[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


ARCH 66

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 10
        [第一一二号〜一一七号・2008.2.2〜2008.2.13]


■第一一二号(二〇〇八年二月二日)
 マーケットのチラシなどを見ると、この時期、恵方卷という太巻寿司の広告がずいぶん出ている。節分に、これを一本まるごと咥え、無言で恵方に向いて食べると幸せな一年になるのだという。
 関西より向こうから来たものなのか、東京にはなかった風習で、いまだに馴染めない。家族みなが太巻寿司をまるごと一本ずつ咥え、無言で食べている様など想像すると、やはり異様な感じもする。寺山修司の演劇に、歯科用の歯型取りを咥えさせる場面があったのを思い出させられる。中に巻き入れた具がばらばらと落ちたり、湿った海苔が噛み切りづらくなったりもするだろう。昔の誰かが、現世利益を求める民衆を馬鹿にするために発案した悪戯ではないだろうか。
 できれば大阪寿司のほうがいいとも思うし、普通の江戸前寿司のほうがもっといいとも思うのだが、一度もやったことがないし、太巻寿司もさほど嫌いではないので、今年あたり食べてみてもいいかとは思う。もちろん、食べやすい大きさに切って、食卓を囲んで食べるつもりだ。恵方など、自分が向いている方角がつねにそれだと考えることにしているので、気にもならない。

■第一一三号(二〇〇八年二月五日)
 中国産の冷凍餃子をめぐる農薬騒ぎの報道を見ていて、どこか迂遠な話に感じられてならないのは、そういう食品をまったく食べないし、買わないためなのだろうと思う。
 むかし、味の素の冷凍餃子がおいしいと聞かされて試したことがあるが、他と比べてそれほどおいしいわけでもなかった。冷凍餃子とのつき合いは、それっきりだ。なにかにちょっとでもガッカリすると、自動的に完全に縁を切ってしまうところがぼくにはある。
 自慢ではないが、餃子を焼くのは得意なほうで、たまにジャンクフードが食べたくなった日には、賞味期限間近で半額になっているものをスーパーで探してくる。だいたい五〇円から一〇〇円ほどで、高くても二〇〇円以内で買える。そこそこの焼き方をすれば、そんな値段のもので十二分にうまい。添加物とかの少ないものを選んだほうがいいには決っているが、餃子の食べたくなるような日は、体内に毒を入れたくてたまらなくなっている日なのだから、安物でいい。ときどき無性に飲みたくなるコカコーラみたいなものだ。夏など、外で一本買ってゴクゴクやりながら、「わぁ〜、毒だ、毒だ、毒が胃袋に落ちていくところだぁ」とアホな喜びをするのに似ている。たまに食べるとはいっても、ふだんはまず、そういう高カロリー低栄養のジャンクものは食べないので、中国産の冷凍食品が怪しいとなれば、みんな、食べなければいいだけのことなのに…、と思ってしまう。
 発表された注意すべき商品品目を見ていると、どうしてこんなに冷凍食品を食べる人たちがいるんだろう、ということにこそ驚かされる。冷凍食品半額とかいう広告に釣られてたまに試してみると、たいてい、どれもマズイ。あれがうまいと思うなんて、ちょっと、味覚的にも食覚的にも危ないんじゃないだろうか。栄養とか安全とかいう以前に、あれはマズイだろ?自然に買わなくなるだろ?食べなくなるだろ?…そう思えてならないのだが、不思議というか、物好きというか、いろいろな人々がいるものである。ロハスとか、はてはエコロジー云々とか、そういうところまで発展させるまでもない話である。
 テレビのコメンテーターたちの話をちょっと聞いていると、食の安全が脅かされて由々しき事態だとか、まったく中国というのは…とか、ヘンな方向に話を向けてばっかりいる(もちろん、味の素とか、日清食品とかがスポンサーになっていたりする)。そもそも、冷凍餃子を食べるのがどうかしているのだ。そんなナサケナイ食生活は止めましょう、餃子ってのは近所の手作り餃子の『来来軒』あたりに行って食べるもんでしょ?、って発言するべきではないか。厚生省なんかも、「冷凍餃子なんて食べさせちゃだめでしょ、お母さんがた?ちゃんと家で作りなさい」と叱るべきなのである。多忙な現代社会において冷凍食品は欠かせない、とか云う意見にも一理はあるだろうが、冷凍餃子とか冷凍ハンバーグが欠かせないと言い張るに至っては議論が間違っている。福田康夫が、あの皮肉な口調でひとくさり、ぜひ教育的な失言をしてもらいたいところだが、まだ言わないなぁ、彼。

■第一一四号(二〇〇八年二月十日)
 二月も、もう三分の一が過ぎてしまう。はやさに驚かされるが、翻って考えれば、これは、何も過ぎていかないということではないのか、とも思う。時間が経つと云い、歳をとると云う。私が経つとも、私をとるとも云わない。時間など、それほど大事なものではないのに、過大に扱いすぎた結果、図に乗っているだけなのではないのか。ひょっとしたら、携帯電話のように、ずいぶんと新しい発明に過ぎないのではないか。

■第一一五号(二〇〇八年二月十一日)
 トロワテという文集は、二〇〇三年十月に開始した。今月五〇号を数えることになったが、四年と五ヶ月ほどで五〇号というのは微々たる数量に過ぎない。量をこなせばいいというものではないが、無才の人間に必要なのは先ず練習量だということを、ぼくのような代表的無才者は忘れるべきではないだろう。
 トロワテという名は、ぼくの住んでいる三軒茶屋が三茶と略称されることにちなんで、フランス語でトロワ(三)・テ(茶)と名づけてみたものだった。もともと下北沢のほうに住んでいたのが、こちら、三軒茶屋に住むようになったのは偶然に過ぎない。たまたま、船の操縦室のように東南西の三方の開けた明るい開放感に富んだ物件を見つけ、一度こういうところに住んでみるのもいいだろうと思ったのだ。古くていろいろと不都合もあるのだが、日の出後から南中、日の入りまで、太陽の動きをほぼ全て、家にいて見ることができる。なにより夕暮れの西空が、大きく、綺麗に広がって見える。日没とともに刻々変化していく雲の色には時間を忘れるほどだ。買い物の便利さなども格段にいいし、地下鉄のおかげで銀座あたりにも二〇分ちょっとで出られる。とはいえ、外から見るとゴタゴタした雰囲気がある街で、はじめは慣れるかどうか、不安もないではなかった。
 キャロットタワーができる以前、用事で三軒茶屋には時どき来た。昭和三十年代の雰囲気とどこか幕末のような雰囲気が混じっていて、夕方を過ぎるとふいに暗くなり、ぼくにとっては、とにかく寂しい厭なところだった。世田谷通りなどは、古い感じの商店街が並び、廃止されたはずの玉電がまだ通っていくのではないかと感じられる時があった。だが、キャロットタワーができてからは、駅周辺が整備されて、気の流れとでもいうものがガラリと変わり、明るくなった。三軒茶屋と下北沢を結ぶ茶沢通りも、かつては陰々滅々としていたが、この頃はずいぶんと楽しい通りに変わりつつある。
 成人後の人生の殆どを下北沢周辺で暮らしてきたぼくだが、思い出してみれば、はじめて世田谷に来たのは、大学時代、アングラ劇団の練習に参加するために三軒茶屋に来た時だった。あちこちの区民会館を予約して借りて、そこに一日の仕事を終えた若い人々が集まって、準備体操をし、練習に入る。大工や左官屋や造園業の見習いが多く、そうでなければ何か別の肉体労働をしている人たちだった。大学を無事に出た人たちもいたが、あえて中退する人たちも多かった。中退というのは勲章のようなものだったらしい。  現在の住まいの近くに、当時来たことのある区民会館のひとつがある。今になって因縁のようなものを感じるのは、現在勤めている学校が、あの頃の仲間たちのうちの何人かの母校だったということだ。ただそれだけと言えば言える。だが、自分の世田谷とのつき合いの発端となった地がすぐそこにあり、あの頃のあの連中の学校に今の自分が関わっているということには、何度も何度も考えてしまうような不思議さがあるものだ。
 こういうことは他にもあって、たとえばパリとの関わりにも同じようなことがある。はじめてパリに行った時、ぼくは十六歳で、ひとりでわけもわからず歩き回って、ずいぶん迷った。夜、バック通りにあるホテルに帰り着けず、周囲を無駄にぐるぐると廻ってしまったりもして、けっこう寂しい思いをした。
 後年、フランスの政治家・作家のシャトーブリアンという人物の回想録の原文の文体に妙に深く感じ入るところがあって、長く付き合ってこれを読んでいきたく思うようになり、彼にゆかりのあるフランス中の場所を見て廻ることにもなったが、なんと、ぼくが最初にパリに来た際のホテルの場所が、シャトーブリアンの晩年の住まいの近くだったとわかった。高校生のぼくが道にまよって歩きまわったあたりが、老いたシャトーブリアンが歩き回ったに違いないところだとわかった時には、偶然に驚くというより、ゾッとさせられるような何かがあった。
 自分の人生は、一から十まで逸れ続けで失敗だったとぼくは思っているが、ひょっとしたら、あらかじめこうなるようにできていたのかもしれないと思うことも、わずかにだが、ある。三軒茶屋やパリのバック街で起こったような奇妙な符合に気づく時がそれで、後々の自分というのは、いつも、現在の生活のどこかにそれとなく小道具として顔を覗かせていたりする何かに関わっていくものなのかもしれないと思う。

■第一一六号(二〇〇八年二月十二日)
 少年時代のアーサー王がマーリンに出会って魔術修行をする物語には、心の奥が反応する。なんとも言えぬ懐かしいものがある。それもそのはずで、長い転生の所々で、あのようにあなたは生きてきたからだ、と霊媒師たちには言われる。チベットの聖者ミラレパの修行譚も懐かしいでしょう? 瞑想、修行、魔法。これが何世にもわたるあなたの活動の本質だったものね。
 俗世で、魔力を使わずに普通に生きてみるというのは、何百年ぶりかのことらしい。覚者たちは、これも修行のひとつだというが、率直なところ、魔力を封じられて生きる地球滞在というのはつまらないものである。誰にだってつまらないのだろう。結果として、人間たちは化石燃料や原子力に頼ることになり、地球を危うくする体たらくだ。ルシフェルと呼ばれていた頃が私にはあったそうだが、プロメテウスが人類に火をもたらしたように、万人に魔力を、と主張し続けていたらしい。この提案は、いつも、例のあの上司からは却下され続けてきたが、今にして思えば、よほど私のほうが正しかったのではないかと思える。
 もっとも、近頃は私の魔力も自然に戻ってきていて、その磨き直しを心がける日々となってきた。もちろん、自己の欲望のためには使用できない。その徹底した抑制力そのものが、自ずと魔力を呼ぶのだ。アクセルのように小石を移動させたり戻したりして、力を確認しているものの、自分のためにも、他人のためにも、もちろん、人類のためにも使うことはできない。今回はそういう定めである。しかし、次の生では大がかりに使わせてもらう。その準備のための後半生である。
 もちろん、悪友サン=ジェルマン伯爵らと交信したりする程度の力の使用は、今生でも許されているのだが。

■第一一七号(二〇〇八年二月十三日)
 勤め先では、よく、スーツを着てきた。スーツは嫌いなもののうちでも最たるもので、ネクタイなど、本当に反吐が出そうなほど嫌いだ。だから、わざと着て、暑くなければネクタイをする。いつも私がスーツ姿なのを見て、「スーツがお好きなんですね」と言われることがあるが、「いいえ、心の奥底から嫌悪しております」とにこやかに答えると、ほとんどの相手は戸惑う。嫌いだからこそ着て、あえて着晒してやる、嫌いな時代と社会にむけて外貌を捨ててやるという考え方は、どうにも理解されにくいらしい。心の隅々までねじくれ切ったワイルドの弟子、リラダンの弟子、そしてボードレールの弟子、荷風の血縁、なによりバイロンの弟子がいまだにいるとは、誰も思わないのだろう。私は骨の髄まで、徹底的なロマン主義者だ。ロマン原理主義者とでもいえばいいのか。バイロンやシェリーやキーツなどのあの精神と生活態度が、心身に染み込んでいる。だからこそ、昭和平成の日本では、巧妙に小市民の仮面を被らねばならないのでもある。
 とはいえ、秋から春先などは、ジーンズにビジネスシャツ、そうして時にはネクタイという格好をすることがある。アメリカの理科系の大学人に多い格好だが、やってみると、これはけっこう落ち着きがいい。もっとも、いくつかの偏差値の低めの学校では、あいかわらずスーツのまま。ジーンズなど穿いていけば、たちまち悪くみられるのがわかっている場所というのは、この時代にもまだある。
 脳科学の最前線の理論や学者たちを紹介した、少し前の本を最近読んでいるのだが、そこにノーム・チョムスキー(マサチューセッツ工科大学)の素敵な写真がある。七十歳を超えている写真だが、コーデュロイのズボンに黒いスポーツシューズ、シャツの上にはザックリした肌合いのセーターを着ている。他の写真では、ジーンズにシャツ、ジャケットというのもあった。なんともかっこいいのだ。銀行員とほとんど変わらないような日本の大学のセンセたちとは、まあ、徹底して違う。量子脳理論のスチュアート・ハメロフ(アリゾナ大学教授)など、国際会議での写真では短パンにTシャツ、野球帽で山羊ヒゲだし、「ハード・プロブレム」の第一人者の神経哲学者デビット・チャルマーズ(カリフォルニア大学教授)も、いつも、肩より長い長髪にTシャツ、ジーンズ、スニーカーという出で立ちらしい。
 歳を取るほどに黒ジャンパーばかり着るようになったジャン・ジュネや、いま現にそうなっているクンデラ、いつも奇矯だったバロウズなどの装いも忘れがたい。
 こういった人たちの姿を見ると、そろそろ好きにやらしてもらうかな、と思う。
 そうしてあれこれ考えるのだが、やはり、日本の風土では安いビジネススーツが便利だろうか、という考えに落ち着くのが、また、皮肉なところだ。最近のビジネススーツはかつてのものと違って、雨に濡れてもすぐ乾くし、上着一枚とネクタイで寒暖の調節がしやすい。さすがに、イヤイヤながら着ざるを得ないたくさんのビジネスマンたちに練られてきただけあって、格段の進歩を遂げている。クリーニングに出しても、スーツの場合だけは、なにも頼まずとも急ぎでやってくれる。ふだんの勤めに出るには、高いものなど着るのは逆に不便なので、安いものを買って着るが、そうなると現在、一揃い一万円はしない。
 これが、ジーンズに適当なシャツに、と、あれこれ見繕うとなると、実際にはけっこう金がかかるし、なによりも、朝方に雨に濡れたら一日中半乾きで夕方まで過さなければならない。ビジネススーツのズボンでは考えられないことで、よほどひどく濡れても2時間以内にすっかり乾いている。Tシャツなど着ると、一度汗をかいたら乾かない上、冷房の風にあたると冷水のように冷えて逆に体を壊すが、スーツとワイシャツ、その下に汗をとって乾かすのに優れた素材の肌着を着ていたら、こういう不便さはまず考えられない。快適さをとことん追求すると、ビジネススーツをネクタイなしで楽に着ているのがいちばんいいということにどうしてもなっていくのは、ヘンだと思うべきか、それとも、そもそものスーツの発生理由を地で行っていて正しいのだと見るべきか…
 ヨーロッパの田舎で農夫の作業を見ていると、誰も農協マークの作業着や帽子など身につけておらず、たいていコーデュロイなどのジャケットを着て作業している。スーツの上着の原型のあの形式は、もともと労働着だったのだと感心して、よく見ていたりする。雨が降ってきたりすると、襟を立て、胸元を締めて身を守る。ジャケットの襟は飾りではなく、あくまで実用に出来ているのがよくわかる。
 以前、パリのどこかの駅から地方に旅に出る際、ホームで見かけた若い男のことを時々思う。シルクハットをかぶり、フロックコートを着て、首にグリーンのスカーフをしていた。グリーンのスカーフは、言わずとしれたウージェーヌ・ドラクロワのお気に入りのスカーフだが、この現代の中に、ロマン主義の時代からそのまま抜け出てきたような格好に、一瞬、目を疑った。いわゆるコスプレ趣味の類かもしれないのだが、面白かったのは、周囲のフランス人たちがまったく意に介さない様子だったことで、いっしょにいたフランスの友人たちも、「おや、ダンディな奴がいるな」と肯定的に言うばかりで、ヘンなヤツという評はまったく下さなかった。ああいうところが、ヨーロッパの底知れなさだといつも思う。基本的に、他人がひとと違った格好をしているのを愉しむ、というところがある。そういうところの寛大さは、日本は逆立ちしても追いつかない。

[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]