄えているし、
スターバックスでコーヒーを飲む小さな贅沢もまだ禁じられてはいない。

ひとりでテラスに坐ってなにか読もうかと考える。
そう考えながら、いまごろリヴィエラでは美しい肌に夕日が落ちているだろうとか
アカプルコではヨットがしずかに航跡をひいているだろうとか
そんな想像もなぜか浮かびながら
「本日のコーヒー」を口に運ぶ。
ものは豊かでも なにひとつ金を介さないでは手に入らなくなったこの世界で
この一杯は税込みで262円だと確認する。
わずかの金額だと思うがこれを毎日飲むような暮らしを続ければ数年後には文無し
になるだろうかとも思う。
どれだけ節約できるかと考えない日が もう、
きみにはない。
地球のうえでは恵まれているほうなのかとは思うが
なにひとつ金を介さないでは手に入らなくなったこの世界では
下層なのだとも思う。

はたちではないからもうきみは人間に望みを持っていない。
ものの進歩はたしかにあるようだがそれで儲けるひとがいるからのことで
小綺麗にてかてかになっていく街のながめのなかに金と欲の流ればかりが見える。
瀟洒な名士たちよりこころが綺麗だったとは言えるかときみは思う。
だがこの世界は儲けるひとたちの場所でこころの綺麗さに居場所はない。
世界とも社会とも呼ばずに金とでも呼べばいいのに、ここを。
そうきみは思う。
そうきみは思う。だれとも分かちあわずに どうせ
ほかのひとびとはきみの見えないところで各人の儲けを追っているばかりだから。
儲け。
おそろしいのは
経済的な儲けのほかに
自我の儲け
精神の儲けもあること。
みんな、いずれかを追っている。それらだけを。
なんとシンプルな
まずしい世界。
儲けの外に立っている詩が
どこにあるか。
儲けをパトロンとしない美は
どこにあるか。

出会ったひとびとと話しながらきみはかれらの収入を推定し慰安の多寡を想像する。
幸福は収入高とも財産とも地位とも違う。
しかしきみは推定しきみとの差をありありと思い描こうとする。
運命というものを凝視してきたから羨望をするわけでもない。
これから来るものにかれらが耐えられるだろうかとも想像するが言うわけでもない。
金。運。地位。人脈。
人類はこれらをこれからどうしていくだろうと考えやがて
ほかのことに思念は紛れる。

そうして寝入る前

やはりじぶんはふしあわせだと今夜もきみは思う。
262円のスターバックスコーヒーは
このふしあわせの外れを感じさせてくれたように思うのだが思い違いかもしれない。
スターバックスでさえいつか倒産するであろうし
その倒産の日のことがもうきみの脳裏には浮かんでいて重くもあるし。

そして、飛鳥川。
すべては変わっていく
すべては終わっていく
ひかりを浴びる機会を得たしあわせなひとびとが
やはりしあわせだったのか
けっきょく
ひかりを浴びなかったひとびとと変わらなかったのか

ひかりといっても人工のひかりだから
そんなことはむかしからわかっていることなのだけれども
いつのひとびともほんとうに知らないふりがすきでうまくって
着想も構想も演出もあいかわらず
の劇が続いていく

いまは見えない海を見つめて
海を見えないままに保っていくのが詩人かときみは思いつく。
見えないままのものを見つめる目は
見えるだろうか、ひとびとに
そう思いながらきみはすぐ反省する
ひとびと、などとじぶんはまだ言葉を使っている
ひと、しかいないのに。
さらには、
わたし、しかいないのに。

ふいに海までの径がたしかに伸びている。

伸びている、のか。
伸びて
いる、と、いうことなのか。







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