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真昼



          おお世界よ! もろもろの新たな不幸が奏でる澄んだ歌よ!
                           ランボー『精霊Genie』




きょうは休日
きのうの夜おそかったので
まだ寝ている
そろそろ昼どき
でも
まだ寝ている

知りあいのダンサーのマミコちゃんが
ご主人のレストランバーの開店に呼んでくれた
そろそろおいとましましょうか
そういう時刻になって
小さな苗木のプレゼントをくれた

「これはふしぎな面白い木。
いくら肥料をやっても
三、四十センチ以上は伸びないんだって。
でも、四、五十年経ったある年
たった一年のあいだに
かならず三メートル以上に伸びてしまう。
それからはぐんぐん伸びて
数年で十メートルになっちゃうんだって。
条件がよければ百メートルにもなるんだって」

ありがとう
すてきな木をくれて。
言いながら
めまいがするようだった
四、五十年経ったら ぼくは八十歳を超えている
百歳にも近づこうとする頃だ
生きていられるだろうか その頃まで
この木をいつも手近に置いて

うとうとしながら
ぼくは八十歳になり
百歳にもなって
いつのまにか
死んでしまっていて
まだ年齢が半分だった頃や
半分にも満たなかった頃の
休日のおそい目覚めを思い出している
枕もとの目覚まし時計を
ぼーっと眺めている

そうして 思うのだ
あれもこれもうまくいかなかった人生だけれど
あれもこれも
すばらしかった
昼近い外は雨降り
部屋の中もすこし冷たくて
薄暗い感じの日だけれど
これもすてき
寒かったり暑かったり
喉が渇いたり
疲れて体が重かったり
それもすてき
目覚まし時計のプーさんの絵 それもすてき
幼時のミッキーの時計を思い出させてくれて
それもすてき

たぶんぼくは死んでしまっていて
なつかしい幽霊のように戻ってきていて
だから
なにもかもが輝かしい
すばらしい

死んでしまったのは遠いむかしの気がする
けれど もういい
きょうは休日
まだ寝ていて
目覚まし時計のプーさんの絵を
ぼんやり見たりしている
起きるということを
また するのだろうか
もう 死はないのだろうか
こんなことを語ったり
思い出すことを話したり書いたり
すべきか
すべきでないか…

まだ寝ている
ぐうぐうとお腹がなり出した
そうだ、
ぼくは知っている
時間は過ぎ去るのではない
時間はぼくの中に溜まっていくのだ
お腹には時間の胃袋がある
なにもかもがそこに溜まっていき
失われるものはひとつもない…

もう 真昼だ *



*アルテュール・ランボーへの遠い挨拶として。彼は、『イリュミナスィオンIlluminations』所収の『夜明けAube』を「目が覚めたら真昼だった(Au reveil il etait midi.)?」と結んでいる。惹きつけられてやまない、深い詩句だ。このように過去形で目覚めを、真昼を、すなわち、目覚めと真昼の婚礼を語る時、本当はなにが起こっているのだろう。作品自体が過去形のものだとはいえ、もし、「ぼくは目覚める。真昼だ」と最後を現在形で結んだら、なにが変わるのか。約三十年来抱えてきた、ランボーからの課題のひとつだ。ぼくは残りの人生の時間のそこここでも、やはり、この詩句をはじめとする彼の記述に、自分の思いや感情を押し当てるだろう。現実に出会った誰よりも心に親しく、大切なひとり。ぼくの本当の兄貴、ランボー。






「ぽ」81 2004年12月

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