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      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 9
        [第一〇七号〜一一一号・2008.1.8〜2008.1.26]


■第一〇七号(二〇〇八年一月八日)
 一月に入ると大学の授業も残り少ない。担当している短歌のクラスでは、解釈や批評をまぜながら現代の短歌をなるべく多く読むことに重点を置いてきたが、残ったわずかの時間は斎藤茂吉の歌を、若干の語釈や補説をくわえつつ、学生たちにひたすら朗読してもらっていくことにしている。三百首程度は読む。一首を二回、三回、くり返して読んでもらう。『赤光』から入るが、近代短歌の頂点といえる『小園』や『白い山』から多くを採ることになる。
  最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
  鉛いろになりしゆふべの最上川こころ静かに見ゆるものかも
  沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
  かくのごと雪は流らふものなべて真白きがうへになほし流らふ
  ほそほそとなれる生(いのち)よ雪ふかき河のほとりにおのれ息はく
  をやみなく雪降りつもる道の上にひとりごつこゑ寂しかるべし
  雪ふぶく頃より臥してゐたりけり気にかかる事も皆あきらめて?  
     戦争協力を反省した茂吉が、戦後、蟄居していた時の作だが、こういう作品が延々と続く。いちおうの意味が取れたからといって、心の済むようなものではなく、何度もくり返し見、くり返し口にしてみて、猶も飽きない、汲み尽くせないものを感じさせられる歌が多い。すなわち、和歌。むずかしいわけでもない言葉で書かれ、変に作為的に扱われているわけでもないのに、微妙な言語使用上の巧妙なドライブの成果によって、只ならぬ豊饒さのなかに立たされてしまう。
 これらの茂吉の歌には、文学史的な位置づけの点で、いろいろ考えさせられる。戦後すぐの歌で、『小園』にしろ『白き山』にしろ、歌集に纏められたのは昭和二十四年なのだが、小林秀雄が『無常といふ事』他の一連の古典論を書いたのが昭和十七年だったのを思うと、ずいぶん奇妙な遡行や逆流や渦が文芸の日本語の現場に起こっていたように感じられてならない。「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」という日本語が、『無常といふ事』などより後に書かれたということ、これは一体どういうことなのか。なにが此処で起こっていたのか。たんに短歌表現が、つねに甚だしく遅れていたということなのか、それとも、なにか異常なことが茂吉の歌の場に発生したのか。
 近代をどうにかして超えようとし、脱しようとした小林が『無常といふ事』に書いた「鎌倉時代の何処かのなま女房」に、茂吉が歌身を賭してなっていこうとした結果のことか。そう思わされないでもないのだが、しかし、注意して見直してみれば、万葉調の代表歌のような「最上川逆白波の…」などの歌においては、雪もふぶきも優れて近代的に扱われている。ああいう雪やふぶきの見方は、古典にはない。籠められている情念も、万葉の時代の歌人たちのものでは全くない。模倣でもなく、たんなる学びの成果でもなく、和歌史上、新しい節合や混合による展開が起こっているのは確かであり、事態はそう単純なものではない。むしろ、いっそうの近代化とでもいえそうな、小林と逆方向の意図があったようにさえ感じられる。
 短歌を通していまの二十代と接してみて、毎年気づかされるのは、意外と塚本邦雄は好まれず、詩的シニスムの岡井隆はむしろ嫌われ、なるほど寺山修司は好まれるものの、俵万智はわざとらしい(のに加えて、すでに古く、ダサい)と疎まれ、こちらがどんなに讃えても山中智恵子には不感症で、逆に、斎藤茂吉や佐藤佐太郎、さらに古くは与謝野晶子がはっきりと支持されるという現象である。永井陽子が同様に好まれ、葛原妙子にははっきりとした驚嘆と敬意が表明されるのを思えば、退行趣味の時代に入ったというわけでは決してなく、短歌でしか表わせない味わいやリズムを短歌に直截に求めているとも考えられそうに感じる。現代の問題や心理の綾を短歌などでキリキリと表現してくれるな、といった密やかな声を聞くように思う時がある。

■第一〇八号(二〇〇八年一月十八日)
 一月十八日は、旧暦では十二月十一日にあたる。そろそろ年の瀬というところか。二月七日に、新年を迎えることになる。
   いつの頃からか、旧暦のほうが気持ちに馴染むようになった。もともと、この国の世間の流れ方に激しい違和感を感じていたが、それがどこかで頂点に達した後、新暦のカレンダーにさえ感応しないという孤絶が心に定着して、いまに到っている。
 旧暦では朔から、つまり新月から月の一日が始まる。少しずつ月が太っていって、満月になればそれが十五夜、月なかばと決っている。旧暦の時代には、夜の月を見ればカレンダーなど見るまでもないという、便利で合理的な生活があった。満月が上るのを見ながら、今月も半ばまで来たと思える生き方。のんびりしていたというのではなく、空を見ても野や森を見ても、そこに暦があり、ただそこにいるというだけで、現在の時間的な位置が知られる。自然の舞台装置の運行とともに生活が進むのだから、生の臨場感は保たれ、時間の密度も深まり、記憶の節目もつよく刻まれる。
 二月四日には、はや立春である。春が立つ、とはよく云ったものだ、と思う。幼少期から青年時まで新暦の生き方に騙されに騙されてきた結果、いまでは、旧暦に素直に従うことこそ季節をよく生きるコツと知っているので、立春からは、文字どおり、春の気持ちで生きる。五月五日が立夏だから、わずか三ヶ月の春の楽しみなのだ。六月二十一日が夏至、八月七日が立秋…と思うと、三島の『金閣寺』のセリフではないが、「急がねばならぬ」と思う。もちろん、生きいそぐのではない。もう、そんな歳ではない。季節の場面場面をいそぐ、とでもいうのだろうか。和歌に詠われた情景やあじわいを、洩らさずに見、聞き、触れながら季節を生きるというのは、なかなかに忙しい。今年も無事に季節を生きられるだろうかと、心の準備にいそぐのである。
   世の中や人生なら、むろん、そのために生きいそぐほどのものではない。馬場あき子にこういう歌があった。
  生き急ぐほどの世ならじ茶の花のおくれ咲きなる白きほろほろ  
                        (『ふぶき浜』昭和五十六年)

■第一〇九号(二〇〇八年一月二十日)
 今月の歌舞伎座では『助六由縁江戸桜』が掛かっているので、かぶりつきの席をとって見に行った。福助の揚巻も、左団次の意休もよく、他の脇役もよい。楽しかったが、今の団十郎が演じる助六だけが物足りなかった。華やかで、浮き立つようで、全体的にはよかったが、見ていながら、団十郎という人は、やはり下手なのではないか、と思わされた。
 所作が粋ではないし、足が短いし、頑張ってはいても、頑張りが見えては助六には向かない。コクトーが言ったように「美は易々たる姿をしている」という雰囲気がでないと、助六ではない。谷崎の『瘋癲老人日記』冒頭に、「勘弥ノ助六デハ物足リナイガ」というところがあるが、勘弥ならまだしも、団十郎で物足りないというのでは歌舞伎が廃る、本当は大変なことなのだ。そういう本音の批評が飛び交わない今の歌舞伎界は、やはり不幸という気がする。
 月に数回は歌舞伎を見にいかないと済まなかった頃、今の団十郎がまだ海老蔵で、幸四郎も染五郎で、松緑も梅幸も先の勘三郎も歌右衛門もいて、いや、そればかりでなく、先の仁左衛門も二代目鴈治郎もいて、こんな時代はそう長くは続かないというのが歌舞伎ファンの共通して思うところだったので、少しでも多くの演目を見ようと頑張っていた。国立劇場で見た通しの『菅原伝授手習鑑』や『桜姫廓文章』の後、ひとりで興奮しながら声音を真似たりして帰った夜の永田町や半蔵門あたりは懐かしい。あれらの劇は、あの場所、あの夜々とともに身に染み込んでいる。
 いまの幸四郎、団十郎、菊五郎、吉右衛門らを見ていると、長年の歌舞伎好きなら、もうひとりが欠けているのを思い出さずにはおれない。松緑の息子、尾上辰之助で、新之助(現団十郎)や菊之助(現菊五郎)とあわせて三之助時代というものがあった。たいへんな酒豪で、生活の荒れがよく噂され、名門の息子というだけで碌に練習も積まずいい役ばかりをやっていると陰口されるのは、たいてい辰之助のことだった。そういう陰口に、多少、共感するところが当時の私にはあった。ちょうど、歌舞伎研修生に応募して、たとえ端役であれ、なんとか古典劇の役者になりたいと思っていた頃だったのだ。
 辰之助は一九八六年に倒れ、翌年、肝硬変による動脈瘤破裂で四〇歳で亡くなる。父の松緑よりもはやい死で、不幸というより殆ど不吉な雰囲気があの時にはあった。同年代の他の役者がつつがなく成長していく中で、松緑の家はどうしたことかと思わずにはいられなかった。
 いま、彼の息子は四代目尾上松緑になって、父の辰之助によく似た顔立ちの写真をチラシに載せていたりする。父よりも優しい顔立ちだが、目鼻立ちがじつによく似ていて、辰之助を思い出さずにおれない。八六年に死んだ辰之助を思い出すとは、歌舞伎好きには、八六年までの自分の生活を思い出すということでもある。彼が死んでいるからこそ、ふいに時間が飛んであの頃に戻るので、元気にやっている団十郎や幸四郎を見ても、ただ、いま現在の彼らの様が見えるだけである。
 今の団十郎の襲名が行われた時には、本当にがっかりした。まだまだ海老蔵でいて、歳をだいぶ取って、取りに取っての襲名というものを期待していた。彼の口吻の悪さも、あれもひとつの味わいで嫌いではないが、それもあわせて、演じ方のあの鈍さというのは、『暫』や『寿曽我対面』などの江戸の大らかな荒事にこそ適している。『助六』のような粋な役や、世話物では、なかなかどうにも難しい。祖母や母の世代と違って、私は映像でしか見たことがないが、そういう粋な役では、海老さま”こと、先代の団十郎にかなうわけがない。映像で見ても、セリフ回しの、あのさっぱりとした投げやりさ、見得を切ったかと思うと、あまり時間をかけて停止したりせずに、こだわらずにあっさりと次の所作に移っていく東京っ子ぽさは歴然たるもので、たしかに一時代のかっこよさを体現している。
 家族の大反対で私はけっきょく、歌舞伎研修生にはならず、その後しばらく、アングラ劇団でいつか歌舞伎を作ろうと思いながら、『天井桟敷』から離れた人たちのところにいた。しかし、持ち出しばかり嵩むアングラ演劇というものは、何から何までいちいちがうまくいかず、演劇というものを諦めるざるを得なかった。模索するにも、方向を変えるにも、なにかを諦めるにも、まったく何をするにも時間がかかった。思い出すと、馬鹿のように時間を浪費して蕩尽した、ただそれだけの青年時代だった。
 前後して私は家出し、それ以来、ついに家族のところへは帰っていない。
 あれから二十六年経った。
 あの、私の幼少期から青年期の家族、――島尾敏雄の『死の棘』どころではなかった地獄の家族の日々を、そろそろ書いてもいいのではないかと、最近、思い始めている。家の恥などというものも、もう、意識しないでいい頃だろう。なにもかも遠い過去になり、どれも、フィクションとかわらなくなくなっている。語れば苦労や不幸を自慢しているように見えてしまう時期というものも、もう過ぎたようにも感じる。

■第一一〇号(二〇〇八年一月二十五日)
 時代錯誤だろうか、岡林信康の『それで自由になったのかい』(一九六九)を思い出す。
 「そりゃよかったね 給料上がったのかい
  組合のおかげだね
  上がった給料で一体何を買う
  テレビでいつも云ってる車を買うのかい
  それで自由になったのかい
  それで自由になったのかよ
  あんたの云ってる自由なんて
  ブタ箱の中の自由さ
  俺達が欲しいのは
  ブタ箱の中での
  よりよい生活なんかじゃないのさ
  新しい世界さ
  新しい世界さ」
 やはり時代錯誤だろうか、ユニコーン(奥田民生)の『働く男』(一九九〇)を思い出す。
 「仕事できる男 それが彼女の好み
  気合入れて勤めたのだが 忙しいわ つまんないわ
  今の会社かなりレベル高い方だし
  親父がらみのコネもあるから やめるわきゃないし
  いつも僕はひとりきり フロに入って寝るだけ
  たまにオフィスで電話かけたら彼女の声が
  忙しいのは自分だけと思わないで ジャマしないで
  眺める事さえできない 君の髪を 歩く姿を
  眠ることしかできない せめて夢の中ででも 君に逢いたい
  いつも僕はひとりきり フロに入って寝るだけ
  いつも僕はひとりきり 明日のために寝るだけ
  いつも僕はひとりきり いつも僕はひとりきり 」
やはり時代錯誤だろうか、尾崎豊の『卒業』(一九八五)を思い出す。
? 「卒業して いったい何解ると言うのか
  想い出のほかに 何が残るというのか
  人は誰も縛られた かよわき子羊ならば
  先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
  俺たちの怒り どこへ向かうべきなのか
  これからは 何が俺を縛りつけるだろう
  あと何度自分自身 卒業すれば
  本当の自分に たどりつけるだろう
  仕組まれた自由に 誰も気づかずに
  あがいた日々も終る
  この支配からの 卒業
  闘いからの 卒業」

■第一一一号(二〇〇八年一月二十六日)
 こちらで選んで編集した短歌選集プリントを教室で読み進めていたら、加藤治郎の次のような有名な歌のところに来た。
   鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく楡
 ?情景などわかり切っているが、名簿順で学生を当てていったりすると、なぜかこういう歌の時に、内気そうな女子生徒に感想を聞くことになったりする。そうなる頻度というのは、けっこう高い。宇宙的にどんな法則性があるんだろうか、と訝しくさえなる。指された学生が、「どういう情景なのか、はっきりわからないんですけど…。これって、どういうことなんですかぁ?」などと聞き返してくることも少なくない。
 ワカッテルクセニ…、などと発言したら、たちまちにセクハラで一本取られちゃったりするので、「はて、はて、ちと、艶めいたお話のようでござりまするのぉ。おほほほ…」などと擬古文会話にふいになっちゃったりして、教室じゅうでみやびにニタニタするのだが、今年にかぎっては、本題とは違ったところでヘンなひっかかりが生じた。
 ひとりの学生が、ふいに「…あの、ニレって、なんですか?」と言うのである。樹木だというと、ぜんぜん知らなかった、という。たしかに、ニレと言われても、どの木がニレだかわからないという人なら少なくないだろうが、しかし、ニレという木があるのは誰でも知っているだろうと思えるし、だいたい、広告でも小説でも新聞でも、ニレという言葉はけっこう出てくるものではないか…  だが、そういうのはこちらの思い込みのようで、ためしに「ニレ、知らない人、他にいますか?」と聞いてみたら、十人ほどは手をあげた。どうりで、アララギ派なんてのは滅亡していくはずなのである。むかしの歌人の常識は、『大言海』と植物事典を暗記せんばかりに読み込むことだったと古い人々に聞かされたものだが、ニレを知らないなどというのは、植物事典以前もいいところで、長塚節だの伊藤左千夫だの島木赤彦だの斉藤茂吉だのから見たら、いまの時代は末世もというべきだろう。茂吉どころか、息子である北杜夫の『楡家の人々』だって、みごと轟沈である。
 ことは、ニレに限らない。ケイトウを知らない学生もいるし、コブシだのモクレンもあやしい。カラスウリのあの夢幻なさまの花などときたら、いまの学生はほとんど見たことがない。
 なんとか話を収めつつ、加藤治郎はこの歌で「楡」を使ったところにやはり新味があったんだろうね、などと結んでみたが、あまりピンと来ていないようだったので、「だって、ここが松とか梅じゃ、やっぱりねぇ…。《鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく松》とか、《鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく梅》だと、芸能花舞台になっちゃうじゃないの。小唄とか、都都逸とかさ、そんな世界に、あぁ、なるわいなぁ〜」などと言ったら、定年退職して来ている七〇代の老学生氏がケタケタ笑い出した。
 じつはこの時、こんなおふざけを言いながら、加藤治郎の歌が、たったひとつの語を変えるだけで、お座敷歌にすんなり連なっていってしまう可能性があるのに気づいて、ちょっと慄然とした。なぁんだ、近代の色街文化の頃から、われわれは、いくらも進んでなどいないんだ、と。
 同時にもうひとつ、ふいに思い出したのが、舟木一夫の『高校三年生』(一九六三)だった。
   赤い夕陽が 校舎をそめて
   ニレの木陰に 弾む声
   ああ 高校三年生 ぼくら
   離れ離れに なろうとも
   クラス仲間は いつまでも
        (作詞・丘灯至夫、作曲・遠藤実)
 六三年時点で、すでに歌謡曲でも「ニレ」を使っていた、ってわけじゃないの。やっぱり、「なぁんだ」なのだった。
     ついでながら、岡井隆が
   右翼の木そそり立つ見ゆたまきわるわがうちにこそ茂りたつみゆ
を作ったのは、たしか、『高校三年生』とそう違わない時代だったはずだが、さて、この場合の「木」とはどんな木だったのだろう。「ニレ」でなかったのはたしかだろうが、想像しやすいようでいて、なかなか「右翼の木」にふさわしい木というのは、見つけるのが難しい。「そそり立つ」などと言われると、木の種類の詮索より、フロイト―ラカン系のファルスを考えさせられてしまう。もともと岡井隆の歌というのは、どれもこれも精神分析にこそ手頃なものが多いのではあるが。
 岡井氏もいまでは宮中歌人である。まことに似つかわしい予言的な歌を、早々と作っていたということでもあるか。

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