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ARCH 62

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 6
         [第八十四号〜九十三号・2007.10.14〜2007.11.5]


■第八十四号(二〇〇七年十月十四日)
 ああ、秋はいい。
 涼しいのはいい。
 汗をかかないのはいい。
 夕方の寂しさが、そのまま充実の比喩になっているなんて、いい。

■第八十五号(二〇〇七年十月十八日)
 書くことなど何もないのに、この欄にむかうと、なにかしら書きつけてしまう。いつもディッキンスンの詩片を思い出す。
「これは一度も手紙をくれたことのない世間のひとびとに送るわたしの手紙です」(四四一番)
「世間」とは、けっきょく、自分のことだ。「一度も手紙をくれたことのない」自分にむけて書く。
 なぜ「書く」?
 言葉が、全的な生そのものだからだ。比喩でなしに。さらにいえば、本当に、言葉こそが神だからである。どんな言葉も、例外なく。
 書くということは、どんな場合にも、そのまま純粋信仰である。

■第八十七号(二〇〇七年十月二十一日)
 杉並区はゴミの分別を廃止したそうで、ゴミ(燃えるゴミ+燃えないゴミと資源ゴミだけになるらしい。他の区にも急速に広がっていく政策だろう。
「燃えないゴミ」を東京湾に埋めようにも、もうパンク状態で、高熱炉ですべて焼却するしかなくなったところから来た結論だそうな。そもそも、高熱炉ではなんでも燃やせたはずで、ダイオキシンもわずかしか出なかった。
 となると、あの分別さわぎはなんだったのか、炭カル袋なる特別のゴミ袋の押しつけはなんだったのか、ということになる。
 もちろん、それで儲ける奴がいて、行政の一部が結託した、と考えるのが常識。
 かつて勤めていた会社の上司は、新聞からビニール、プラスチックから生ゴミに到るまでのすべてを、おなじゴミ箱に捨てていた。とりわけ、見終わった朝刊や夕刊をまるめてゴミ箱に捨てる様子は、ほとんど爽快だった。資源ゴミという言葉がなかった時代ではあったが。
「新聞はまとめておいて出したほうがいいんじゃないですか」と彼に言ったことがある。すると、「駿河さん、こんなもの取っておいて、場所をとられて、まとめて出して…、それで儲かりますか?」との答え。
 この人とはどこまでも思想も感性も違ったが、しかし、多くのことを学んだ、と今は思う。とりわけ、朝令暮改の性質を根本的に持つ日本の行政にはまじめに従うべきではないこと、世間の雰囲気から出てくる常識に従うと馬鹿を見ることなどを、具体例とともにずいぶんと教えられた。
 アフガン攻撃からイラン戦争に進んでいく時代の中で、知識人や若者たちがアメリカのネオコン批判をしているさなか、彼はネオコンと日本の実業界を結びつける仕事に飛び込んで財を成した。もう勤め人などしていない。アメリカやアジアの政財界と日本の政財界の裏で、いろいろな委員会や会議を組織しながら、けっこうのんびりと暮らしている。

■第八十八号(二〇〇七年十月二十五日)
 トンデモ情報ながらも、方々から来るものなので注目しておくべきもののひとつに、ヨーロッパ諸国の自国通貨大量準備のウワサがある。
 もちろん、ヨーロッパ通貨はユーロに統合されている。が、いつ起きても不思議のないドル崩壊は、発生時、必ずユーロに大打撃をもたらすはずなので、その時に一気に通貨切り替えをして乗り切るため、高性能チップの埋め込まれた管理しやすい新フランや新マルクなどが密かに大量に刷られ、準備されている、…そういうウワサだ。
 ドル崩壊=世界経済の破綻、と考えるのはもちろん誤りで、ドルを基軸にしての過剰投資や経済活動を行っていた投資主体から、別の主体に一気にマネー流動が生じるということにすぎない。アメリカ自体がドルの次の通貨をすでに準備し終えている、との当然の仮定を補助線としてみれば、近未来の構図はもっと明快になる。想像を絶する巨額の損失を被る側と、想像を絶する厖大な利益を収める側がそこには同時に発生する。ドル崩壊が惹き起こされる時とは、それこそ100年規模にわたる経済王国基盤を次世代の金融グループがすでに作り終えた時、ということになろう。現勢力に追従するばかりの日本のような金融市場は危ない。他者の土俵には表面的に合せるだけで、次代の自前の土俵を準備している主体だけが、歴史の次の時代を支配する。いま現在の文学権力、芸術権力、流行権力にぴったり寄り添う作り手たちに未来が全くないのと同じことだろう。現在とは、つねに、すでに遠すぎる過去だからである。現在とは、終わっている者の別名である。
 原油高騰が騒がれているが、マネー操作の常識からいえば、急速に上げて多量の金を集中させ、ある時点で一気に落とす方向に行くはずだろう。落とす前に先物売りを出しておく勢力があれば、これもまた巨額の利益となる。一方で、原油高騰の継続に合わせた準備をした業界や金融主体を弱体化や壊滅に追い込むことができる。
 いま目の前で演じられている現象は必ず反転する。というのも、反転だけが多額の利益機会だからで、いかに大がかりな反転を演出するかに国際的な諸々の資本は賭けている。

■第八十九号(二〇〇七年十月二十八日)
 人間行動をドーパミン放出量の上で比べると、性行為を一〇〇%とした場合、美食五〇%、アルコール二〇〇%、ヘロイン三〇〇%、コカイン四〇〇%、アンフェルタミン一〇〇〇%、LSD三〇〇〇%となるらしい。良質の瞑想が一〇〇〇〜二〇〇〇%だというから、快楽追求としては最も安上がりか。
 詩作や文章作成は、外的制約(締め切り、字数、内容制約等)なしの場合、よい走行状態において、良質の瞑想程度にはドーパミンが出ているだろう。筆記具、視力、灯りなどを必要とする分、瞑想には劣るかもしれないが、それでも経済的な快楽手段の部類に入るといえようか。

■第九十号(二〇〇七年十月三十日)
 普段の体調はいいほうだと思うが、眠れぬままに仕事に出ることは頻繁にある。さすがに夕方には疲労困憊し、最期に近い場面での木曽義仲の言葉、「日来(ひごろ)はなにともおぼえぬ鎧が、けふはおもうなッたるぞや」といった感慨に拉がれたりする。
 夕方になれば一日が終わる、そう思えるような甘い生活をしたことは、一度もない。どこにも寄らずにすぐ帰るにしても、何リットルもの液体(ミルク、みりん、料理酒、醤油、オリーブ油、ドレッシング…)や大根、人参、ジャガイモなどといった重いものを含む買い物、筋肉運動、夕食の準備、二、三回は洗濯機をまわして外に乾したりしているうちに、すぐにも二十二時はまわってしまう。こんなことを自分がしているあいだに、家人に豪勢な食事を作らせ、その後は書斎でウィスキーの香をくゆらせながら、悠々自適に研究や創作に没入していられる知的階級たちがいるのだと、いつも思う。
 今どきプロレタリアという言葉を使えば失笑されかねないが、自分では、現代のプロレタリア三文詩人のひとりだと思っている。
いささかレトロとは思いつつも、また悪趣味で衒学的だとは思いつつも、取っ付きづらい言葉や表現を散らしながら分かりづらい現代詩ふうのものを書くことがあるのも、下層階級の三文詩人でもこのくらいはできる、そう見せたいためかもしれない。もちろん、そんなものはいずれすべて捨てて、まどみちおや八木重吉や金子みすゞ、あるいはディッキンスンやラングストン・ヒューズやプレヴェールのようにだけ書くようにしていかなければならない。文芸における衒学っぽさ、アカデミズム的未消化表現は、つねに恥ずべきことであるから。
 ソレルスとの対談でフランシス・ポンジュが語っていたことを思い出す。アシェット書店に勤めていた貧困時代、朝から夜までの激務で休みもなく、詩作の時間などといったら、夜に二十分や三十分とれるかどうかだった、と。彼の初期の作品はそのような条件で書かれた。その貴重な二十分や三十分でさえ、少しでも気を抜くと居眠りしてしまうので、鉄の意志が必要だったらしい。
 意志、計画(それとともに、直観と絶えざる変更、変質)、勉強、勉強、勉強、一ページでも多量の読書、多量の映像と音楽、家事全般にわたる生活労働もすべてこなすこと、多岐にわたる領域の人々との交際も維持すること、…休息は死後にとっておけばいいのだ。まだまだ時間や生活の無駄があるのだから、もっともっと自分を酷使していかないといけない。人生を愉しむとか、ゆとりある何々とか、そんなものは薬にもしたくない。
 優れた企業のトップたちはのんびりと王様暮らしをしているのだろうと思っていた時期があるが、なにかの雑誌で彼らの生活様式を見て驚かされた。四時や五時に起床する人が多く、会社にも六時や七時ごろには出勤。夜はパーテイーなどでの接待、帰宅は深夜をまわるが、翌日はやはり四時や五時起き。そんな人たちが多かった。資本主義の最前線の指揮官たちというのは、なるほど違う。厳しい修行に挑む僧のようになる。快楽を売る企業のトップが、商品としての自社の快楽などとは無縁の簡素な日常を送っていたりする。
 プロレタリア三文詩人が彼らより安楽にしていたら、まったくの名折れというものだろう。もっと、もっと、もっと、もっと。ランボーなら、「飢え、渇き、叫び、ダンス、ダンス、ダンス、ダンス!(Faim, soif, cri, danse, danse, danse, danse !)」(『地獄の季節』)と言うところだろうか。
 ところで、村上春樹は、このランボーの引用にあたって、どうして「ダンス」をひとつ落としたタイトルの小説を書いたのだろう?

■第九十一号(二〇〇七年十一月一日)
 自分の名前の音も漢字の字面も大嫌いなので、(そればかりか、自分の感受性、思考癖も、性格も…)、いつか、すっかり捨ててしまおうと思っている。「田中一郎」などという名前にしたら、どんなにすっきりするだろうかと思う。「田中一郎」の感受性、思考法、性格。それらを纏って生きるのを想像すると、底知れぬ安堵感が湧いてくる。
 だが、考えてみれば、名前のないほうがよっぽどすっきりする。
 まだ捨てないのは、たんに便宜のため。
 それと、苦しみだけを生んできたこの名に重ねられた運命の道行きに、いま少し、付きあうため。
 ようするに、気まぐれとちょっとした物好きのため。

■第九十二号(二〇〇七年十一月二日)
 北野武の映画はほぼ観ているのに、『TAKESHIS'』はまだ観ていなった。遅ればせに観たが、彼の映画の中でも群を抜いている。ユーモアのあり方が少しカウリスマキ的過ぎるかとも思うが、個人的には最高の作品だと思えた。レベルを下げて物語上の辻褄あわせをしたり説得力を維持しようというところから来がちなモタツキがなく、編集そのものやイメージが上位の構造を生んでいくような構成に興奮させられた。
 この映画が封切られた時、難解だとか失敗作といった批評が多かった。実際に見れば否定しようもない歴然たる高度の達成度があるというのに、北野武の映画に対してさえそんな批評が寄せられてしまうことには、窒息させられるような気持ちになる。芸術性とユーモアともののあはれと皮肉とダジャレと猥褻との共存をまったく受容できないような、偏狭な閉塞した粗い美意識が、日本ばかりか全世界をのったりと覆い尽くしていて、規格化された効果狙いとパターン化され切った感動の押しつけばかりがある。チェコからロシアなどにこそ、わずかの可能性があるのかと思わされる時がある。
 あゝ、嫌だ、と思う。ボードレールの時代のキーワードのひとつが「アンニュイ」だったとすれば、現代、グローバリズムの反吐をかぶってしまっている地域においては、「嫌(いや)」ということなのではないかと感じる。後から後から押し寄せる「嫌なもの」に囲まれて、「嫌」「嫌」「嫌」を連発し続ける意識。その中に細い生き延びの道を拓いていかざるをえない時代か、と。もちろん、高見順の『いやな感じ』がすぐに思い出されるが、…あの頃から変わっていないということなのか、それとも回帰してきた「嫌」なのか。

■第九十三号(二〇〇七年十一月五日)
 十月、はじめてフランスで公開される若松孝二監督の『胎児が密猟するとき』(一九六六年)が、検閲委員会と文化大臣クリスティーヌ・ アルバネルによって十八歳未満禁止指定とされた。
「精神的な暴力」や「女性のイメージを損なう」ことなどが検閲委員会の判断の根拠だが、四十一年前に日本で公開された映画が、二〇〇七年にフランスで十八禁指定を受けた事実には小気味よさを感じる。「精神的な暴力」や「女性のイメージを損なう」とも見えてしまう映画に対して、それがそのように見えてしまいかねない地点に踏み止まって、ふさわしい新たな観かたをその場で練り上げる能力の決定的欠如を、こうした禁止指定は露呈するものだからだ。フランス政府が自国民の文化的批評体力の低下を正直に認めたということになるが、表向きのハコモノをご大層に維持しているひとつの文化の内実が、現実には急速な批評的創造性の低下に見舞われていく事態というのは、どんな場合にも歴史的な楽しい見物である。
 フランスというと、自由、創造性、瀟洒、悦楽、豊饒…などという紋切り型イメージをいまだに並べ立てる日本社会だが、個人的には十五年ほど前からフランスは文芸・芸術上は死んでいると認識しているので、こういうことの起こるたびに、日本の若者が「あれっ?」と目を覚ませばいいのだが、と思う。フランス社会の、あのなんとも言えぬつまらなさや停滞、小説の終わりを延々と生き続けようとしているかのような文学界、見るべきものなどアラブ系やアフリカ系詩人以外にはない詩の世界。
 たとえて言えば、パブロフの犬よろしくワイングラスに知ったふうな顔をして鼻を近づけたり、食事の後でかならず出される何種類ものチーズからいかにも味覚にうるさいかのような演技付きでいくつかを選んだり、その後のデザートでもあえてそれなりの批評性を披露しようとして選択のしかたに密かに自意識たっぷりの苦労をしたり…。そんな耐え難いルーティーンが文化全般に亘ってしまっていることの地獄。
 日本人の芸術家や文学者や批評家などが、もはや色目を使わずに、フランス社会に大挙して押しかけ、あの風土を全面否定するべき時期なのではないかと感じることも多い。国外追放処分を受けるぐらいになって初めて、文化なるものは発生するものなのだから。フランスに限らない。目の前にある体制は、いいものであろうが悪いものであろうが、とにかく破壊していきましょうという基本了解事項が、近ごろの地球ではいくらか忘れられ過ぎてしまったらしい。もちろん、模倣されたり利用されるための素材であることは疑いもないが、破壊され無視されるためにこそ、フローベールもプルーストもマラルメもある。彼らの誰一人、「万葉集」も定家も「太平記」も西鶴も近松も通過していない意識のままに厚顔無恥にも書くということをしてしまったというのに(プルーストは、少なくとも『源氏物語』を読んでいた可能性があるが…)。コバンザメみたいに彼らに寄生して、解説本をちまちま書くためじゃないでしょ?と思うのだが、どうやら、そういうのは壮絶に少数派になってしまった。
 どの世界でも、管財人ばかりになってしまったような文明の最終段階というのは、こういうものなのか。

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