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ARCH 58

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 2
         [第四十三号〜五十八号・2007.2.23〜2007.6.1]


■第四十三号(二〇〇七年二月二十三日)
 『トロワテ』という文葉は、「ひたすら、益体(やくたい)もない文章のために」作り続けているものですが、今回は、そんな文章ばかりを三つ。
 三十号に載せた「幸田文のおしゃれ」は、『美しいキモノ』という着物専門誌の現在発売中の春号にも、ほぼ同じかたちで掲載されています。そちらのほうには幸田文の写真も載せることができました。編集部の方のご尽力で、幸田文の娘さんである随筆家の青木玉さんに、直接、許可を戴きました。

■第四十四号(二〇〇七年二月二十四日)
 編集贅言、今回はとくにナシです。
 嗚呼、花粉の季節。
 これから五月頃までは、毎年、感覚と知力の冬眠時期。
 春のわたくしはケムール人のように溶解してしまいます。

■第四十五号(二〇〇七年三月一日)
 編集贅言、今回もとくにナシです。
 リア・ディゾンが本当に美人か…?などと美学的な疑念を抱いて過している春。
 マンガから飛び出してきたような顔立ちのああいうタイプの子は、いまの短大に大量発生している。そういう中でも奇妙に整いすぎているリア・ディゾン。あんなことでほんとうにいいのか?…と。

■第四十六号(二〇〇七年三月十二日)
 今回は短歌作品。
 四十号では古典的かなづかいのオーソドックスな習い事ふう短歌をわざと並べましたので、今回は現代かなづかいの、ふだんの思考そのものが比較的出ている感じのものを。

■第四十七号(二〇〇七年三月二十七日)
 執筆に参加していた『日本文学にみる純愛百選』(早美出版社、芳川泰久監修、1800円+税)が、今月ようやく出版されました。恋愛小説百十編の読書案内(タイトルより十編お得!)といった体裁を採っていますが、各執筆者が言いたい放題の自由なエッセーで案内しているため、ガイドブックを超えたおもしろさを備えるに到りました。書店でご覧いただければさいわいです。
 畏友・金沢百枝さん(美術史家)から、『芸術新潮』4月号が届きました。一〇〇余ページにわたって「イギリス古寺巡礼」を金沢さんが執筆していて、写真の、まぁ、美しいこと! 金沢百枝スペシャルというべき今号の『芸術新潮』はお薦めです。ロンドン大学で植物学を修め、東大で美術史博士となった中世美術専攻の金沢さんの学識と知性には、いつもながら驚嘆すべきものがありますが、文学の話をしていると、たいがいの著名な外国小説を読んでいるのにも驚かされます。グラックやカルビーノを論じあったのも、楽しい思い出。以前から、エッセイや小説などを個人的に送ってもらい、読ませてもらっていたので、今回、彼女の文章がすてきな写真とともにかたちとなったのは喜ばしいことです。ほんとうは美術史家を主人公にした一大小説を書きたいそうなので、これからのさらなる変貌が楽しい人のひとり。 

■第四十八号(二〇〇七年三月三十日)
 つくづく、春はいやなもの。そう気づかされるばかりの、あらたな春が、またひとつ。

■第四十九号(二〇〇七年四月一日)
 昨年十二月に裏原宿THCで行った講演録に、多少なりとも読みやすくなるように手を入れました。
 いちどに掲載するのでは長すぎるので、今号から四回に分けてお送りします。

■第五十号(二〇〇七年四月六日)
 昨年十二月の裏原宿THCでの講演録その2です。

■第五十一号(二〇〇七年四月二十九日)
 昨年十二月の裏原宿THCでの講演録その3です。
『プリモ・レーヴィの道』の先行上映に行き、ダヴィデ・フェラーリオ監督自身の挨拶・解説を聞いてきました。
 アウシュビッツで生きのびたイタリア作家プリモ・レーヴィが、八ヶ月かけてヨーロッパをめぐって帰国するまでを記した『休戦』をもとに、現在のアウシュビッツからイタリアまでを辿るドキュメンタリーのロードムービー。
「チェチェンに続け!」と、ロシアに鋭く敵意を持つウクライナの市民たちの現在や、「六十年も経ちながら、いつまでも悪人呼ばわりされる必要はない。自分も、子供たちも、なにも悪いことはしていないというのに」と主張するドイツの極右政党メンバーたちの、ごくごく理性的な権利回復要求も刺激的でしたが、チェルノブイリ近くのゴーストタウンのかつての住民たちのインタヴューなども重いものでした。若いニューファミリーが集まって活気のある明るい都市だったのに、突然、なんの説明もなしに、すべてを捨てて都市を離れよとの命令が出て、家財道具も車も衣服も、なにも持てずに退去。そして、子供たちは放射能検査で膨大な被爆を確認され…、それ以来、なにひとつ取り戻せていない、人生はあそこで止まったままだ…と言うのを聞くと、一九四五年より世界がよくなったわけではまったくないのが、自ずと浮き彫りに。  ベルリン、パレスチナに続いて、アメリカはいま、イラク人を分離するため、バグダッドにも壁を築きはじめています。

■第五十二号(二〇〇七年五月四日)
 昨年十二月の裏原宿THCでの講演録その4、最終部分です。
〈その1〉から〈その4〉まで、けっきょく、とても長い講演となったのでしたが、席を立たずに通して聞いてくださった熱心な聴衆の方々には、いまも感謝しています。
 機会を与えてくださった企画・演出の藤本真樹氏にも。
 楽屋で、いろいろフランス映画についての面白い話を聞かせてくださった映画評論家の村山匡一郎氏にも。
 ところで…
 六日に決戦投票の行われるフランス大統領選挙候補のふたり、ニコラ・サルコズィとセゴレーヌ・ロワイヤルのテレビ公開討論は二時間半に及びました。
 インターネットでも録画が公開されています。
 全編見てみましたが、意見を異にする人間どうしがしっかりと向き合って討論しあう姿には、快いものがありました。少なくとも、ぼくの周囲では、すっかり消滅してしまった姿です。立場と思想が違っても、斜に構えたり、端から冷笑的な言辞を弄したりせずに、時間をかけて丁寧に社会や政治について、あるいは文化的な問題について議論できる知人たちを持つ幸福な日本人が、いま、どれくらいいるものでしょうか。
 双方ともクリアなフランス語で議論を展開し、相手をまっとうに説得するべく論を繰り出していくのも、見ていて気持ちのよいものでした。小泉前首相のちゃちな詭弁、論旨を継続させる能力と意思の決定的欠如が思い出されました。

■第五十三号(二〇〇七年五月十一日) 『ぽ』は、いつも、十号分以上は作り置きがある。
 書き過ぎ、送り過ぎについて皮肉を言われることがあるので、なるべく配信を遅らせるように努めている。
 でも、あまり遅らせると、自分にとっての『ぽ』や詩歌の存在自体をすっかり忘れてしまうことがある。
 あ、出さなきゃ、そろそろ。
 というわけで、この配信。

■第五十四号(二〇〇七年五月十二日)
 花とりどりの季節になりました。
 挿し木した薔薇が大輪の花を咲かせて、ちょっとうれしい初夏です。
 小ぶりの黄薔薇もきれいな花をつけているし。
 数年前に十五センチほどの苗を買ったオリーブの木も、もう一メートル以上。
 ことしは花をつけています。
 他にも種まきや植え替えで、わずかの暇の時間の、忙しいこと。
 ことしは白い紫陽花が花屋にでまわっていますが、
 あれはけっこう珍しいとのこと。 
 梅雨が来るのも楽しみ。
 挿し木の絶好の季節です。

■第五十五号(二〇〇七年五月二十一日)
 道端や庭先などに、かなりドクダミが見られるようになってきた。十種の薬効を謳われ、昔から十薬という。虫刺され、腫れ物に効き、茶にもなるが、消臭効果もあるので冷蔵庫の脱臭剤代わりにとてもよいのだと、最近聞いた。迂闊にも、これには思い及ばなかった。
 また、この季節、道を歩いていると、電信柱の脇などちょっとした隙間に、ケシの花が揺れていたりする。あれは、ナガミヒナゲシ。ヨーロッパ原産のものだが、一九六一年、帰化が報告された。

■第五十六号(二〇〇七年五月二十四日)
 ほうぼうの植物園では、薔薇が満開らしい。心は、日々、薔薇園に遊ぶ。花というのは、実際にその場に行けば、あまりの豊かさに呆然としてしまうものだから、その場にいない、離れている、というのも、ひとつの価値あるあり方だろう。
 もちろん、不在や距離というものの価値を組み尽くそうとするのも、また、豊饒すぎて困難なことなのだが…

■第五十七号(二〇〇七年五月三十一日)
 忙しさは、ともあれ、よき友。
 不要の思いが繁茂する暇さえ与えないゆえに。

■第五十八号(二〇〇七年六月一日)
 草木をかかえて生活している者には、雨はうれしい。
 ふんだんに降りそそぐのを見ていると、安堵していく心がある。
 このところ、続けざまに大き目の薔薇の鉢植えを衝動買いした。
 品種は、ゾエとロンサール。ゾエのほうは野性ふうの蔓薔薇で、一四〇センチほどの丈のものを買った。短めの髪を振り乱したようなピンクの花びらを重ねている。豪華な花柄ではないが、香りが驚くほどよい。
 フランスの大詩人の名を付けられたロンサールは、豪華で格調高い花をつけ、枝ぶりも格調高い。白からピンクまでの色調が、名工の手になる繊細な大理石造りさながらの、しっかりした造形の一輪の花びらの中に、丁寧に重ねられている。居間に飾った瞬間から、室内は変わってしまう。まるで、周囲にある人も物も、この薔薇にあわせて、自ずと居住まいを正さざるをえなくなるような不思議な教育力を持っていて、高級な薔薇とはこういうものかとつくづく思わされる。近くによると、見惚れてしまう。飽きるということがない。高価だったが、こんな花の貴婦人の到来は何ものにも勝る。それがただ其処にあるというだけで、すっかりこちらの心が変えられてしまうような存在に間近に接し続けるのは、やはり至福というべきだろう。花好きの人々なら知っているだろうが、ある種の花木というのは、非常に強い霊性を持っている。近づく者に成長を強いてくるというところがある。
 数年前に挿し木に成功したオレンジ色の珍しい薔薇も、今年は大輪をふたつ咲かせ終え、今また、七つもの蕾を付けている。六〇センチほどしかない木で、一度として、こんなに見事に咲いたことはなかった。どうしたことかと喜びながら、毎日、楽しく眺め続ける。

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