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ARCH 69

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 13
        [第一三一号〜一三四号・2008.3.29〜2008.4.2]


■第一三一号(二〇〇八年三月二十九日)
 三月二十七日の「日本経済新聞」の文化面に、二・八ミリのミニミニ盆栽の植え付けに成功した千嶋満雄さんという人の文が載っていた。多肉草の仲間で、鉢をあわせても高さ五ミリほど。土は五、六粒が入る程度。しかし、緑あざやかで、根はしっかり張り、「呼吸も光合成もして、ちゃんと生きている」。
 高さと鉢の直径が二センチ以下の盆栽を、この人は「極小豆盆栽」と呼んでいるそうで、当然ながら、これに使う鉢は専門に製作しないといけないという。豆粒ほどの粘土の塊を縫い針でつついてへこませていくそうだが、根腐れしないようにと底に穴を開ける作業が、なによりも難物らしい。また、つねに小さなプラスチックケースとピンセットを携帯していて、極小の苗木探しにも余念がない。採ってきた苗は、最低一年間、苗床に差してガラス棚に入れ、根がしっかり張るのを待つのだという。
 すごいのは、この趣味に打ち込むために、仕事を替えたという点。ずっと輸入関係の会社に勤務してきたが、生活が不規則にならざるを得ず、退社。新聞配達員とマンション管理人の仕事に切り替え、盆栽管理に適した規則正しい生活を得た。毎日の水やり、根の張りの確認など、人任せにはできないので、旅行もせず、早朝の新聞配達、マンション管理、そして盆栽の世話で大忙しの満ちたりた日々が流れていく。毎晩、疲れを癒しながらの風呂が至福の時だという。
「小さなものは本能的に好きだった」(そんな本能ってあるの?)という千嶋氏の文章は、素人の文章ならではの楽しさに溢れている。日頃もいろいろと文は書くのかもしれないが、しかし、それを仕事とはせず、それを自己表現の具ともしない人ならではの文というのは、愉しい場合がほんとうに多い。新聞、雑誌、サイト、ブログ、文芸書、新書、ビジネス書、学術書などの、どれをとってもコンビニの商品のように刈り込まれてしまった末の文章商品に厭いてしまった者には、たまに見つかる素人文は貴重品で、鄙びた茶屋での素朴なお団子に出会ったような気になる。
 最近読み直しているアンリー・ミショーHenri MichauxのLes grandes epreuves de l'esprit(Gallimard,1966)[…『精神の大いなる試練』とでも訳すのだろうか。翻訳は読んだことがないのでわからないが…]に、コミュニケーションや提示(今ふうに言うとプレゼン?)の容易な表現、切り離して使いやすい表現、安易に社会化されやすい表現などの危険について語られている部分がある。書き手が、自分の言葉や思考や表現行為をコントロールしすぎることの甚大な危険についても語られている。コントロールできてしまっている時点で、そもそも、思考や表現は破滅状態にある。考えること、表わすことは、自分の位置もわからない五里霧中状態をいっそう募らせる場合にのみ意味がある。
 いわゆる普通の文章作法やプレゼン技術などさっぱりと否定して省みないこんな偉大なる先達に接すると、たちまち精神が浄化されていくようで、気持ちいいことこの上ない。六〇年代のミショーはやはり、この二十一世紀初頭などよりも遥かに先に行ってしまっていたんだということが如実にわかって、ひさしぶりに、また、今さらながらに、賛嘆、敬服の念が尽きない。
 ところで、最近の『ぽ』では、いかにもミショー的ではないものを連続して掲載している。もちろん意図的。ある意味では、プレヴェールやデスノス、ジャム、まどみちお、金子みすゞなどへのオマージュでもある。
 自動車やバイク、自転車に乗る人なら、自分の機械が平地や坂やじゃり道、車庫入れ、細い路地や高速道路でどのように動くかを実地で確認しつづけるものだろう。詩歌にかかわる人にとっては、言葉も思考・感情も、内部になど存在しない。すべてそれらを外部に持ち、道具として使うだけのことだ。人間とは言葉で、言葉だけが人間だと考えるべきだが、しかし、詩歌の人々は人間にはすでに属していないので、言葉が自分の外部にしか存在しないのを痛感している。こういう彼らが関わる詩歌は、思考・感情や内面の表出でなどない。たびたび言うように、それらは言語配列、ないしは活字配列にすぎない。それ以上のものでも以下のものでもない。ある言語配列のしかたをする時、なんらかの特有の意味あいや雰囲気が生まれるとしても、それに執着もしていなければ、それを主張してもいない。いくつかの普通名詞や固有名詞にいくつかの形容詞や副詞をなんらかの仕方で付け、さらにあの助詞、この助動詞をこんなふうに付ける、そうすると、なるほど、こんな色合いが出てくるように見えるわけか、…こんな実験をひとつひとつの作品でやってみているにすぎない。しかも、それらの実験のどれもが、いわゆる人生や社会や世界や愛や信義などよりも、よほど大切で面白い。詩歌にかかわる人たちなら、だれもそうだろう。いうまでもない常識である。

■第一三二号(二〇〇八年三月三十一日)
 咲いている桜は嫌いではないが、桜のみこうに見える薄ぐもりの空や、花冷えが大嫌いなので、花見というものをほんとうには愉しめないでいる。
 桜の満開の下を、コートやジャムパーなどを着た冬着の人たちが行くのを見るのもつらい。
 満開の梅園で、土の露呈したさまや、やはり曇り空を見るのも嫌で、どうにも春先の花は苦手だ。
 桜を見ていて、ふいに心愉しくなるような時というのは、きまって、真っ青に空が晴れ上がり、気温が高めの時に限られる。春先ではめずらしい天気の場合だが、こんな好みがつくられてきた過程には、自分なりの人生の経験の堆積があるように思う。
 桜、と聞いてまっさきに思い出すのは、レンゲ草やシロツメクサで真緑になった地面がひろがる中に、大きな桜の木がたわわに咲き満ちている情景で、これは小学一年生の入学時前後に見た小学校風景だ。レンゲ草は桜よりもはるかに深いきれいな赤い花々をつけてひろがり、空は真っ青に晴れ上がっていて、こんな中に白く浮き上がっている小学校は、緑にあふれた遊びの楽園のように見えた。
 子供の頃七年ほどを愛知県で過ごしたが、とくに5歳からは、当時としては最新の集合住宅建設プランにもとづいて建設されたものらしい岩倉団地に移り住んだ。団地としては、画期的なものだったらしい。この団地については、今でも、建築家たちがいろいろと語り続けているのを見たりする。いまは市になっているが、その頃の岩倉は本当の田舎で、田んぼや葦の生え広がる湿地の中に、真新しい団地だけが浮かんでいるといった様子だった。岩倉駅から団地までは、歩いて二十分以上はかかったように思う。
 こんな頃に、岩倉の人口を一挙に増やした団地の住人の子どもを収容すべく、真新しい岩倉東小学校という新設の小学校が、やはり、水田のど真ん中に島のようにひょこっと新設された。ぼくらは、団地の大きな島から、新設小学校のちょっと小さな島へと登校するのを日課とし、梅雨や台風の時期など、団地と学校を結ぶ道は洪水となった水田の水に浸されるのがつねだったので、子供を登校させる大人たちにとってもヒヤヒヤだっただろうが、ぼくらにとっても、大冒険の日々だった。学校が終わると、田んぼや小川の水のなかに入っていって、蛙やドジョウやザリガニ採りに興じる。数時間も採っていれば、バケツ数杯は採れるので、いっぱいなると、学校の理科観察池に持っていって、どぼどぼとそれらを放つ。父兄参観日や父兄懇親会のたびに、きまって先生から親たちに、蛙やドジョウやザリガニは、わざわざ観察池に入れなくても、学校のまわりの水田にも川にもごっそりいるのでどうか入れさせないでください、金魚やフナや鯉などが窒息しちゃってますから、とのお願いが出た。
もっとも、子供にとっては、金魚なんかよりも蛙やドジョウやザリガニのほうが楽しいので、どんどん入れ続けたけれども。陸には野犬もいっぱいいたが、水辺にはイタチなどもいて、夕方など、ふと草に茂みのむこうのイタチと目があったこともある。連中は獰猛で、学校のウサギ小屋はよく荒らされた。登校の時、校庭に生ソーセージのようなものが繋がって落っこちていたりするのでなんだろうと思ったら、何匹もウサギの腹が引き裂かれて、その内臓が撒き散らされていた光景だったなどということもあった。
 桜、と聞いて思い出すのは、こんなふうに過した真新しい岩倉団地と、やはり真新しかった岩倉東小学校の日々なのだ。春、どこまでも広がる田んぼには麦が植えられていたが、そうでないところや学校のまわりのひろい空き地は見渡すばかりのレンゲの赤と緑のひろがりで、青空の下、その中に満開の桜が並んでいる。ぼくにとっての桜は、ああでなければいけないので、曇り空が桜の花のむこうに透けてみえたり、肌寒かったりするのでは、台無しになってしまうのだ。

 あの頃の岩倉では、台風が来ると、団地を取り囲む稲田がざわざわと鳴り止まず、家の中にいても一晩中その音が聞こえていた。
当時の最大の愛読書は講談社コミックスの『ゲゲゲの鬼太郎』数冊と『巨人の星』ほぼ全巻だったが、幼稚園から小学校低学年時代のぼくは、幽霊や妖怪をほんとうに信じていたので、稲田のざわめきの中に、さまざまな化け物の声を真実聞き取ろうとして、夜な夜な耳を澄まして眠ったものだ。深夜にふと目が覚めると、カーテンをちょっと開けて、外をのぞいて見る。夜でも時どき勤め帰りの人が歩いていたりするのだが、あの頃は、八時以降の夜中に人間が歩いているはずがないと信じていたので、そうした夜歩きの人々はみんな妖怪や幽霊なのだと思っていた。幼稚園や学校に翌日行くと、かならずその話をしたものだが、友だちたちもきまって信じて、やっぱり夜っていうのは怖い、幽霊や妖怪が人のかっこうをして平気で歩いているんだものね、いつか家の中に入ってきたらどうしようか、と非常時体制について話はひろがっていったものだった。
 漫画といえば、うちの親の検閲はなかなか厳しく、鬼太郎や巨人の星以外の漫画はなかなか買ってくれなかった。「少年画報」や「少年マガジン」「少年サンデー」「少年キング」はなぜか買ってくれる時があった。「少年キング」には当時、必ず古典的な怪談の漫画ページがあって、ラフカディオ・ハーンや講談に出てくるようなお化け話は、たいていそこで読んだ。少年時代のぼくは、漫画の絵に描かれたお化けたちというのは、深夜にこちらが寝入っている時、かならずページから出て部屋を徘徊したりしていると信じ込んでいたので、寝る前には「少年キング」だけは特別になにかの袋にねじ込んで、さらに大きな紙袋で包んで、上に他の雑誌やカバンで重石をしたりして、しっかり防衛措置を講じてから寝た。それでも、ベットに入ってみると、「少年キング」のまだ読み終えていないページが無性に気になって、読みたくなったりする。そこで、せっかく厳重な封印をしてあるものを解き、もう一度、パラパラと開き始める。が、そうやっているうちに、例の怪談漫画ページがひょいと開いたりしてしまうと、ゾーッとして心身膠着状態に陥る。こんな時間にこのページを開いちゃったら、もう今夜はだめだ、来るぞ、どうしよう、とかなり焦り出す。しかし、同時に、まだ漫画の中に化け物たちが描かれたままになっていて、そこから飛び出してはいないのも確認されて、まだ大丈夫みたいだ、とちょっと安堵する、…夜な夜なこんな事態がくり返されて、まことに心休まらぬ少年時代だったと今も思う。
 そういえば、うちから一分ほどの近くの書店では、よく、漫画を含めて雑誌の立ち読みをした。買ってもらえない漫画週刊誌はほとんど毎週、そこで読んでいた。『少女フレンド』や『マーガレット』など少女漫画雑誌は、祖父の家にいくと、十歳しか年の変わらない、まだ中高生だった団塊世代の叔母さんの部屋にいつも山積みになっていたので、書店ではわざわざ見なくてもよかった。祖父の家に行くとよくテーブルの上にあった『朝日ジャーナル』とか『週刊毎日』とかなんとかは、子供にはどうにも面白くないので手を出さなかったが、『平凡パンチ』とか『週刊プレイボーイ』とかは、しっかりと毎週、立ち読みをしていた。といっても、五歳から九歳ごろの男の子にとっては、『不思議の国のアリス』のアリスの感慨同様、文字のページというのは楽しくない。お気に入りは裸のオネエサンたちの写真が出ているページに決っていて、ずいぶん時間を費やして、そういうページばかり見て夕暮れを迎えた気がする。あれらの雑誌は、若かった全共闘世代あたり向けのものだったのだろうが、いまでも風俗面の話題でそういう上の世代とあまり違和感を感じないのは、少年時代にぜんぶリアルタイムで見尽くしていたからだったのだろう。ちなみに、裸のオネエサンたちの写真への親しみは、その後、おかげさまでつつがなくずっと続いている。
 ついでにいえば、『日本版月刊プレーボーイ』は、やはり叔父が全冊もれなく買って、押入れの中にきれいに重ねて隠してあった。こちらも高校生から大学生になっていたので、祖父の家に行く時には、叔父の部屋詣では楽しいものとなった。この頃には文字を読むのも楽しくなっていたので、開高健が生きていた頃の油の乗った『日本版月刊プレーボーイ』は、ほぼすべて読み尽くした。あそこに出る裸のオネエサンたちは、『平凡パンチ』とか『週刊プレイボーイ』のそれとはレベルが違った豊饒、華麗、陶然、浪漫を極めていて、「裸のオネエサン」的見地からも、やはり、世界に出て見聞を広めていかなければいけない、と決意を固めたものだ。あれ以来、しばらく、『日本版月刊プレーボーイ』は雑誌としてレベルが急降下し、くだらないものになってしまっていたが、最近、またいい雑誌になってきていることに、はたして、「裸のオネエサン」主義者たちはお気づきだろうか。モデルも写真も、今どきの感覚からいえばたいしたことはないが、文章や編集が格段によくなっている。ちょっと方針転換したか、編集長がよくなったのか。妻がファッション誌に関わっているので、いっしょに書店に行くと、女性としては手にとりづらいこの雑誌を、よくぼくが開いて、いっしょに見ていたりする。こちらは裸のオネエサンを注視し、むこうは雑誌の編集ぐあいを観察している。
 そういえば、少年時代から変わらない趣味で、今現在も、うちの中は裸のオネエサンでいっぱいになっている。ふと気を抜くと、オネエサン写真をそこらに貼ってしまうのだが、自分としてはかなり上質のオネエサンたちを貼っているつもり。なにせ、こういう点ではヘンリーミラー先生やバロウズ先生やブコウスキー先生やカサノバ先生の後塵を拝しているので、これはこれで気が抜けないのだ。もちろん、パソコンなど、壁紙もスクリーンセイバーもオネエサンである。ファッション誌の仕事をしている妻は、そういうのを見ると、写真の撮り方がどうのこうのとかモデルの質や扱い方がどうのこうのと、いろいろ言う。こういう専門的な話題に気が向かってくれるのはこちらとしては便利で、図に乗っていっそう大胆なオネエサンに登場してもらったりするのだが、さすがにやり過ぎると、急に不機嫌になったりするのが困る。世界レベルの豊饒女体をさんざん見せつけていると、「ようするに、ボ〜ンキュッ、ならいいのよね、女はしょせん胸とヒップなのか、こんちくしょう」と騒ぎはじめるので、言語表現のレトリックをいろいろと弄する必要に迫られる。
 とはいえ、オネエサンたちをひたすら隠さなければならないような家庭には断じてしたくないので、少年時代よりの趣味を変える気もなければ、オネエサンたちのいっそうの渉猟もやめる気はない。たまたま、ちょっと文学と関わる人生になってしまったが、文学世界の最大の親分には谷崎潤一郎やマルケスや西鶴がいたりするのだから、清貧とか純潔とか、そういう先細りの枯れた趣味は真似したくもない。
 そういえば、十年ほど前から、ソメイヨシノ嫌いはそのままに、たっぷりと肉厚の感じを出す八重桜などのほうを好むようになった。肥満した女体の鬱然たるエロスを思わせ、あれらの満開の下をゆるゆると歩くのなど、まことに楽しい。フェリーニなら、きっと、この愉しみに頷いてくれただろう。ソメイヨシノが滅びた後の暖かくなってきた春の時期を選んで開花していくあれらの桜こそ、潔く散るのをよしとする軍国精神を徹底的におちょくって余りある、したたかな艶然たる本来の桜だと思う。なかなか散らぬ、ぼってりとしたあの風情にこそ、ぼくは勝手に日本文化の本質を見ている。過去の、そして現代のニッポンとの戦いに際して、ぼくはひとり、八重桜的なるものにこそ陣地を張っている気がする。やり過ぎ、ゴテゴテ、悪趣味、匂いと味と油っけと色と様式の大盛りのごった煮としての日本。生来の悪食、悪趣味好きを、そろそろ我が人生の核心にしっかりと据えていこうかと思う。

■第一三三号(二〇〇八年四月一日) 
 前の号に、曇り空の下で見る桜が嫌いだと書いたばかりだが、強風ではあったものの、きょうは青空の下で桜が照り映えているのが見えて美しかった。仕事ではるばる湘南まで出向いたが、風のおかげで山容はくっきりと見え、桜ばかりか、まだ花をつけている梅園まであり、花の景色に恵まれた一日だった。
 午前中は富士山もよく見えていたというが、午後、山のあたりは雲に覆われた。暮れ時、富士の山頂だけが雲間から静謐な輝きを覗かせていた。
 弟子としてヘンリー・ムーアについていた、イギリス滞在の長かった彫刻家小林芳雄氏といっしょだったので、「大観みたいに、あんな富士の絵をどんどん書いたら、たちまち金持ちになるでしょう」と言ったら、「そうだろうね、社長室なんかにいいようなそんな絵は、いっぱい買ってもらえる。けれど、それをやっちゃあ芸術家はおしまいだからね」と彼は言った。その後、しばらく、富士のブロンズ像を作ったらどうかとか、雲のブロンズ像や彫刻はどうか、などとつまらない話題を持ちかけたが、そんなことはもう、誰かがやってるよ、ということだった。話はいつの間にかミケランジェロのことに移り、彼の作ったモーゼに角があるのは誤訳をそのまま形象化してしまったからだとか、システィナ礼拝堂の皮剥ぎの刑にあったバルトロメイの生皮に描いてあるのがミケランジェロの自画像で、バルトロメイの上にあるのがミケランジェロと同性愛関係にあったお偉いさんだとか、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のパンは、膨らましていないユダヤのパンでなければいけないのに、あいつは描き間違ったんだぜ、などと尽きることがなかった。

■第一三四号(二〇〇八年四月二日)
 ぽ二七八号「ティッシュペーパを、一枚」のPDF版では、太字の題名部分の長音記号とカンマが、どうしてもうまく表示されない。もとの版では問題がないのだが、PDFにすると、その部分だけが横書き表示のままで、縦書きの中に組み込まれてしまう。(太字を解除した場合にも、本文よりも大きい文字を使うと、同じ現象が起こる)
 PDFのこの点の操作について詳しい方がいらっしゃれば、教えてください。

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