[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


ARCH 67

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 11
        [第一一八号〜一二一号・2008.2.15〜2008.2.28]


■第一一八号(二〇〇八年二月十五日)
 詩誌『詩学』は、長い歴史のある雑誌だったが廃刊となった。
 詩学社も倒産となったことを、まだご存知でない方々に、この場を使ってお伝えしておくべきかと思う。
 これを受け取られている方々にも、かつて『詩学』と関わった方々は少なくないはずで、すでにこの知らせをご存知の向きも多いかもしれないが、場合によっては、噂さえ耳にしていないという方々もいるだろうから。
 もうひとつ、訃報も。
 詩学社社長で『詩学』の編集長だった寺西幹仁さんは、昨年11月末に、編集室で亡くなっているのが発見された。脳出血だった。正確な死亡日時はわかっていないが、11月27日前後だったのではないかと推定されている。享年四十七歳。
 最近やりとりをしていなかったので、ぼくも、ついこの間まで知らなかった。
 寺西さんとは一時期、かなり頻繁に会っていた。『詩学』で2年間、投稿作品の選考と批評をしたことがあったが、その時期と、その後しばらくの時期がそれにあたる。当時のことを、すこし思い出しておきたい。
 あの頃、まだ社長兼編集長は篠原憲二さんで、寺西さんは補佐のような立場だった。毎月一〇〇から一三〇、時にはそれを超える投稿作品が寄せられていた時期で、H氏賞詩人の山田隆昭さんと篠原さんとぼくとで回り持ちで下選びし、数を狭めたところで、月に一回、三人で編集室に集まって本選をするということにしていた。
 寺西さんはコンピューターソフトの会社から転職してきていて、いつもパソコンに向かっていたのを覚えている。ちなみに、当時よくいっしょに飲んだ篠原さんは、東大の経済学部出で、大手証券会社にいた経歴のある詩人だった。
 経営難や詩歌の雑誌の今後の見通しの難しさからだろうが、篠原さんは、いくらか神経衰弱になったかとも思えるような雰囲気が続いた後、突然退社してしまった。急遽、寺西幹仁さんが代表となって『詩学』を継続することになったのだが、この時に寺西さんから聞いたところでは、篠原さんは『詩学』を廃刊して会社をたたむか、寺西さんに後を譲るか、どちらかを考えていたという。寺西さんは後者を選んだ。大きすぎる困難と、いっぽう、無くはないわずかな可能性とを、ともに担い込んだかたちだが、少なくとも、これが寺西さん個人の寿命を縮めたとはいえるだろう。
 辞めた篠原さんにかわって、投稿作品の選考と批評の仕事にしばらく寺西さんが加わることになったが、もともと忙しいところに引継ぎの雑事などまでいっぺんに増えるとあっては、とてもではないが無理だと考えたのだろう、かわりに、途中から川口晴美さんが新たに加わることになった。
 編集長兼社長となった寺西さんとしては、この機会に『詩学』を新しく生き生きしたものにしたいと思ったらしい。それまでの企画を継続しつつも、新しい企画の発案に頑張っていた。新人賞の刷新もそのひとつで、賞金の出る新人賞として編成し直した。第一回の受賞者としては、才能の顕著な二十歳前後のクロラ氏とちょり氏を選考した。本当は受賞者はひとりの予定だったのだが、ぼくも山田さんも川口さんも、寺西さんに多少の無理を言って、このふたりに授与するよう説得した。
 こういったことは、もう何年も前のことで、最近ではあまり、『詩学』そのものとのやりとりはなくなっていた。あそこに書いている人や、投稿している人たち、アルバイトをしている人たちとの連絡のやりとりは続いていたので、雑誌の状況や企画の変更などについては、いろいろと情報が入っていたが、首をかしげるようなものである場合もあった。一時期までは、ずいぶん頑張っているように見えたが、しだいに経営状態が芳しくなくなっていっているらしいとは聞いていた。
 もともと、どんなジャンルであれ、雑誌には辛い時代となっている。古いタイプの地味な、素朴ともいえる文芸誌が、うまく売れるはずはなかった。自我の表白への強い欲望を持つ若者(しかも、他のジャンルの表現手段に向かわず、奇跡的に詩歌に興味をむけるタイプの若者…!)を取り込むか、老年に入っていく旧来のかたちの詩の書き手たちを繋ぐ、ある意味、古色蒼然たる詩誌として続けていくか。これしか、ぎりぎりの商売は続けられないはずだった。両方をひとつの雑誌のなかに実現できればいちばんいいだろうが、これは簡単ではない。
『詩学』の編集方針や経営はぼくの関与しないことではあったが、たぶん、旧態依然という雑誌の姿をあえて保っていくのがいちばんいいのではないかと、寺西さんと飲む時など、よく話した。時代の最先端をいくような雑誌づくりは『詩学』の経営状態ではそもそも不可能だし、文学以外のジャンルに浸かって育ってきている二十代をターゲットにしても、顧客の数は最初から限定され過ぎている。人数的には、なんといっても団塊の世代がターゲットとしては最良であり、老いに入っていく彼らの中には、たとえこれまで詩歌に手を染めなかった人でも、人生の回顧手段として自由詩形式を選ぶ可能性はありうるだろうから、雑誌としての成長はまったく望めないとはいえ、まだ継続はできるのではないか… 景気の上がらない話には違いないのだが、こんな見通しを語ったことはけっこうあった。
 寺西さんは、どちらかというと若者をターゲットとする路線に舵を切ったように見える。朗読会や詩関連の集まりにいくと、若者は元気に絶叫型の朗読をしたりするし、酒盛りをしたり、はしゃいだりと、いくらかは景気がよく見える。あれに惑わされるほど単純でもなかっただろうが、それでもやはり、寺西さんは読み違いをしたのではないか、とは思う。よほどの商略がなければ、ほぼ無意味に終わるのが文芸書の出版行為というものだが、こういう面を最初から切実に認識できない若者たちを相手にして詩歌の商売をしても、いい場合でも、ひとりに一冊程度の自費出版を押しつけられるかどうかというところだろう。「谷川俊太郎」でない詩人がつくった詩集は、出版した翌月には不良債権化する。というより、単なるゴミになって自宅の押入れに詰まれることになる。そういうゴミの山を性懲りもなく何度か作り出していけば、天下晴れて「詩人」になれるのだと幻想する若い甘さに文芸ビジネスはつけ込む他ないのだが、若者にとっては数十万円どころか、数万円でも大金なのだから、どんな安手の詩集であれ、一度出してみれば、ちょっと厚い名刺代わりに無料で配れる程度で、いかに何にもならないかを苦く痛感する。そういう話はすぐにまわりの友人たちに広がり、名刺代わりのわけもわからない詩集をもらった普通の人たちも、ありがたく思うよりも哀れさや底知れない寂しさを感じさせられる度合いのほうが多いのだろうから、世間に広がっていく負の波紋というのは、けっこう馬鹿にならないのである。こういう無形の波はしっかりと出版元にフィードバックし、いっそうの沈下をひき起こしていく。そもそも世間というのは、書かれたものの良し悪しなどどうでもよいので、ただ景気がよく見えるかどうか、明るく楽しい雰囲気にしてくれるものかどうか、そうでなければシミジミさせてくれるかどうかだけを、いま、出版物に求めている。そういった雰囲気が確保されている上で、はじめて、多少は考えさせられる、癒される、ほんのちょっと社会の問題も見せてくれる、という部分を受け入れるような状態になってしまっているのだ。
 脳出血での死は、ある意味では事故のようなものだから、寺西さんの死を大げさに考えるべきではないとも思う。中年以降になれば、元気でやっているようでも、いつ誰に降りかかるかしれない。毎日ジョギングをしたり、ジムで体を鍛えたりしている人の急死も頻繁に聞くし、ヨガやロハスや、さまざまな健康法に余念のない優雅な生活を送っている人たちの急死も耳にする。若者にさえ、ふいに訪れるのだ。三ヵ月や六ヶ月おきに数十万から百万円ほどかけて徹底的な人間ドックをやれる人でもないかぎり、誰も逃れられないもののひとつと考えねばならないだろう。
 だがぼくは、よく戦争写真で見るような、戦車の操縦室にいるまま死んだ兵士や、深海に沈んでいった回天の内部でそのまま息絶えた兵士の姿を思い出してしまう。編集室というコックピット、操縦室ともいうべきところにいて突然の死に見舞われたというのは、ぼくのように、書くことという戦場に無思慮に出てしまって、そのまま野戦を続けながらまだ死なないでいる、というばかりの人間には、やはり、感慨深く見えてしまう。死んだのは彼だが、自分もまったく同じ状況にいて、まだ死んでいないだけのことだと、思う。いくらか死の時がズレているというだけのこと。
 同じものに向かって戦っていた、という気持ちはあるので、大げさにいえば、戦友なのだった。詩歌のかたちで、狭い流行にしたがって商品化するばかりでなく、思い通りに書き表わしてみたい、というシンプルな欲望に衝き動かされた戦友たち。ただそれだけの欲望が、ぼくらひとりひとりが抱え続けている、これほどの苦悩や落胆や悔恨をもたらし、悲惨をもたらすのだった。
 「大げさにいえば」と言ったが、シンプルに詩歌を愉しもう、書こうと思っている人々にとって、本当は少しも「大げさ」でなどないだろう。戦闘は続いていくのだ。どこかで流れ弾に当たったり、地雷を踏んだり、単に糧秣が途絶えて死ぬ。
 もちろん、それを怖がる人は、最初から詩歌の領域には入ってこない。価値という他者の目ばかりを精神の中核において生きていく人々は、詩歌の無意味さには、たとえわずかでも耐えていけないからだ。「無用の事を為さずんば何をもて有限の生を尽くさん」と吉川幸次郎は言った。面倒な詮索をせずとも、自ずと心身がこの「無用の事」に向かってしまう運動特性を持って生まれてきた人々のみが、詩歌に向かっていくのだというべきだろう。

■第一一九号(二〇〇八年二月十七日)
 この二カ月ほどは、ひさしぶりに、谷崎潤一郎の世界とのつきあいが生活の柱の一本となっていた。偶然だが、そうしている間に、映画の『細雪』を撮った市川崑が亡くなった。
 市川崑の映画『細雪』(一九八三)は、原作とはまったく違うが、好きな映画である。
 もっとも、悪いところはいっぱいある。なにをやらしても極めつけの大根役者である吉永小百合に雪子役をあてがってしまったこと、岸恵子の着物姿が実際には胸元を拡げ過ぎた娼婦の着方で、旧家の長女の装いにはまったく合わないというのに、本人の好みを監督が抑えられずにそのまま撮影されてしまっていること、シンセサイザーで俗臭芬々に奏でられる「オンブラマイフ」が、いくらNHKべったりのヤクザのマスオさんだった喜太郎ばやりのバブル期制作とはいえ、まぁ、あまりにひど過ぎることなどなど。もっとも、市川崑は、観客たちの生真面目さや固定観念をたくみにおちょくるところが持ち味で楽しいので、岸恵子の誤った着物の装いなど、知っていながら、わざと通してしまったとも思える。両家のしきたりを守るのに汲々としている〈家〉の権化のような女が、お女郎の着物の装いをしてしまっているなんて、悪戯としては楽しいことこの上ない。基本的に、映画なんて、学芸会の大がかりな延長みたいなもんだろうが、と思っていたようなところがあって、そこが独特の寛ぎに通じていたし、楽しさを生んでいた。タランティーノの徹底的な名作『キル・ビル』の冒頭に、世界的巨匠である深作欣ニに捧げる、という献辞が出ていたが、クスッと笑わさせられてしまうああいう生真面目なおちょくり、従来の価値観の一等両断的無視とギアチェンジが、やはり文学や美術や映画や学問には、どうしても欲しいところである。
 市川崑の『細雪』には、悪いところもいっぱいあったものの、それでも脇役たちは素晴らしかったし、辰雄役の伊丹十三がいい味を出していたし、BGM的に流している分には映像の流れがとにかく美しいことなど、よいところもいっぱいで、残念さと満足感の同居した奇妙な感情を持たされる。1950年制作の阿部豊の『細雪』のほうが原作に近く、高峰秀子の妙子などがいいという意見も多いが、あの映像は、マジメに取り組んでいる分、いまひとつくすんでしまっていると思えてならない。どれほど原作を裏切っていても、個人的には市川崑のほうを選びたく思う。
 吉永小百合については、行定勲の『北の零年』の際の余りといえば余りのひどい演技が忘れられない。歳をとってもアイドル扱いを強要してくるマネージャーサイドの酷さは、業界では有名らしい。行定勲の才能を以てしてさえ、ああなってしまうのかと、あの時は、ずいぶん暗澹とした気持ちになった。シャープのテレビCMなど、一本で一億円の出演料だそうだが、サユリストなる単なる美学的馬鹿が大量生産された今の七〇歳代以上の連中の美意識を共有しない者としては、演技の臭い俳優はいいから引っ込んでろよ、と思ってしまう。吉永は、最近では山田洋次の『母べぇ』に出ていて、大金をふんだんに注いでの映画会社や広告会社のCM戦略では絶賛の演技ということになっているが、見てきた人たちは一様に「酷すぎる、酷すぎる、酷すぎる。やっぱり吉永小百合ってダメだ」という評ばかりで、山田洋次でさえあの大根を料理しきれなかったか、とはもっぱらの下馬評である。もちろん、映画には小百合以外の俳優たちも出ているので、小百合を隠すのに手頃な大きさの黒い紙でも持っていって、映画館で小百合の部分を隠しながら鑑賞するという手はある。
 俳優ということでは、この一月二十二日に二十八歳のヒース・レジャーが死んだのが惜しまれる。アン・リーの傑作『ブロークバック・マウンテン』で主役を演じた忘れがたい俳優だ。睡眠薬を服用し続けていたことから来る、薬の併用や過剰摂取での急性薬物中毒死だったという。オーストラリアのスコットランド系の家に生まれて、『嵐が丘』のヒースクリフの名から取ったヒースを命名された俳優で、そんな本名の由来だけでもぼくのお気に入りだった。

■第一二十号(二〇〇八年二月十九日)
 アラン・ロブグリエが十八日、ノルマンディーのカンで八十五歳で亡くなった、という。
 カンにはよく行ったし、ロブグリエやヌーヴォー・ロマンが大好きなので、たったこれだけの報が、さまざまなことを甦らせる。
 第二次大戦で破壊され尽したカンCaenは、なぜか日本ではカーンと表記されがちだが、現地に行けば誰でも「カン」と発音している。廃墟に再興されたからか、とても風通しのいい清潔な美しい街で、フランスの都市の中でも快いところのひとつだと感じる。
 ちなみに、ぼくがカン以上にいちばん美しい最高の街だと思ったのは、ミシュランの本拠地で有名なクレルモン=フェランで、街のどこを歩いても、遠景の山々と近景の建物や街路がみごとな調和をなしていて、散歩が楽しい。街の中心にそびえる大教会には、黒い石を使った先端のすこし曲がった魔的な塔があるが、心臓に自信があれば、上まで階段を歩いて上れる。一度、夕方に上った時、入口の分厚い木製の扉の鍵をかけられて閉じ込められたことがあった。フランスに行くとよく経験することだが、係員が終業時刻よりだいぶ早くに戸締りをして帰ろうとしたためだった。中世以来とまでは言わずとも(いや、本当はそうかもしれない…)、相当に古い頑丈な扉を、あの時ばかりはガンガンと蹴っ飛ばし、あらん限りの声で「助けてくれ、この中にいるぞ!」と叫び続けて、ようやく神父を駆けつけさせた。教会内部にまだいた客のひとりが聞きつけ、知らせてくれたのだ。係員はもう帰ってしまっていた。神父が持っていた鍵が、ぼくの腕ぐらい大きい鉄製なのをしげしげと見た時には、なんだかラドクリフあたりのゴシック・ロマンの一場面を自ら演じさせられたような感じだった。閉じ込められても、命の危険に瀕するほどではなかっただろうが、翌朝まで明りもない石づくりの塔の中にいるのでは、きっと多くの亡霊の訪問を受けかねない。たとえば、いくらぼくが偏愛する処とはいえ、あのカタコンブで閉じ込められたら、あれだけの厖大な人骨に囲まれて一夜をひとりで過すのだから、さすがに心細くなるとは思う。その点、教会の塔ならば、一晩の牢獄経験だと思えば済む。『モンテ・クリスト伯』のエドモン・ダンテスが閉じ込められたのはこんなところだろうかと、ひとつひとつの石組みを見つめながら空想世界にいっそうの肉付けのできる絶好の一夜にしていけばいい。
 こんな感じで、カンやヌーヴォー・ロマンについて、思い出すままに書き始めようとすると、いつの間にか関係のないクレルモン=フェランの塔の話に滑っていく。書くとか思い出すというのはこういうことで、単に、自分の中の「カン」や「ヌーヴォー・ロマン」に行き着こうとするだけでも、果てのしれない遠回りをしていかざるを得ないのが、言語配列による思索や回想のありのままの姿なのだろう。他人は、誰もこのような遠回りに付きあってはくれないが、こういうところにしつこく自分だけはつき合うというのが、世界観の表出としての本当の文芸というものなのだろうと思う。うまく行けば、プルーストやモンテーニュ、アウグスティヌス、さらにはクロード・シモンのようなものになるのだろうが、うまく行こうが行くまいが、これをやる他にないというところにだけ、文芸が開いていくというのも古来からの定めだった。

■第一二一号(二〇〇八年二月二十八日)
 高峰秀子についてのある雑誌の連載を読んでいたら、殆どのことについて、彼女がさほど興味を持っていないらしいと出ていた。いい話だな、いい感じの人だ、と思った。
 世のなかには年寄りの三種の神器というのがあって、自慢話、説教、愚痴なのだそうだが(年寄りだけでなく、大学のセンセたちや何かの専門家たちや趣味人たちやオタクたちや部長クラス以上の殆どの勤め人、さらにはバーなどに夜な夜な蔓延るウンチク親爺たちの神器でもあろう)、間近に接して見ている書き手の言うには、高峰秀子にはこれらが全くないのだという。そればかりでなく、テレビも観ない、音楽も聴かない、電話もかけない、外出もしない。
 しかし、朝食の後かたづけをするや、ベッドに戻って、ひたすら文字を喰うように読書をして暮らす、という。これが一九二四年生まれの高峰秀子の現在であるらしい。
 こういう人の存在に、詩歌や瞑想に親しむ人間が、今さらながらに驚いたり新鮮に感じたりは、もちろんしない。
 しかし、芸能界の頂点にいた人の、このような様を知ることには、どこかホッとさせられるものがある。引退後のグレタ・ガルボが隠棲して暮らした話なども、この類だろうか。
 とはいえ、――ここで話を急展開させて、もっともらしいエセ人生訓ふうのオチからあえて乖離しつつ言えば、「年寄りの三種の神器」と見なされるがゆえに「自慢話、説教、愚痴」をするまいと努める老人たち、センセたち、親爺たちほどつまらないものはない。そこには、人に嫌われまいとするチマチマした根性が見えて、醜い。だいたい、目の前の人間どもが、「自慢話、説教、愚痴」を豪勢に披露してくれることほど面白い光景はないのだ。モノのわかったような、サッパリしたような、瀟洒な、薀蓄があってもあえて出さない、などといったショウワヘイセイ型小市民的振る舞いこそ、自己顕示欲の見え透いたオゾマシイ顕われなのであって、老人たちもセンセたちも親爺たちもせっせと、「自慢話、説教、愚痴」するべし、である。ティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』など、そこのところを巧みに称揚していて、とかくつまらなくなりがちな世の中をどう「自慢話、説教、愚痴」しつつ生きるべきか、愉しく描いていた。
 そもそも、あらゆる意味での文化なるものの本質は、「自慢話、説教、愚痴」に尽きる。沈黙や静寂の礼讃さえ、精神的饒舌や舌戦の果ての果ての「自慢話、説教、愚痴」のひとつの小ワザに過ぎない。身にそぐわぬ精神的清貧など、気取らぬに越したことはないだろう。振幅の激しい喜怒哀楽の維持、多方面への欲望体力の維持にせいぜい努めて、悟りにも、深みにも、真理にも、美にも、善にも陥らぬことこそが大事ではないか。
 なにかと言えばくり返し思い出すことにしているバロウズの言葉を、もう一度、復習。
「明らかに道だとわかる道は、ほとんどいつも、愚か者が通る。真ん中の道、つまり中庸、良識、慎重な計画という道には注意するがいい」(『ウエスタン・ランド』)。

[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]