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ARCH 59

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 3
         [第五十九号〜六十九号・2007.6.2〜2007.7.10]


■第五十九号(二〇〇七年六月二日)
 有吉佐和子の主な作品を読み直したり、新たに読んだりしてみたが、その力量も面白さも圧倒的だった。
 人気作家だったし、才能は疑いようのないものだったというのに、生前、文学的には不遇なのを自認していた。当時の文壇の男性作家たちが彼女を認めなかったそうで、橋本治の証言によれば、「私は男の嫉妬が如何にすごいものか、はっきりと見た」と語っていた。
 彼女のそうした発言、彼女についての幾多の証言、作品そのものをあれこれと見ながら、いろいろなことを考えさせられた。
「嫉妬」したとは、どういうことか。
 それほど彼女を認めていたということであり、その能力を的確に見抜いていたということにもなる。
 男性作家たちも、やはり、なかなかのものだったのだ。
 見る目がなく、自他の能力を測る力がなければ、「嫉妬」など発生しようもない。
 彼女に「嫉妬」したのが具体的に誰々であったかわからないが、有吉のもの同様、それら男性作家の作品も、いまの私は好むのではないかと思う。
 後世というものの残酷さ、だろうか。

■第六十号(二〇〇七年六月六日)
 梅雨の来る前に、こんなものはいかが?

■第六十一号(二〇〇七年六月九日)
 なんだか突然、というぐあいに、身のまわりに緑があつまってきた。
 緑というのは、手間をかけるのを要求してくる。
 とはいえ、もともと仕事と家事で忙しかったのだから、おいそれと時間の都合がつくわけでもなく、深夜になって、新しい鉢への草木の植え替えなどをしていたりする。なにか怪しいことでもしているような気になるが、日中は仕事に出ているのだから仕方ない。
 五リットルだの、十リットルだのといった土の袋を、今月、いくつ買っただろう。仕事帰り、まだ開いている店にまわって、重い土や肥料や鉢を買って帰る。
 薔薇にしても、咲いている今はいいとして、これからは剪定だのお礼肥だのと忙しくなる。園芸家ではないし、それを趣味としているのでもなく、ただただ好きなだけ、時間はない、という身としては、なるべく楽に済ませたいところだが、なんとなく大事にしていきたくなってしまうというのが、薔薇。
 覚悟して、育て方や肥料のイロハを、素人なりにゼロから学ぶことにした。
 「おお薔薇よ、汝、美しき矛盾…」
 こんなリルケの詩句をむかし覚えたことがあったが、この通りでしたっけ?

■第六十二号(二〇〇七年六月十四日)
 雨といえば、たとえば大西民子の、こんな歌。
妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか (「印度の果実」昭六十一)
似た趣のものとしては、雨を歌ったものではないが、中条ふみ子にこんな歌が。
出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ (「乳房喪失」昭二十九)

■第六十三号(二〇〇七年六月十七日)
 金曜日、あまりに美しい空と雲のようすに、職場の同僚が「なんか、ヘンですねぇ」と言った。
 遠方から東京に帰ってくる列車の中から、層を異にしたさまざまな種類の雲が見え、澄んだ夕景がひろがっていた。
「大きな天変地異の前って、こんなふうなものでしょう?」と応えると、
「なるほど、そんな感じだ」
「これを最後の見納めにしろ、っていう感じですね」
「ほんとうに、いよいよですかね」
「そうでしょう。いよいよですよ。いままであったものが、すべて消えますよ。制度も、思い出も、戦後がどうしたこうしただの、国民の生活がどうだのといった、すべてが」
 たぶん、だれもがそれを望んでいるはずだろう、とは言わなかった。
 あまりに当然のことだから。
「そろそろ」来る天変地異はべつとしても、十年後、二十年後のこの国がどこまでメルトダウンしていくか、如実にわかるような職場にいるので、どんなにひどく見えても、この国は、まだまだ今がいちばんいいのだと、ぼくらは考えている。
 杞憂であればいい、などとは思わない。
 確実に、どうしようもない方向に驀進している。
 すでにSFの世界にいるのだ。
 それも、かなり出来の悪いSF。

■第六十四号(二〇〇七年六月十七日)
 小さな苗から育てたオリーブの木が、ことしは実をつけた。どのくらいまで実が育つだろうと楽しみにしていたら、おととい、なくなっているのに気づいた。スズメがきれいに食べてしまっていたのだ。マンションの三階なのに、よくスズメがきて、朝昼夕、集まって騒いでいる。連中、オリーブの実を見つけた時も大騒ぎだったはずだ。
 ベランダでも、草木が増えると、ミツバチもくれば、蝶もいろいろ来るようになる。鉢に生えたオオイヌノフグリやカタバミなど、シジミ蝶はけっして見逃さない。どうして此処がわかるのかと不思議に思う。自然というのは、いつも、人間の理知をはるかに超えて、融通無碍に振舞う。
 ちなみに、オオイヌノフグリは属名ベロニカ。キリストに血を拭う布を捧げた女性。カタバミの葉にも用途がある。蓚酸が含まれているので、この葉で磨くと銅の汚れがきれいに落ちる。
 多用な雑草も、だてに生えているわけではない。いろいろな用途や物語がある。

■第六十五号(二〇〇七年六月二十三日)
 雨が降ってくれると、植木に水をやってまわらなくて済む。
 勤めに出る間際、水遣りをする時間がない時など、帰宅まで落ち着かない気持ちを抱え続けないといけないので、外出時の雨はうれしい。
 ふつうとは逆の、こんな思いを持って日々を暮らす人々も、きっと多いのだろうと思う。

■第六十六号(二〇〇七年六月二十五日)
 学生たちに見せようと思い、寺山修司の『書を捨てよ町に出よう』や『田園に死す』を久しぶりに見直していた。
 作中の人物が、「俺には故郷もない、祖国もない、世界もない」といった内容のことをいうのを聞いて、「世界もない」という部分は寺山の読解から忘れられ、「故郷」や「祖国」がないことの方ばかりが拡大されてしまった、と思った。
 そうか、寺山は、「俺には世界もない」と言っていたのか。
 知り尽くされたかの感のある寺山は、これだけでも一気に面白く成り変わるではないか。
 DVDやヴィデオを借りるとなると、すぐに一〇本近くになってしまうのは今も昔もかわらず、瀬々敬久や黒木和雄、行定勲、熊切和嘉などのものも借りてきてしまう。今週は、4本、映画館でも見ておかないといけないものがある。
 読んでいない表現、見ていない映像、聞いていない音があるのが耐えられない、という病。これがそのまま、まだ、エネルギーになっている。
 眠らない一週間が、また始まる。

■第六十七号(二〇〇七年七月七日)
 七月が、いちばん好きかもしれない。
 まだ、若い夏。
 頂点はこれからで、暑さも、梅雨の残りも、天候不順さえ、どこか生き生きとしている。
 七月をどう生きるかで、一年は決る。
 八月からは、すでに余生。
 八月八日の立秋の頃、とくに浜に遊んだりすると、もう、すべてが終わっているのがわかる。

■第六十八号(二〇〇七年七月九日)
 それにしても、今年からの地方税増額ときたら!昨年の二・五倍ほどの実質納税額になっていて、もはや、余剰生活費は残りそうもない。毎月引き落とされる額の大きさは、無駄遣いした時のカード支払い額どころではない脅威と不快さ。しかも搾り取られる金の行く先は、どんな名目であろうと、「なんとか還元水」もどきのあれこれ。
 このメールの送り先の方々の誰よりも貧困にあえいでいる私としては、あらゆる消費をさらに切り詰めるのを新たに決意。
 温和に見える日本国民の低所得層は、いよいよ食うに困ったときには歯止めが全く効かなくなる。これは歴史の証明するところ。失うものがなくなった層は、なにかのきっかけで動き出すと、ほんと、怖い。いよいよ過激な政治化が始まってくれるでしょうかネ?個人武装権と民兵組織権は確立されるでしょうかネ?日本ジャコバン派創設の長い長い夢は実るかしらん?(これらの文に、「ネ?」や「かしらん?」などをつけないとマズイような淫靡な表現論的権力網が張り巡らされていると感じられるところが、なんとも平成なのであるナ…)
 花よ蝶よの詩歌、お白け戯れ歌、ナンセンス自由詩を作るのは、どんな時代でも最高のカモフラージュ。「えぇじゃないか」ないしは「造反有理」の様々なバリエーションが、昭和・平成の現代詩だった。ゆえに現代詩、尊ぶべし。そもそも、日本近代文学自体が、反薩長土肥の自由民権運動の表現スタイルだったではないか。なんと美しく政治的な日本近代文学。
 アメリカ独立宣言はこのように言う。
「生存、自由、幸福の追求を含む侵すべからざる権利が創造主によって与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関を持つわけだが、その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。いかなる形態であれ、政府がこれらの目的にとって破壊的となる時には、政府を改めたり廃止したりして、新たな政府を樹立する権利が人民にはある。また、人民に安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思われる仕方で政府の基礎を据え、その権力を組織することも人民の権利である。(…)権力乱用や権利侵害が度重なり、絶対専制の下に帰せしめようとする意図が明らかになる時、そのような政府を廃棄し、みずからの将来の安全を守るべく新たに備えるのは人民の権利であり、また、義務である」。
 薩長土肥に占領された後、まだ独立を果たしていない日本列島人たちには、厳粛にして眩い、夢のような言葉。
 まだまだ他国の言説を足場にして踏みあがらねばならぬ幾多の山行。
 アメリカの銃規制をうんぬんするより、刀狩りされたままの屈辱状態をまず取り除かねばネェ。
 アメリカ国民の武装は、なによりも自国政府に向けての防衛措置なのだし。

■第六十九号(二〇〇七年七月十日)
 ヴェランダの柵に絡ませた朝顔は、もう大きな蕾をつけている。明日か明後日には咲くだろう。
 以前、雀に喰われたと書いたオリーブの実が、いくつか残っているのを見つけた。一センチ以上の大きさになっているので、もう喰われる心配はないだろうか。
 最近、職場の弱った観葉植物の世話をしていたが、そのお礼にということで弁慶草の苗をもらった。 帰宅時に鉢を買ってきて、夜、仮り植えをする。厚い葉の縁に、ホテイアオイにも似た小さな苗がぷつぷつとたくさん付き、空中で小さな根を生やしはじめる奇妙な草。多産を思わせるため子宝草ともいうらしい。苗はやがて自然に地面に落ち、根を潜らせて大きく成長していく。どんどん殖えるので、弁慶草を育てている人たちは、幸福の手紙のように、知り合いや出会った人たちに小さな苗を配り続ける。その折り、なんらかの会話も交わされれば、当然関わりもできるので、弁慶草サークルとでもいうものが、じつはひそかに国内に広がり続けているらしい。

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