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      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 4
         [第七十号〜七十五号・2007.9.10〜2007.9.20]


■第七十号(二〇〇七年九月十日)
「きみの雑詩文がこなくて、さわやかな夏が過せたよ」というメールを多数いただいた。
 言ってくれるじゃないの。
 そろそろ、さわやかさにもオサラバしていただこう。
 ウザッタイ詩葉メール便、秋の部のはじまりなのであります。

■第七十一号(二〇〇七年九月十二日)
 健康問題などは、口実に過ぎないだろう。純粋に経済上の理由がある。
 十二日午後の突然の安倍首相の辞意表明が騒がれているが、マスコミの目は節穴なのだろうかと訝しく思う。
 遅くとも九月七日には、すでに決っていたことではないか。
 というのも、モルガン・スタンレーの経済研究主席ロバート・A・フェルドマンが「安倍改造内閣の旧自民党化、円資産離れ加速か」という報告を、この日に発表していたからだ。内閣改造による支持率上昇など、日本国内だけの愚劣な一時的効果として冷笑し、安倍内閣ニッポンの、海外における甚だしい信用失墜を厳しく衝いていた。
 安倍内閣への死刑宣告であるのは明瞭だったから、七日にこの報告を読んだ時には、さすがに驚いた。論調があまりにはっきりしているので、モルガンだけでない海外資本の反安倍政権姿勢が、すでに世界経済の底に拡がっていると見なすべきだろうと思った。
 旧自民党色を強めた安倍改造内閣だったが、そうした退行傾向がさらに濃くなれば、日本に投資する海外資本は、企業収益の上昇余地縮小を恐れざるをえなくなる。努力してきた歳出削減策においても逆行現象が始まり、そこに増税が加わってくれば、債権利回りに上昇圧力がかかる。円建て資産の魅力は大きく低下していくことになるわけで、すでに始まっている日本売りが、いっそう徹底したかたちで進行しかねない。
 現代のGHQである海外資本は、こうした点を突きつけることで、日本の経済界に安倍内閣停止を命令したと見るべきだろう。巨大な商店に過ぎないこの日本という国の政治は、アメリカ現政権の言いなりにならない場合は稀にあるとしても、国際経済の巨大なパワー群に従わなかったことはない。

■第七十二号(二〇〇七年九月十四日)
 プッツン辞任の本当の理由が三〜四日の入院で済む「機能性胃腸炎」だとは、まさか、誰も信じてはいまい。
 しかし、いったん欠陥部品として認識された以上は、どんなお粗末な理由をつけてであれ、とにかく排除され廃棄されていくばかりのニッポン経済欲望工場。
「安倍晋三」は、政治家としての将来のいっさいを放棄するかたちで政治自殺辞任をしたわけで、とにかく盛り下がる人やモノを忌避し、景気よさだけを尊ぶ“おらが村祭り”ふうのこの国の社会の表舞台からは、今後すがたを消さざるをえなくなってしまうのだろうが、ところがどうして、物語好きや小説好き、トンデモ話好きの人びとにとっては、いよいよ見過ごせないキャラクターとして輝き出そうとしている。
 夏前には左頭部にハゲが露呈する場面がたまにあり、「あ、安倍ちゃん、ヤバイ!」とわたくしはよくつぶやいていた。あの栗カステラふうのヘアースタイルでじつに巧妙に隠されていて、まず露見することはないのだが、なにかの拍子に、たまに見えてしまう。以前はなかったはずなので、「これはそうとう来てますねぇ…」と他人事ながら哀れに思っていたものだ。
 すでに、岸信介の娘である母親への過剰なマザコンさ加減や、アロマ好き、アロマキャンドル好きは知られるところだったが、ここへ来て「安倍晋三」裏話は噴出し始めている。
 上杉隆が、いま店頭に出ている『週刊文春』(九月二十日号)に「『錯乱』安倍晋三の『四人の神』」というスクープを書いているが、ジョナサン・スゥィフト先生を敬愛する全方位批評・人類冷笑精神研修生、かつ、トンデモ話マニアのわたくしにとっては、これは、ちょっと面白い。《慧光塾》というご託宣宗教経由で購入する「神立の水」だけを安倍が頼みにして飲んでいたばかりか、内閣秘書官の井上義行から、改造内閣閣僚たちに至るまで、現実にはここの「宗教」のお告げで安倍が選んでいたというのだから、これまでの噂で聞いていた以上のスピリチュアルとんでも内閣≠ネのであった!
 これに留まらず、最福寺の「炎の行者」池口恵観からは、 最福寺の総代である鳩山邦夫などをぜひ閣僚に、というプッシュがあったというし(道理で、鳩山邦夫は安倍をかばい続けている…)、安倍家がもっとも親しい山口県の《新生佛教教団》は、安倍晋三はもちろん、石原慎太郎、石原伸晃、高村正彦、西村健夫、平岡秀夫などと関係している。そもそも安倍の所属していた現・町村派の清和会は、反共運動を軸とする宗教法人をバックにしていて、統一教会と連繋していた。福田派には、かつて、立正佼成会、真如苑、霊友会が付いたし、岸信介や安倍晋太郎は統一教会の大会に参加し、旧田中派は創価学会と結んでいた。
 やはりこの国の政治は、いや、まつりごとは、まさしく祀りごとであって(もちろん神は、金と権力と色欲である。これは西鶴先生の頃から微塵も揺るがない…)、現実には「宗教」戦争の様相を呈しているらしい。見方さえ工夫すれば、どうやら、山田風太郎先生の物語世界程度には面白そうなのである。
 首相執務室の机は、さまざまな宗教団体からのお札や、お守り、仏像、鏡などでいっぱいだったという。今のうちに誰か、そんな執務室の写真を撮っておけば、三島由紀夫の市ヶ谷自決現場ぐらいのほの暗いニッポンどろどろ社会のなさけな〜い風景が記録されてとってもいいのに、と思うのだが。
 あ、こんなことにかまけていないで、時流に関わりなしに盛り下がるばかりの詩歌の世界に、また戻らねば、戻らねば!!!!!

■第七十三号(二〇〇七年九月十六日)
 先回の号は71号ではなく、72号の誤りでした。
 ひょっとして、いま思い出しておくべきかもしれない幾つかのことば。
「百年後にだれがヴィレール氏やマルチニャック氏のことを語るでしょう?」(スタンダール。「ヴィレール氏やマルチニャック氏」は当時の政治家。ともに首相経験者)
「性急に事実と理由の探求に身を投じたりしないこと」(ジョン・キーツ)
「結論を出さずにはいられないところに、愚かさというものはある(La betise consiste a vouloir conclure)」(フローベール『紋切り型辞典』)
「ブルジョワの中に私たちはどうしようもなく埋没している。20世紀を見たいとは思いません。三十世紀は、まったく事情はちがっているでしょう」(フローベール。一八六五年、シャントピー宛書簡)
「社会的ユートピアの根底をなすものは、圧制、反自然、魂の死…」(フローベール。一八三七年、ジュネット夫人宛書簡)
「技術主義の時代にあって新興宗教の異常な隆盛をみる、それが文明の没落の兆候だ」(シュペングラー『西洋の没落』)
「すべての賃金労働者は、方向喪失、寂寥感、依存性という疫病に苦しむ」(イヴァン・イリイチ)
「政治機構はますます宇宙の状況と相容れなくなってきている。政治機構は進化的な突然変異を妨げる環境の均一性を強制することによって、宇宙へ向かうわれわれの命綱を無残にも切断しているのである」(ウィリアム・S・バロウズ『ウエスタン・ランド』)

■第七十四号(二〇〇七年九月十八日)
 閑静な¥Z宅街に住むのが大嫌いなので、極貧生活ながら、いまの仮住まいはけっこう気に入っている。
 ひっきりなしに人や車の行き来する道が窓の下を通っている。
 まず、深夜まで人通りは絶えない。
 さすがに夜二時や三時になれば通行は減るが、酔っ払いや若者が、よく大声を張り上げて通っていく。
 五分歩けば、二十四時間やっているスーパーがいくつかあるし、朝四時までやっているツタヤのCD・DVDレンタル+販売部と書籍部がある。休みの時には、よく朝の三時や四時まで本や雑誌を見ていたりする。新作CDの試聴もかなりできるし、貸し出しCDなどはその場で聴けるので、ほとんど個人的な図書館のよう(ツタヤのバイト従業員たちは、まともな時間に行くと、ずいぶん偉そうにして気取っている場合が多いのだが、深夜に行くと、けっこう和らいでいる。あれはいいナ。)
 望むらくは、渋谷のセンター街の中や歌舞伎町に住めれば、と本気で思っている。老いが進むほど、そういうところに住むのがいい。
 それほど喧騒と猥雑さが好きだ。
 静寂は死。
 上品さは侘しい。
 時代の浮薄な流れに踊らされる人びとを視野におさめつつ、抽象きわまりない思考や言語配列をすることこそ、喜び。
 静かな書斎でベケットやドゥルーズに耽溺すれば、たんなる時代遅れの気取り屋になり下がるに過ぎない。しかし、醜く、儚い風俗の中で読めば、一語一語がはじけ続ける。あらゆる物には、それなりの沸点に容易に達しうるふさわしい環境があるものだ。寺山修司は「書を捨てよ、町に出よう」などと浅薄なコピーを吐いたが、万巻の書群、めちゃくちゃに入り乱れた多様な音源、動画+スチールの泥沼のように混濁したイメージ群などと絶望的なまでに連結されたままで町に出たほうが、はるかによい。マラルメ(という固有名詞を出してしまうのは、もちろん知的俗物そのもので恥ずかしいのだが、ロンサールやボワローやルヴェルディやエレディアを出すのも、それはそれで臭いので…)と31アイスクリームとルイ・ヴィトンと和泉式部と100円ショップのキャンドゥとポルシェ販売店はいつも連結しているのだし、その連結のなされたまま、イメージ固定されることなく、相互に交通がなされ続けるべきだ。
 体力がなくなってくると、人はそうした連結を断ち切ったかたちで、上品や伝統の中に逃げていく。
 やっぱり体力ですね、大事なのは。
 枠を踏み外したり、たえず皮肉や小言や憎まれ口を言うような体力がなくなったら、人間は終わり。
「しかし世の中は小癪になりましたネエ」と幸田露伴は言ったものだったが(『望樹記』)、つねづね人からそう言われて、煙たがられ嫌われるのこそ、健康というもの。

■第七十五号(二〇〇七年九月二十日)
 ともすれば忘れがちになるが、まだ「安倍内閣」は続いているのであった。毎日の新聞の首相動向欄は、「信濃町慶応大病院にて療養中」とあって、なんだかのんびりしたものである。
 小泉純一郎は、「やってみてわかったが、首相なんて誰でもできる」と語ったことがある。今回よくわかったのは、首相なんていなくっても、“やっぱり”大丈夫なんだ、ということではないか。安倍晋三のシンクロ率が急速に低下し、ついにゼロになったというのに、国家システムというエヴァンゲリオンは機能し続けている。シニカルに眺めるのでなく、正面から、現代の国家というものの機能形態をしっかり捉え直す必要があるようだ。本当に大事なのはどの部分で、大事と見えながら代替可能・取り外し可能なのはどの部分か。案外、ほとんどの組織要素が不要かもしれない。
 組織論の専門家たちは、もちろん、こうした点での研究を急テンポで進めている。一九五〇年代の中央集権型組織(Centralized Organization)から脱却し、とりあえずはアルカイダの組織に実質的な成果が見られる非集中型組織(Decentralized Organization)への移行が、現代組織論の大筋ということになろう。
 ブラック=ショールズ方程式を組み込んだデリバティブ・トレーディング・システムを開発し、ノーベル賞受賞者のウィリアム・F・シャープ(近代ポートフォリオ理論とキャピタル・アセット[金融資産]プライシング・モデルに寄与)の助言を受けてリスク・マネージメント・システムも開発したロッド・ベックストロームの『ヒトデはクモよりなぜ強い』が翻訳されたが、彼は、一九五〇年代の中央集権型組織をクモの巣と呼び、来るべき非集中型組織をヒトデと呼んで考察を進めている。
 クモの巣の場合、網の目状に緻密に張り巡らされ、情報が有機的に行き来するレベルまでに成長することも可能だが、それでも、いったんクモの頭が切り落とされれば、たちどころに機能は停止してしまう。それに対して、ヒトデ型組織のほうはしたたかだ。ヒトデには頭がない。足のどれを切られても自然に治癒し、もとのかたちに戻っていこうとする。ほぼ永遠に活動し続ける非中心型ネットワークだ。
 このタイプの組織の最大の特徴は、リーダー不在であるにもかかわらず、組織構成員がつねに目標に向かって行動し続ける点にある。リーダーはいないが、カタリストと呼ばれる人物たちがいて、目標や仕組みのプレゼンテーションを続ける。それを理解し、採択したチャンピオンと呼ばれる構成員たちが、たがいに連絡を取りながら動き出す。多様化し、フラット化した現代社会を動かす触媒がカタリストであり、その意味を理解して自主的に行動して目的を達成するのがチャンピオンたちだと、ベックストロームは言う。 
 ここには、現代社会の特徴についての興味深い観点がある。多様化しフラット化した現代社会においては、局地的に質的変容を発生させないと、人心の運動は惹き起こせないということが、ひとつ。人間はつねに、量的変化が甚だしく大きくになる場合には、量でなしに質の変容が発生したと錯覚しやすいので、巨大な量的変動を一気に惹き起こす方法もある(9・11のアメリカ自作自演テロのように)。
 もうひとつは、行動する構成員たちに、その行動が自主的だと思わせないといけないのが現代社会でもあるという点。構成員たちの「自主性」などもちろん錯覚なのだが、そうした錯覚を惹き起こさないかぎり、構成員につらい営業もさせられないし、残業代なしの労働もさせられないし、自爆テロもさせられない。目指されているところは、全人類の完璧なヴォランティア化である。かつてルソーが一般意志という錯覚の捏造によって、人類全体を民主主義イデオロギーのヴォランティアに改造すべく、大がかりな人類史的変動を惹き起こす準備をしたように、現代の組織論者たちは、機能しやすいカタリストとチャンピオンの設定に心血を注いでいる、と言ってもいいのかもしれない。
 もちろん、コジェーブを思い出すまでもなく、消費社会として世界の最先端に位置している日本ですでに顕著なように、「自主性」なるものが個々人に及ぼす牽引力は、消費社会の度合いが進展するほどに極端に低下してくる。自我の強さの度合いに応じて、「自主性」という錯覚は、「神」や「ご託宣」や「亡くなったご両親やおじいちゃん、おばあちゃん」や「オーラ」といった錯覚に替えてもいいだろう。「リサイクル」や「エコ」や「自然にやさしい」などという方向指示器も、感傷的なたぐいの民族には有益かもしれない。人間がなにかに従って感覚し、思考し、計画し、行動する以上、いかなる時代においても、その「なにか」を奪取してしまえば、民主主義というカモフラージュの下、奴隷化はつねに可能である。
 こうした根源的な人間の欠陥を見続けたゆえに、心霊指導者クリシュナムルティは「いかなる権威にも、いかなる宗教にも、いかなるイデオロギーにも、まわりの誰の言葉にも従うな」と言い続けたし、ジョイスは、NON SERVIAM(我は仕えず)というミルトン『失楽園』中のルシフェルの言葉を座右の銘として、誰にも従わず、いかなる体制にも仕えないという文学者の倫理を守り続けた。
 ともあれ、中央集権型組織の綻びはもはや隠しようもなく、しかもそれが、いまだに官庁などの保守的な組織の軸となっている以上は、多少の失敗があるとしても、非集中型組織の研究や実験に勇敢に取り組む人びとの側にこそ、次代の権力は確実に移行していく。
 組織論と支配論の要諦は、他者の奴隷化の秘訣をつねに先に獲得することにあるが、そうであるがゆえに、奴隷化を逃れようとする人々のほうでも、いっそう先んじて奴隷化の秘訣を追求していく必要がある。もっとも寛容で、平等主義的で、平和的である人びとは、つねに、組織論と支配論において、もっとも悪魔的かつ怪物的でなければならない。

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