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よろこばしい石とともに



よろこばしい石とともにあり
初夏を過ぎ越すところなのでした

忘れてきたのは
大きな麦藁帽子だったのですが
―あ、お気に入りのあのハンチング、忘れちゃった
大声で言うと
東の野原のほうへと駆け出したのです

―ご自分を愛したことがおありですか?
―おありですか?
―たんなる現状維持の感情や
―生命維持の本能でなしに
―ご自分を愛したことがおあり?

わたしはほんとにドキドキしたのです
だって初夏じゃないですか
質問は、なのに
すっかり秋口のようだったからです

よろこばしい石とともにあり
ひと夏を
ことばのより悪くない使い方について
そろそろしっかり考え直そうと思っていたのです
いくらかの見通しというものはありました
輪郭をあまりにくっきりさせると
ことばは硬くつめたくなってしまい
勝手になにか言ってるよ、あいつ
みたいな雰囲気になってしまう
いきなり主語を普通名詞で立てて始めるのも
どうだろう、やっぱり勝手にキッとなっているようで
読む人の気持ちの浸透圧をグッと下げてしまう
新会社のプライド満々の宣言みたいなことばなんて
もう誰も読みたくないんですものね
わたしはどんなことばを発したいのか
発したくないのか
そろそろしっかりこれを
考え直さないと宇宙の進行に関わる
そう思ってよろこばしい石と
ともに
ひと夏を

初夏にはいろいろと思い出があり
がーるふれんどを水嵩の増した川で亡くしたり
すこしのお金の貸し借りで親友を失ったり
犬のガーピーが事故死したりと
本当にいろいろあるのですが
どれも語ろうとは思っていないのです
思い出を語る
どんなことばをわたしは発したいのかと
考え終えていないのに語る
それはいったいどういう意味なのかわからないのです
意味がわからず
考え終えてもいないのに
わたしたちは生活の中で語り語り語り語るのだ
それは本当にむごいことだと思い続けてきたのです
でも語って来たのです
ムキになって語ってさえ来たのです
ことばというのは
まったくひどいものだ
わかったふうな口調で平然さを装って
語り語り語り続けるのです
それが人間だというのです

ガーピーは車にはね飛ばされて
何メートルも飛んで
道路に落ちた時はフニャッとしていました
口から出していたのは
たぶん溶けたルビーの宝石水
そもそもガーピーは動くぬいぐるみで
生きものでなんかはじめからなかったから
ここに落ちているのは
動かなくなったぬいぐるみ
ガーピーははじめからわたしの心の中にだけいて
いまも心の中だけにいる
ここに落ちているのは
動かなくなったぬいぐるみ
こんなことをわたしは一瞬に
路上で思いまとめて
ルビーの水をハンカチで拭いながら
そのぬいぐるみを抱いて帰ったのです

…語ってしまった
語ってしまったのだろうか
これも語るということか
それとも
他人にはいい加減な語りと見える程度のものにまだ幸い留まってくれていて
語ってしまっては
いないだろうか
ぎりぎりのところで

よろこばしい石とともにあり
―とわたしは書いた
よろこばしい石とは
わたしの果てにある石か
あらゆる意味での
あらゆるものにとっての墓石
そのようなものであるか
よろこばしい石とともにあり
―とわたしは書き
初夏を過ぎ越すところなのでした
―と書き接いだ
すなわちわたしは

よろこばしい石とともにあり
初夏を過ぎ越すところなのでした

―と書いた
ことばとはなにか
さいわいなるかな、説明しないことば
わたしはいつまでも初夏の過ぎ越しの手前
よろこばしい石とともにあり
過ぎ越すところ

初夏のさなか
よろこばしい石とともにあり





「ぽ」199 2007年9月

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