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      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 12
        [第一二二号〜一三〇号・2008.3.8〜2008.3.29]


■第一二二号(二〇〇八年三月八日)
 今回の文章は、若干の変更をくわえた上で、現在発売中の『美しいキモノ』二〇〇八年春号(アシェット婦人画報社)にも掲載されている。「創刊55周年記念企画 『細雪』の世界」の一環。
 文中に引用した京の花見の季節とは違うが、先だって、京都に数日遊んだ。強風の中、南禅寺から哲学の道をずっと辿って法然院まで赴き、谷崎潤一郎と松子夫人の墓参りをしてきた。
 谷崎の墓石には「寂」とだけ刻まれている。そぐわない字が選ばれたかのような感もあるが、『吉野葛』や『蘆刈』、『陰翳礼讃』などを思い出せば奇異とも言えまい。もっとも、「寂」という字がもたらす印象は、川端康成のこんな言葉のほうに、より近いものがあるような気持ちは否めないが。
 「敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものも信じない。近代小説の根底の写実からも私は離れてしまいそうである。もとからそうであったろう」。
 悲しみといい、哀しみという。これは、日本の風土に生きる者の倫理そのものといってもいい気がする。秋津島の景物は哀しい。此処では、どのように在ろうとも人間は哀しい。ひたすら哀しくあり続ける、ということは、たぶん、日本での生の作法であったのだろう。哀しくありさえすれば、われわれ日本人は、大きくは過たないでいられる。
 京都では、ある晩から雪となった。翌日、なおも降り続ける中、計画を変更して急遽タクシーを飛ばし、銀閣、金閣をまわった。外装修理中の銀閣では、パイプで組まれた足場で景観が台無しだった。しかし、金閣の雪は美しかった。佇んでいるうちに吹雪になり、あのあっけらかんとした金箔に白雪の大ぶりの斑がいつまでも天より流れ続けて、ふいの祭りのようになった。

■第一二三号(二〇〇八年三月十五日)
 最晩年のニーチェを撮影した短いヴィデオフィルムがYouTubeで見られる。
 このあいだ偶然見つけて何度も見返しながら、さすがに感慨深かった。
 一九〇〇年に亡くなっているから、一〇八年経ったことにはなるが、歴史上では、まだまだ、ついこのあいだの人といえる。それでも、他の著作家とくらべて伝説の度合いの極端に高い突出した存在なので、実在した証しである映像を見ると、なにか特別な顕現の瞬間に遭遇したのに近い感情が湧く。
 YouTubeでは、フーコー、ドゥルーズ、デリダ、ハーバーマスなどはもちろん、晩年のハイデガーのインタヴューなどもかなり見られてなかなか充実しているが、晩年のおのれの静寂の世界に佇んで、ただベッドに身を起こしているニーチェの姿には、なににも増して強烈な印象がある。
 興味のある方は、こちらをクリック(なんだか、近ごろのブログふうの物言いだが)。
  http://jp.youtube.com/watch?v=yuud5Kl8QLg&feature=related
 一九二二年に亡くなったマルセル・プルーストについて、コクトーやポール・モランなどが証言するフランスのテレビの古い番組もYouTubeにはあるが、プルーストを教えた学校の先生が、老いてインタヴューを受けていたりするのを見ると、これもまた奇妙な気持ちになる。あのプルーストを教えた先生が、プルースト少年はどんな子でしたかと訊かれていたり、プルーストが原稿を携えてモランの家にお伺いを立てに来たと聞かされたりというのは、映像ならではの超時間体験といえる。
 考えてみれば、まだ、プルースト死後八十六年でしかない。彼は五十一歳ぐらいで死んだのだから、いまで言えば壮年もいいところだろう。若かったのだ。
 プルーストがもっと元気で、さらに二十〜三十年ほど生き続けて活動していたら、ユダヤ人として第二次大戦を避けてアメリカ西海岸やハリウッドに移住した可能性がある、と蓮実重彦氏が映画批評のどこかで書いていた。サン=テクジュペリのハリウッド行などを思えば十分にありうることで、なんだか無性に楽しくなってくるような空想だ。リーフェンシュタールばりの根性と好奇心を発揮して、老年に入ったプルーストがサーフィンに熱中し、ビッグウエーブを待ちながらカリフォルニアの海岸でサングラスをかけてカクテルのストローを咥え、小麦色の肌の女の子たちを見つめていたりする。ヘンリー・ミラーやロレンス・ダレルなどとも交流したりして、なんだか羨ましい老年となったろう。もし九十歳ぐらいまで生き続けもしたら、直接、ビート・ジェネレーションの老師になっていったに違いない。ケルアックなどとはフランス語で対談したりして、プルースト自身の作品世界もまったく違った展開を見ただろう。
 歴史にイフはない、などと、格別の効果もない紋切り型の知ったふうな限定をつける人たちがよくいるが、読者であれ作者であれミーハーであれ、創作の世界に触れているのが好きな人間たちは、つねに歴史のイフからしか発想しないものだ。カリフォルニアのマルセル・プルースト。海パンをはいて、サングラス、サーフィンをかかえて、早朝から波を見つめている、なんていう図は、ゾッとするほど想像力を掻き立ててくれる。

■第一二四号(二〇〇八年三月十八日)
 YouTubeの映像のなかには、中国軍がチベット巡礼者を射殺する場面を撮影したものがあって、やれやれと思いながら何度か見たことがある。
 おととし頃から投稿されている映像で、雪山を登って巡礼に赴くチベット巡礼者を、遠距離射撃の練習対象のように中国軍が射殺する、と解説されている。雪山の白い斜面を登っていく登山者の列が映されていると見る間に、ひとりずつ、バタッと倒れていくのが見られる。
 遠い登山者の列を撮影しているので、本当に撃たれて倒れているのか、それがチベット人たちなのか、わからない。欧米人登山者がインタヴューされて証言しているのでそのように思わされる、といった映像だ。
 今回のラサ暴動の後、見てみると、削除されたわけでもないのに、今まで容易に見えていたアドレスでは映像が見えなくなっていた。おそらく、中国への批判を好まない人々による妨害がなされているのだろう。が、同映像が複数の名称で登録されているので、たとえば下記のアドレスからは見られる。
  http://jp.youtube.com/watch?v=P5sWncFiYnA
 それにしても、これまではあまり書き込みのなかったコメント欄に、中国への抗議運動を呼びかける書き込みが増えて、騒がしくなっている。「中国鬼子」という、かつての大日本帝国人に対する呼び名のもじりのようなものも叫ばれているらしい。
 知らなかったが、どうやら、創価学会が完全に中国寄りで、チベットももともと中国の領土だと弁護する論陣を張っているらしいことなども伝えられたりして、こういう事件の後のネット世界というのは、情報や宣伝や批難中傷によるカオスの度合いをいっそう強めて興味深くなる。
 中立や客観などというものが(素粒子論の実験の現場でさえ)存在しないのは誰もが知っていて、そんなことを試みようとしても意味がないが、しかし、ひとつでも多くの異論や反論を見聞きして、こちらの意識のなかにドストエフスキー世界的多様性を醸成しようとする態度ぐらいは、なんとか保てるだろう。あれも見、これも聞く、どこまでも野次馬根性を持って見聞し続ける、ということだけが、たちの悪い偏見や誤解や過誤に陥るのを、いくらかは減らしてくれるのかもしれない。

■第一二五号(二〇〇八年三月二十二日)
 日銀総裁空席は、ひょっとしたら戦後最大の日本政治の快挙かもしれない。
 金融政策決定の責任者の不在を口実にすれば、目下最悪の砂地獄に陥りつつあるアメリカからの不条理な要請への回答を、なにかと先送りできる。
 世界中が手離したがっている米国債を日本がもっと買え、との強い要請はすでに来ているはずだが、これをやったら日本は完全にアウトで、百年は浮かばれなくなる。円売りドル買いの要請も来ているだろうが、同じこと。かかる国難の押し寄せに対しては、さすがに与党も野党も一致団結、これまでの親方に対して、ぬらりひょん主義でいくことに意見がまとまっている雰囲気がある。なにせ、世界に冠たる小あきんどの国だから、金の切れ目が縁の切れ目、とばかり、いろいろなところでアメリカさんとの関わりを巧妙に切り捨て始めている。
敗戦とともに一日でアメリカ主義に豹変した国というのは、こわいぞ、イザという時には、ふたたび一日で棄米しちゃったりするだろう。
 「いま責任者がおりませんので…」というのは、なんとも便利な言い逃れ策。しばらく、これで行くのではないか。政治は一から十までが演出だということは常識中の常識だが、しばし忘れられがちになる。政治そのものばかりか、新聞やテレビでの報道だって、プロの政治俳優たちの演技の現場なのだから、下手に楽屋や本音を垣間見せるはずがない。福田も小沢も後ろでしっかりしめし合わせて、アメ公相手になかなかやるじゃないの、という感じがする。現実にいま起こっていることは、坂本龍馬を介しての勝海舟や西郷隆盛の密談ふうの出来事の連続であるはずだ。本当は、いま、かなり歴史的に重大な一時期のはずである。
 少なくとも、ナポレオンやルイ十八世などといったバカ殿から下されるあらゆる仕事をひたすら先送りして、なるべくやらないで済ませたというタレイランの政治手法を、けっこう実地で運用している雰囲気があって、タレイランこそを尊師と奉ずるわたくしとしては、ちょっと親しみを感じる昨今の日本政治である。

■第一二六号(二〇〇八年三月二十四日)
 桜の咲く頃になると、歌人たちからの誘いが来はじめる。毎年、性懲りもなく、桜そのものを言葉でなんとか表現したいと思うような人々と接点を持っているのは、これはこれで愉しい。
 自我も、新しさの追求も、現代の問題も放っておいて、古来からの桜の歌の変遷に思いを至らせ、それらにぴったり寄り添いつつ、わずかに新しみを加えようとする人びとの、伝統を全身で受けとめつつのあの軽みというのは、近代文学べったりの人びとには驚愕すべき非個性、没個性とも見えよう。和歌の王国は、見ようによっては、中世にすでに終わっている。末裔たちは、自分たちをあらかじめ失われた存在と見なし、まなざしをひたすら過去に向かわしておけば、浮世での最低限の安寧は得られる仕組みになっている。
 たとえば、次のような歌々。『千載和歌集』や『風雅和歌集』から。
   春になるさくらの枝は何となく花なけれどもなつかしきかな (西行)
   花よいかに春日うららに世はなりて山の霞に鳥のこゑごゑ (伏見院)
   花をまつ吉野の松の雪のいろにかねてぞ春のおもかげは立つ (後鳥羽院)
   花を待つおもかげ見ゆるあけぼのは四方の梢にかをる白雲 (式子内親王)
   朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける (崇徳院)
   咲かぬまの待ちどほにのみおぼゆるは花に心のいそぐなるらし(前関白右大臣母)
   思ひ寝の心やゆきて尋ぬらん夢にも見つる山桜かな (藤原清輔)
   あたら夜の月と花とをおなじくはあはれ知られん人に見せばや (源信明)
   枝もなくさきかさなれる花の色に梢もおもき春の明ぼの (伏見院)
   つくづくと霞みてくもる春の日の花しづかなる宿の夕ぐれ (従三位親子)
   あたら夜の名残りを花に契りおきて桜わけいるありあけの月 (後鳥羽院)
   けふもなほ散らで心に残りけりなれし昨日の花の面かげ (後光明照院前関白左大臣)
   袖の雪空ふく風もひとつにて花ににほへる志賀の山越 (前中納言定家)
『風雅和歌集』には桜に関しては詳細な分類があり、待花、初花、見花、曙花、夕花、月花、惜花、落花、の順で配列されている。開花以前に、すでに「待花」がひとつの確固としたテーマとされているわけで、じつはその中でも、作歌上はさらに細かい仕分けがありうる。後鳥羽院の「花をまつ吉野の松の雪のいろにかねてぞ春のおもかげは立つ」、式子内親王の「花を待つおもかげ見ゆるあけぼのは四方の梢にかをる白雲」、崇徳院の「朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける」、藤原清輔の「思ひ寝の心やゆきて尋ぬらん夢にも見つる山桜かな」あたりは、花を思う心が昂じて、幻の花を意識内に現出させるところまで行っている。幻花、といった項を中古や中世が立てることはなかったが、かりに今、これを設けて季節を超えた作歌をするならば、十九世紀や二十世紀の西欧詩の展開の核心などコンパクトに三十一文字に取り込めもするだろう。
 ともかくも、桜ひとつとっても、こういった歌が厖大に、すでに、ある。これらを読まずして、味読せずして、吸収せずして、検討せずして、日本にあって、日本語を用いての、さて、なんの歌作か、詩作か、文学か。そういった自問を、少なくとも歌人たちはみな抱えている。どこか、最近の食意識に似たところがあるだろうか。自分が使う言葉や統辞法、レトリック、趣向などの産地、加工地、使用例などを少しでも詳らかに知っておきたいという思い。シシューポスの苦役に似た厖大な読書、検討、再考、試作、放棄、再挑戦などの、気の遠くなるような作業が、つねに肩に圧し掛かってくる。
 もちろん、行く手に壁が立ちはだかった時には、それを壊すばかりが能ではない。壁を迂回していくというのもひとつの立派な方法だと、たしか石川淳が安倍公房を論じた時に言っていた。生真面目な歌人たちの矜持は矜持として、まあ、勝手に重荷を引き受けてもらっておけばいい、という考え方もあっていいだろう。日本だの、日本語だのと、そう突き詰めて考えずとも、ともかくも今、この国の言語が目の前に転がっていたり、耳に入ってきたり、目に飛び込んできたりするのは事実なのだから、藁をも掴むという感じで闇雲に使ってしまう。こういうのも大いにありだろう。ブリコラージュだとか、ディセミナスィオン(散種)だとかいった方法論を持ち出すまでもない。ゲリラ主義とでもいうか、現場主義とでもいうか。どこであれ、その場にあるもので、なんとか用を足す。これを試みる時に、文芸から文学が生まれ出る気がする。文学というのはつねに絶壁に立っての行為であり、過去との断絶であり、それまでの方法の失墜ゆえの、新方法の、応急処置の急ごしらえの試みである。これ以外の場所に文学は存在しえない。
 和歌は文学の敵である/かもしれない/にちがいない、のは、こんな事情が付きまとうからだ。過去の遺産の上に居座って、この世に新しいものナシとふんぞり返っている老舗の脂下がった主人=和歌ほど、文学に遠いものはない。
 しかし、だからこそ、文学の側は、いつも和歌の中に窃盗に入り、澱んで腐り切っている場合も少なくない血を啜るべきなのでもある。

■第一二七号(二〇〇八年三月二十五日)
 BCCでいくつかに分けて一括送信、という方法にしているのだが、たまに宛先内容を見直すと、なぜか、送信先グループから消えてしまっているアドレスがあったりする。
 パソコンの設定については惑わされ続けなので、こういう時など、なにが起こっているのか、よくわからない。
 そのたびに加え直したりするのだが、ま、いいか、どうせ面倒がっているだろう、と思って加えない場合もある。
 ということで、こない号があったぞ、という場合には、個人的にご連絡ください。

■第一二八号(二〇〇八年三月二十六日)
 正直なところ、現代の日本語でものを書くのも、読むのも、うんざりし切っている。
 漢字!、ひらがな!、カタカナ!、ローマ字!
 それらが混ざった字面に飽き飽きしている。
 標識や広告看板の字面が目に入ってしまうことさえ、つらい。
 聞くのも飽き飽きしている。
 ふと付けた時のテレビのおしゃべりも、電車のなかのおばさんたちの話も、もううんざり。
 そればかりか、JRの、東京メトロの、あらゆる国道の、CMの、映画の、DVDやCDを使うということの、お辞儀をぺこぺこするのを見ることの、パック詰めの肉や魚を見ることの、ATMの前に立つことの、信号の点滅に反応することの、ああ、すべてのつまらなさ!!!!

■第一二九号(二〇〇八年三月二十八日)
 PDF化するツールを入手したので、今回のテキストはこのかたちでお送りしてみる。
 おなじワード文書でも、ヴァージョンによって、どうやらいろいろに変質したり文字化けして届いているらしいのは聞いていた。PDFで、いっそう原版に近いかたちがご覧になれると思う。
 とはいえ、今回使用したPDFでも、行が歪んだり、太字にした場合の読点の位置がおかしかったりして、なかなかうまくいかない。けっきょく、元のものを少し変更してPDF化したものもある。なんらかの文字修飾をかけると、やはり無理がどこかに生じるのか。
 むかしの小学校や中学校の補助テキストのようなシンプルなタイプ印刷のようなものに帰るのが、いちばん問題がないのかもしれないと、よく思う。最近のパソコン使用のあれこれに通暁するのは、ひと昔前でいえば、ようするに印刷屋さんの仕事をわざわざシロウトが引き受けてしまうということだから、あまり追求しすぎるのも、精神への大きな影響を考えれば、どうかと思う。靴フェチのレチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、口にくわえたりした活字でいきなり組み上げながらものを書いていったそうだし、印刷屋を一時期やってみていたバルザックにもそういう時代があったかもしれないが、人がものを書く時にいきなり活字に接するというのは、ひょっとしたら大きな過ちを犯しているのかもしれない。なにかを創出していく際の思考がじかに活字の存在を受けとめてしまうことが、どの程度、思考の文体を歪ませるか、拘束してしまうか、あるいは逆に創造的な弾みをつけるのか。これは、フローベールや宮沢賢治のような多層的なマニュスクリプトを残さなくなった現代の書き手たちを研究する際に、原理論として考察していかなければならない大問題だろう。 

■第一三〇号(二〇〇八年三月二十九日)
 詩に関する雑感、ふたつ。
 ロシアでもっとも人気が高い女性詩人のひとりといわれるヴェーラ・パーヴロワ(一九六三―)が去年出版した詩集『隣の部屋への手紙。愛に関する千一の説明』は、活字を一切使わず、直筆の手稿をそのまま写真印刷したものだったという。そこに自分が撮った写真や、娘時代の絵などが添えられて、全六一六ページ。個人的な日記帳か、旅の記録帳のような印象だそうだが、けっして読みやすいとはいえないらしい体裁のこの詩集を読もうとする時、読者はおのずとある程度以上の注意力を以て、心の乗り出しをせざるをえなくなるし、現実時間と空間から乖離した覗き込みをせざるをえなくなる。パーヴロワが求めたのは、そんな心の乗り出しと隔離、覗き込みだったろうか。
 パソコンとインターネットの普及は活字化の容易さを当然のものとしたが、技術がさらに進めば、つぎに来るのはふたたび、そして、いっそう決定的な活字離れに違いない。手書き文字、さらには、顔文字、絵文字、象形文字、絵、戯画、漫画、抽象図形、記号。活字をならべて表現する詩歌や文章は、もう少し行った時点で、後戻りできないほど過去のものになるかもしれない。
 思うのだが、電子メールなるものは、二十一世紀ともいうのに、おそろしく古色蒼然たる媒体である。伝えたいことをそのまま声で入力し、手軽にそれに推敲・加工処理を施した上で、向こうには全く違った他人の声で、たとえば、好きな俳優や歌手の声で、あるいは瞬時につけられた曲とともに歌声として伝わったり、さらには映像や抽象的な多彩な色の光の点滅ダンスで伝わるようなソフトが広まっていくのに、もう、それほどの時間はかからないだろう。いちいちキーボードを叩いて打ち込むのは愚かすぎるし、だれもが解放されたがっており、飽き飽きしている。脳科学の世界の人々は、じかに電流で、さらには波動で、〈霊〉で、脳どうしをコミュニケーションさせる方法について、だいぶ前からいろいろと実験を進めている。
 筋肉や脳にチップを埋め込むのを法的に強制して、コミュニケーションを格段に強化する方法についてもいろいろとプランができているらしいが(もちろん、最大の目的は、第二次大戦後連合国体制側の人員としてひとりでも多くの人間をコントロールするため)、非人間的にみえるがゆえに一見不可能そうなこの政策も、資源の無駄遣いを大幅に省くエコロジー政策キャンペーンの一環として世論を喚起すれば、けっこう容易に実現していくことだろう。「地球にやさしく」とか「地球を救おう」などという泣かせ文句には、この★の住人たちはやけに弱い。われわれは皆、魂の奥底でナチ党員なのだ。誰もが従わざるをえないような大義名分の旗の下に統率されたがってウズウズしている。それぞれのお国柄にあったワーグナーをかければ、誰もがイチコロである。
(…ところで、これは蛇足だが、第二次大戦での殲滅収容所、南京、沖縄、大空襲下の諸都市などママゴトに見えるような凄まじい残虐な戦乱の時代が、十年内外で必ずやってくるだろうと思えてならない。そういう匂いがする。匂いは強くなるばかりだ。しかも、どんどん早まっている。どの地域も逃れられないのではないだろうか。他人事としてアフガニスタンやイラクを見ていた他国の人々は、まったく同じ状況に引き入れられる。餓え、強奪、さまざまな毒、荒廃、陵辱、虐殺、破壊、病、汚染、死滅…、独占的な権力構造が生まれるまでは、これらが何年も続く。古来、人類が作り出した最新兵器が大々的に使用されなかったことは一度もなかった。この数年での兵器の発展の凄まじさは、素人でも少し調べればすぐに辿れるが、それらを大量生産するべく、方々の工場に設備投資がなされている。新型兵器実験場だったアフガン、イラク。原爆並みの威力をクリーンに発揮するロシアの気化爆弾など、大都市に落とされたがってウズウズしているように感じられる。この一〇年以内に老衰で死ぬ者は、おそらく、もっとも幸福だったということになるのだろう… 思い出しておくべきだが、由緒正しい詩人というのは、古来、予言や預言をこそ主たる活動としていた。十九世紀以降の、いや、中世以降の、またギリシャ・ローマの軟弱詩体こそ滅びるべきである。この動乱の時代にあって、どうして古代ユダヤ詩やメソポタミヤ詩などに戻っていけないことがあろう…)

 さて。
 隣りの韓国の社会では、詩は、日本よりも格段に尊重されているとも聞く。『朝鮮日報』(二〇〇七年七月二十日付)によれば、ソウル市内の有名詩人たちの詩碑は、一九四六点あるという。彫刻などとともに、公園やバス停、地下鉄、大きなビル内、公共施設などに設置されている。日本でも、歌碑や句碑はけっこうあるが、それにはるかに勝る量だろう。
 大学などでは、もし文学部に教授が三人いれば、詩、小説、評論をそれぞれが受け持つのが普通で、しかも、どの場合も実際の詩人、小説家、評論家である場合がほとんどらしい。実作をしない者が教授をしている場合は非常に少ないという。
 また、地方出身の詩人たちに対しては、地方公共団体が後援して行事を行ったり、出版したりするのが普通だというのも羨ましいかぎりだ。
 詩は、根本的にロマン主義的な熱情のうねりをたっぷりと持つか、イロニーをふんだんに会話にまぶさずにはおれない人々の国で尊重され続ける。
 日本は…
「此所では喜劇ばかり流行る」。
 漱石、『虞美人草』末尾。

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