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ARCH 64

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 8
        [第一〇〇号〜一〇六号・2007.12.21〜2007.12.29]


■第一〇〇号(二〇〇七年十二月二十一日)
 この「SURUGA’S詩葉メール便」も第一〇〇号を迎えた。ついこの間はじめたばかりだと思ったのに、ずいぶん早いことだと思わされる。
 出すほうにも貰うほうにもシンプルな形体として、あくまで実用重視のかたちとして、こうしたファイル添付型メールは採用されたのだが、最初から、メール便のかたちを採った詩集を時間の中に構成していくというプランがあった。一般的な本のかたちを採らず、ホームページやブログのかたちさえ採らず、演劇における舞台のように一回ごとに消滅していく、しかし、確かに制作はされた、という時間詩集。物理的なボリュームを持たず、受け取り手の意識にも記憶にも残らず、しかし、作者の意識には岩盤のように残る非物質的詩集。シャトーブリアンの言葉が思い出される。「もはや私は時間でしかない」。
 そもそも、詩葉『ぽ』も、散文集『トロワテ』も、それぞれが長距離詩集として、長距離文叢として構想され、制作が続けられている。それらを組み込んだ器として「SURUGA’S詩葉メール便」を構想した時、自分が持つ形式性への欲求がようやく、わずかながら実現されるように感じた。一般的なかたちの詩集は、形式性への欲望においてあまりに単純すぎ、こちらのマインドやその底に潜在するものをほとんど掬い取ってくれない。時間や消滅、非在、短時間の物質化、いっぽうでの従来の文書形式や書籍形式の維持など、様々な要素を混在させたところに顕われて来る「本」が、ふたたび、必然的に、強烈に求められる時代になっているはずだ。「ふたたび」と言うのは、歴史上、何度となくこうした探求欲はくり返し顕われてきたからで、日本ではポストモダンの流行が凋落したこの十年ほどの期間にたまたま極端に薄れてしまっていたに過ぎない。

■第一〇一号(二〇〇七年十二月二十二日)
 新潮文庫に有吉佐和子の『一の糸』が改版されて入ったが、うれしいことだと思う。
 女流作家たちについてきものの雑誌に書いた拙文は、ふだんなら文学とは関わりのない人たちに、わずかながらも評判を呼んだようで、有吉佐和子や円地文子の本の売れ行きに多少影響があったと聞く。こちらにはなんの儲けにもならない話だが、心底敬愛するこうした女流作家たちの本が、ふたたび入手しやすくなるのはうれしい。たとえば有吉佐和子の『香華』、『芝桜』、『華岡青洲の妻』や『和宮様御留』などを読んでもいない若者が、愛とか恋とか人生とかを平気で語る未来を想うと空恐ろしいものだし、円地文子の晩年の傑作を愛さない人々が女や性について語るのなども、おぞましいほど空虚な光景といえるので、価値ある作品が復刊されていくのは好ましいことと思う。
 雑誌に載せる文章には写真を添えたりすることが多いが、写真は遺族の許可を直接得て、著作権を管理している出版社に頼むことになる。こうした場合に法外な代金を要求してくる団体や人々はあまりに多いが、そんな中で、さっぱりと許可をくれた宇野千代の“お手伝い兼秘書”藤江淳子さんや、有吉玉青さんや、円地素子さんらの態度は忘れがたい。創作家の生涯がいずれ伝説になっていくとすれば、遺族の振る舞いもまた伝説になっていく。未来へむけた伝説創作に加わりうる素質のある遺族や知己を持つか否か、これも創作家の運命のうちかもしれない。

■第一〇二号(二〇〇七年十二月二十四日)
? 同じ階の正面のアパートメントがしばらく空いていたが、どうやらリフォームも終わったようだなと思っていたら、子連れの家族が引っ越してきた。ベランダに山のように積まれていた荷物なども片付いて、どうやら一段落したように見えるが、いまだに挨拶にも来ない。階段やロビーで出会っても、たがいに名乗ってもいなければ、自己紹介の機会も儲けていないのだから、双方に逡巡が起こる。なんとなく頭を下げたりするが、こちらとしても向こうの顔をちゃんと正面から見たこともないので、どことなくはっきりせず、気まずさがある。
 独身の若者などならともかく、小さな子供がいたら、近隣とは最初からコミュニケーションを取っておくほうがなにかと安心なはずだ。泣きもすれば騒ぎもする、病気にもなれば予期しない怪我もするだろう子供がいて、近隣や階下になんの挨拶もしておかないでやっていけると思う甘さ、不注意、世間知らず、用心のなさには、驚かされるというより、他人事ながら心配になる。
 このあいだは、玄関からたくさんの綿ぼこりやゴミが踊り場に掃き出してもあって、やれやれと思った。あとで塵取りで集めるというのではない。夜になっても朝になってもそのままで、ようするに玄関付近のゴミは階段に掃き出す主義の家族でもあるらしい。  それにしても、小さなようでも、心にひっかかるこんな事柄、こんな奇妙な人々が本当に増えてしまった。自分がそこにいるだけで、じつは不愉快に思われているかもしれない、と、そういうふうに想像力を働かせられない人々が増えた。挨拶というものは、危険で不快で、本音を言えば消滅してもらいたいような他人への安全保障の打診なのだということ、コミュニケーションは顕在的・潜在的な敵に対する安全保障条約なのだということ、一歩海外に出れば常識であるそんな当たり前のことが、トウキョウではどんどん忘却されていっている。敵が消えたのではなく、敵認識が弛緩したということで、敵概念を軸にナチズムを支える政治学を樹立したカール・シュミットなどが見たら、現代の日本は占領するのに最適の国家と映るに違いない。 
 とはいえ、ここで世間の風潮を嘆けば、アサヒシンブンやニュースステーションのようになってしまう。自分はなんにもせずに、世の中のあれこれについて親身に嘆いているふりをして金を稼ぐマスコミ稼業。こちらはそういうものに属しておらず、一匹狼で生きのびないといけないので、臨機応変の行動を作り出していかないといけない。本当に危険でしつっこくタチの悪い隣人が世の中にはいるものだ、と知らせてやるのも一興だが、踊り場に掃き出されたゴミを掃き集めてベランダや郵便受けに一々放り込んでやるぐらいの明朗な親切心を見せてやってもいいのかもしれない。若い頃にはなにかと事を荒立てるのを好んだものだが、この頃はずいぶん丸くなったと言われているワタクシなのだ。何事も、穏やかに、親切に、というのは、やはりなにより大切なことだろう。ね、ランボーさん、アルトーさん?

■第一〇三号(二〇〇七年十二月二十五日)
 十二月二十二日、ジュリアン・グラックが九十七歳で亡くなりました。よくもまあ、九七歳まで… 文芸趣味の人々にはよく知られた名、必読され吸収されるべき作風ですが、私の師匠シャトーブリアンの作品の、じつによき先輩読者でもありました。日本ではそのあたりの事情がぜんぜん知られていないからよくよく言っておきますが、シャトーブリアンのほうがはるかに巨大ですよ。あの人を読み込まないで、十九世紀とか二十世紀の文学を語るなんて、ペテンもいいところです。
 あ、オスカー・ピーターソンも亡くなったようですね。ジャズの。彼の演奏はよく聴くので、触れている時間から言えばグラックなんかよりもこちらのほうが大事なのかもしれない…
 このメール便の終わりにもありますが、hi-hoのメールアドレスを変更しました。いわゆる迷惑メールがあまりに多すぎるため。
 hi-hoのアドレスは、なにかの連絡用によく学生に教えたり、学校のシラバスに記入したりするのに使っていました。このアドレスだけに迷惑メールが来るというのは、あきらかに学生たちから裏組織に流れている証拠。アドレスをかき集めて売ると、いったい幾らになるのだろう。ちびちびと、そんな金稼ぎばかり横行してるんだから。
 今回は、迷惑メール滅亡を願って、新アドレスをnamuamidabutu@bea.hi-ho.ne.jpとしました。これも、そう遠くないうちに換えなければいけなくなるのでしょうが、まぁ、念仏の文句はいろいろあるでしょうから、いくらでも頑張りますとも。
 今回の「ぽ」の題名はあくまで「平成十九年新春落書」、今年の一月用のもので、二十年用のものではありません。フセインの処刑映像はなんどもネットで見ましたが、個人的に非常に哀れに思い、フセイン哀悼のメモリアルを残しておきたいと思ったのでした。もちろん、彼の軍事的な犯罪行為は知っています。しかし、アフガニスタンを廃墟化し、イラクを混沌に突き落とすほどの悪行までは彼はしませんでした。彼より先に吊るされるべき者がこの世には溢れているのに、単なる力関係の絡み合いの偶然というものが、どうも、死出の旅の順番まで変えてしまったりするようです。アメリカ側から流されるのとは別の情報によれば、フセインはずいぶんとジェントルマンで、フランス語に殊に堪能、政治や経済や軍事に鋭い知性を発揮していたとのこと。ドストエフスキーを持って隠遁生活をしていたのも、あながち伊達ではないらしいですね。処刑の前に、せめて自伝や自己弁護の書ぐらい書かせておくべきだったと思うのですが、いろいろと隠す必要のある連合軍、やはり口封じということで、処刑を急ぐ必要があったのでしょう。例の忠臣蔵の吉良上野介が、じつは非常にやさしく教養に富んだ好人物だったらしいという話がありますが、それに似た類でしょうか。  もっとも、本当のフセインが処刑されたと信じるのは早計。巧みに作られたビデオは、全世界を騙すのには最適の道具です。誰がなんと言おうと、ビン・ラディンなども、絶対にCIAの一員の変装に違いないとの考えを、個人的には変えていません。
 世界で重要視されているのは、まさに金、金、金、どこまでも経済でしかなく、国家も含めてあらゆる巨大資本というのは、長年にわたって儲けていくためなら、どんな劇でも捏造し、マスメディアを使って周到な徹底的な演出を行うようですね。
 こんなことを思いながら、フセインの死などまったく信じないでフセイン哀悼メモリアルの「平成十九年新春落書」などを書いたりしているのですから、わたくしの感情も、常時、フィクションのなかで機能しているというべきなのか…

■第一〇四号(二〇〇七年十二月二十七日)
 家にいる時は夏でも冬でも裸足なので、寒い日の多くなってきた近頃も、靴下も履かずにサンダルをひっかけてフローリングの家のなかを歩いている。床暖房もなく、ふつうのガスストーブがあるだけだが、どういうわけか、足の冷えがまったく応えない体質らしい。ときどき、窓を開け放ってある日中の疊部屋を歩いていると冷たく感じるが、ああ、冷たいな、と思うだけのこと。学生時代の冬の柔道の練習と比べれば、なにほどのこともない。ソックスやふかふかした室内スリッパなど、履こうとは思わない。夜中でも、冷え切っている裸足を平気でイスなどに投げ出して、机の電灯だけで読書していたりしている。足からの冷えがまったく気にならないというのは、まあ、便利といえば便利な体質だと思う。
 冷えが気にならないといえば、以前、よく冬に行った奈良の二上山でも、我ながら、よくまあ平気で、というようなことがあった。大津皇子の墓を頂上に頂く和歌の聖山で、そう高くはないが急勾配で、登ったり下りたりすると汗だくになる。薄着にジャンバーを引っ掛け、震えながら早朝の当麻や逆側の二上山口から登っていくのだが、二十分も上ると、もう汗が止まらなくなる。シャツを脱ぎ、肌着までも脱ぎ、ついには上半身裸になって、零度前後の山を登っていく。それでも、全身から湯気を立てながらの大層な登山になる。頂上に着くと、汗でびしょびしょになった肌着を搾って、大津皇子の墓の柵に干しながら、よく、山頂の寒風に当たっていたりした。体内からどんどん熱気が放散していくので大丈夫なのだろうが、指は悴(かじか)んでいるし、腕や胸を触ると氷のように冷たくなっている。調子に乗って裸でいると、これは軽度の凍傷にでもやられてしまうかとは思うものの、あの空気や風の冷たさは心地よかった。
 その二上山では、ひとりで登ったり下りたりしている時、方々から何者かに見られている気持ちになる。木々が深く立ち並んだ山の中には、たぶん、精霊と呼ぶべきものだろう、見えなくてもはっきりとした存在が本当にそこ此処にいて、執拗にこちらを見つめている感じがある。これは、やはりたびたび訪れた室生寺や吉野の山中でも感じられた。出雲でも同様のことがあった。
 二上山を登っていて疲れると、木の切り株やちょっとした岩に腰を掛けるにも、けっこう大きなはっきりした声で、自ずと、「ちょっと失礼します。ここに座らせてもらいますよ。お願いしますね。許してくださいね」などと挨拶をするようになった。もちろん、まわりには人間は誰もいない。街にいたらそんなことはしないのに、自然にこうなるのだ。人間がだれもいないところでこそ、自ずと自分が礼儀正しくなっていく。これは私には面白かった。当然、ゴミも捨てない。散らかさない。そんなことをしたら、怒られちゃうだろうな、とはっきりわかるから。たったひとりで自然の中に入れば、誰でもわかる感覚に違いない。意識の変性が進む時というのは、こういうものなのかもしれない。あるいは、まわりに誰も人間がいない時間がけっこう長く続く運動時には、意識というのは周囲のものを擬人化し始めるものなのだろうか。
 宮澤賢治が、畑の中や草原、森の中に入って、何時間も座って自然の音を聴いていたというのは有名な話だが、そういう性質は私にもある。私の場合は街中のどこか、駅のどこか、学校のどこか、たまたま入ってみた建物のどこかなどにただ座っているという場合が多いが、そうして座っていると、どこもかしこもじつは自然のままで、人工などというものは本当に枠組みだけという気がする。堅牢なコンクリートのビルディングの中にいるのに、ふいに草原に居たりする。
 相当にキテシマッテイル、ということだろうか。

■第一〇五号(二〇〇七年十二月二十八日)
 十二月十五日のニューヨーク・メトロポリタン歌劇場公演『ロメオとジュリエット』を観たが、とても感心した。グノーのこのオペラは、通しで最後まで見たのは初めてだったが、まったく飽きなかった。ソプラノのアンナ・ネトレプコもテノールのロベルト・アラーニャも見事だったし、三大テノールのひとりだったプラシド・ドミンゴのあれほどの指揮ぶりにも驚かされた。
 といっても、観たのは、METライブビューイングという映写版。品川プリンスシネマでの特別鑑賞会に招かれたもの。こう言ってはなんだが、じつは行くまで、あまり期待していなかった。テレビやDVDで観るようなオペラ映像の類だと思っていたからだが、ところがどうして、これがまったく違っていた。舞台の様々な方向から自在に撮影する複数のカメラが、歌手のまなざしの煌きや感情表現の揺るぎまで克明に大写しにし、もちろん時には引き、横たわっている主人公たちを天井から映しもし、幕が下りた後の歌手のほっとした表情を捉えるかと思えば、舞台裏から次の出番の歌手が飛び出していく瞬間までを追っていく。どんなに近い席を取ろうとも、歌手とは最低二十メートルや三十メートルはあろうというオペラ鑑賞において、そうした距離をすっかり消滅させ、今まさに歌っている最中の歌手の横に回るかと思えば、正面に、また斜め上や下から眺めたりもするのだから、画期的といっていい映像表現だと思える。
 ある席に固定されて、そこからの定点観測で鑑賞させられるというオペラのあり方を変えて、歌手たちや演奏家たち、舞台裏の大道具係たちや照明係たち、進行係たち、メイクや衣裳係たちの活躍ぶりまでを時間進行通りに適切な編集によって観ていける楽しさというのは比類がない。アメリカがこういう分野で持っているセンスと力と情熱には計り知れないものがあって、ショーとしての完成度を高めていこうとする際の徹底ぶりには圧倒される。
 超一流のオペラ歌手の発声や歌唱技術というのがいかに凄いものか、如実に見てとれるのも、このMETライブビューイングのよいところだ。距離を置いて客席から観るのではなく、目の前で彼らの喉の振るえや口の開き方などが大きく映るからこその驚嘆というものがある。美人女優としてもやっていけそうなアンナ・ネトレプコが、踊ったり飛び跳ねたり、横たわったりして発し続ける声の凄まじさがリアルに伝わってくるのも、これがオペラそのものでなく、観客にとってのオペラの不自由さを超えるべく撮影され編集された映像だからこそ。どうやら、オペラや演劇の見方が、もっと迫力あるものへと大きく変わっていきそうな気配があって、これからは楽しめそうだ。月に『マクベス』、三月に『マノン・レスコー』、『ピーター・グライムズ』、四月には『トリスタンとイゾルデ』、『ラ・ボエーム』、五月に『連隊の娘』があるが、よい席でも3500塩谷四〇〇〇円というのは破格の安さに感じる。ワーグナーの全作品など、ぜひこういう企画でやって貰えたら、と思う。バイロイトに行く必要もないだろうし、馬鹿高い金を払ってチケットを買う必要もないだろうし、途中で居眠りもしなくてすむだろう。松竹の広告をする義理はないのだが、貫禄や風格に欠ける歌舞伎の若造たちを甘やかしてばかりいないで、こういう実のある興行をもっと開拓していくほうが、あそこの会社のためにはいいのではないかとも思う。

■第一〇六号(二〇〇七年十二月二十九日)
 すでにできている詩をお送りするのがこの詩葉メールだし、また、そこに添える「編集贅言」もまったくの即興の産物、こんな文にとても時間はかけていられないとばかりに、ササッと書いてお送りしている。そのわりには、けっこう長文の贅言を書いている時があるもので、後で読み直して、ちょっと驚いたりする。手紙を書くのに「今日は時間がないので、いつもより手紙が長くなります」と前書きしたのは確かパスカルだったが、そういうものかもしれない。長く書くほうが、かえって短時間で済むものかもしれない。
 今年も終わりに近づき、このメール便で二〇〇七年分は終了ということにするつもりだが、少し振りかえってみれば、今年もまた、個人的には創作のうえで豊饒な一年だったといえる気がする。自分自身でも想定できなかったような文字配列を生み出せたということ、それを豊饒という。ひとの目には、不毛とも、哀切とも、悲惨とも、荒涼とも映ったろうか。
 「神の他には、なにひとつない荒野」。そんな表現がアラビア語にはあるそうな。荒野のむなしさを言い表わしているのだそうだが、なんとも豊かなむなしさではないか。「神の他には、なにひとつない荒野」を目指さない詩歌があるだろうか。不毛、哀切、悲惨、荒涼。ひとの目にそう映ったならば、一里塚ぐらいは超えたということかもしれない。

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