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見慣れた戸外を今日も新たに見るときに人がするような顔つきで



その芸術家は師に引き摺られまいと雪の日に出奔し
雪解けの頃には小さな住まいを寂しい谷沿いに構えた
それなのに彼の名は二度と芸術の世界には浮かび上がってこない
求めて作り続けた新しいかたちは認められず
師の作風に酷似していた旧風を人は惜しんだ(ホントハ
                     彼ノ師コソガ彼カラ
                     かたちヲ盗ンダノデハ
                     ナイカ?)
彼はたっぷりと怨念を養い運命を呪い
谷沿いの孤絶の日々に妄念を肥やさせるままに
世間と師と兄弟子たち弟弟子たちを怨嗟し続ける
数年もあんな狂気が放っておかれたのが不思議だと言われ
谷沿いの住まいより遥かに人肌に近い病棟に収容されると
生きたまま健康体のまま
石のように動きを止めた


偶然この芸術家の話を谷近くの宿で聞いて
ひさしぶりに心のツカエのとれるような
いい話 と思った
たっぷりと怨念を養い運命を呪い
自分の探求や思いの走りを認めなかった人々を怨嗟し続けて
くれて

ありがとう

ぼくなんぞは
ぼくなんぞは、ね
怨念の浅い溝を歩み
運命をほのかに呪い
人々を
やはり
曖昧に赦そうなどと……

ありがとう

不満だ嫌だとんでもないクソッタレてやんでえ地獄に落ちやがれ
心の嘘っぱちの厚皮を裂くということ
自分をぞっとする侘しさの中に置く者たちへの不和を垂れ流すこと
紳士だなんてとうに捨てて(ダイタイ、誰ノタメノ紳士?)
「いい人でした」と言われようというもっとも醜い欲望も捨てて
神への見栄っ張りも捨てて

怨念が銀のひかりの糸のように純化される

ありがとう

ひさしぶりにいい話
人生の
いいところで
しかるべきところで
怨念と呪いと怨嗟の教えに出会った
それらを抑えてはならない
心は神
わたしの神はわたしの心の動きとしてしか顕現はしない


病棟に収容されてからの芸術家の停止は徹底的だった
約五十年間完全な健康体のまま彼は一脚の椅子に座り続け
ついに一度も動かなかったという
立ち上がりもせず横たわりもしなかったので
看護人は椅子に排便穴を作らねばならず
容易に着脱のできる特製服を作らねばならなかった
約五十年間のあいだに看護人たちも医師たちも院長たちさえも替わり
芸術家だけが病棟の同じ部屋に座り続けた
窓に向かったまま座って眠り座って陽の移ろいを生き
一言もしゃべらなかったが看護人たちを無視しているふうではなかったという
暗い顔貌というのでもなかった
悟った顔でも明るい顔でもなく
見慣れた戸外を今日も新たに見るときに人がするような顔つきで
約五十年間
体のどこにも支障なく まるで
つい先ほど腰を下ろしたかのようにさっぱりと
座り続けていたという






「ぽ」78 2004年6月

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